水精石
10
蟄龍とは地中などに潜んでいる龍のことだ、と記事には書いてあった。
水を生じる石。
俊はじっとこちらを見ている晴辰に石を差し出した。
「この石の中には、龍がいるらしい」
「……へえ」
晴辰は身体も俊のほうに向き直り、いっそう笑みを深くした。
急に空気が重くなったような、変な圧迫感が俊を襲った。怯みそうになる。背中を冷や汗が伝う。踏み込んではいけない領域に、今この瞬間、足を入れてしまった気がした。
晴辰はそんな俊の様子を、おもしろそうに眺めている。
「──君はどう思うの?」
急に声の質が変わった。
「本当に龍がその石の中にいると思う?」
まるで腹話術の人形を見ているようだった。声も口も晴辰のものなのに、そこから出てくる言葉には晴辰ではない別人の気配が潜んでいる。
俊はごくりと喉を鳴らし、どくどく音を立ててる心臓の音を聞きながら、晴辰の姿をしたものを見つめた。
「……オレにはそんなことは分からない。正直、どうだっていい。ただ、その石が現れてから晴辰の様子がおかしくなった」
龍なのかどうなのか、この際そんなことはどうでもよかった。肝心なのは、晴辰がもとに戻ることだ。
今、目の前にいる別人にならないようにすることだ。
晴辰の姿をしたものも俊を見返す。
「弟を返してくれ」
さんざん邪険にしてきた自分がこんなことを言う日が来るなんて、思ってもみなかった。でも、このまま見なかったふりをして過ごすことはできなかった。失うことはできなかった。
晴辰のこと、オレはオレなりに大事に思ってたんだ。ようやくそのことに気がついたのだから。
「……そう」
彼は小さくつぶやくと、俯いて、目を閉じた。
俊はとっさに身構えるが、彼はしばしの間、黙ったまま動かなかった。固唾を飲んで、じっと様子を窺う。
沈黙が痛い。
この状況でただ相手を見ているだけだなんて、じれったくもあり、恐ろしかった。何か動きを見せてほしい。
と、俊の思いが通じたのか、ふいに彼が口を開いた。
「──そらの上にも湖があるんだ」
「……え?」
何の話だ。
とまどう俊に、彼は目を開いて微かに笑みを浮かべると、俊の傍まできて、水精石を手に取った。
「その湖は広くて澄んだ水で満たされていた。底は見えないくらい深い。それもそのはずで、湖は地上に繋がっていたんだ。そもそも底なんてなかった」
彼は石を見つめたまま、苦笑する。
俊はその笑顔を間近に見て、はじめて彼が感情らしい感情をその瞳に宿していることに気づいた。なんだろう。悲しいのだろうか。その笑顔は泣き笑いのように見えた。
「ある日、その湖で泳いでいた俺は、急に湖の底を、いや地上を見てみたくなった。澄んだ青い水を掻き分けて、深く、深く。そして───落ちた」
「落ちた?地上に?」
うん、と彼は頷く。
俊はこんな状況にもかかわらず、一瞬ぽかんとしてしまった。こういってはなんだが、なんとも間抜けな話だと思った。
俊の表情でそう思ったのがわかったのか、彼は幾分まなじりを下げて笑む。
「たぶん、そうなんだと思う。気づいた時には、石の中で眠っていたから」
「たぶんって、覚えてないのか?」
再びうん、と頷くと、彼は石を手の中で遊ばせながら、畳を眺める。いや、その目は畳を通り越して、俊には見えない彼だけの思い出の景色を眺めていたのかもしれない。
彼はぽつり、ぽつり、と話はじめた。
「──ずっと石の中で眠っていたから、もう天で過ごした日々の記憶もおぼろに霞んで忘れてしまった。ただ覚えているのは、湖での水の感触と淡い日差し、そして誰かの面影。その人は、俺の……」
影のようにちらつく面影。知っているはずなのに、思い出せないもどかしさ。
彼は少しの間、目を細めて、記憶を手繰り寄せようとしていたが、やがて諦めたように首を振った。
「……懐かしいんだ、ただとても。懐かしくて、帰りたい。あの場所に帰りたい。ほとんど記憶もないのに変だろ?でも、湖の水も淡く差し込む陽光も、身体を吹き抜けていった風も、すべてが懐かしくて恋しい。あの場所はいつも光り輝いていて、そして……あの人がいる。会いたいんだ。すごく」
「……そうか」
いつも空を眺めていたのは、そういうわけだったのか。
郷愁。望郷。慕情。愛惜。
まだ俊には感じたことのない想いだった。自分の住んでいた世界から急に放り出されて、石の中で眠り続ける孤独はどんなものだっただろう。
そう思うとなぜか胸が締め付けられた。
「こんなに天が恋しくなったのは、君たちが蔵にやってきたときからだった。君たちを見ていると、何か思い出しそうになった。頭の中に誰かの姿がよぎった。俺に何か話し掛けている、その声を思い出しそうになった」
彼は一度俊を見て、またうつむいた。
「……だから、君たちの気を引こうと思った」
「じゃあ、オレが蔵で見た少年やハルの夢に出てきたのは、お前だったのか?」
「うん」
これで少年の謎も解けたというわけか。あとは晴辰を返してもらうだけだった。
「──お前、これからどうするつもりなんだ?」
「これから?」
「そうだ。晴辰をどうするつもりだ?」
ずっとこのまま、というわけにはいかない。
俊は途端に険しい瞳で彼を見たが、それに対する彼の答えは非常にあっさりしたものだった。
「俺は帰るよ」
「……天にか?」
「そう」
彼はぽかんとしている俊を見て笑う。
「力はもうずいぶん前に戻っていたんだ」
「じゃあ、なんで今まで」
「力は戻っても、条件が揃わないといけなかった」
「なんだよ、それ」
「俺と波長の合う人間。そして帰りたいという意志と天の記憶」
彼は右手で俊を指差した。そして、左手を自身の胸に当てる。
「晴辰は波長が合ったから身体を借りた。水精石を水気の溢れる場所に運ぶ必要があったから。そして、君には帰る意志と天の記憶を取り戻すきっかけをもらった」
「じゃあ、晴辰をどうこうするつもりはないんだな?」
「ない」
きっぱりとした返事に、安堵する。よく魂を持っていかれたり、命をとられたり、身体をのっとって悪さをしたり、という話を本などで読んでいたから恐ろしかった。
だが、彼の目的は本当に帰ることなのだ。彼がそれを望んでいることは、今までの会話から感じることができた。
「明け方に行くよ」
ぽつりとつぶやかれた声に、俊は一瞬反応が遅れた。
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