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水精石
1


 焼けつくような陽射しから逃れるように、開け放たれた玄関に足を踏み入れた。ひんやりした空気が火照った肌を包み込むのを感じながら、俊(しゅん)は奥に声を掛けた。

「こんにちは」

 すぐに、応答の声が聞こえた。一年ぶりに聞く叔母の声だった。叔母は、いま手が離せないらしく、居間から顔だけ出して笑顔を見せると、手に持っていた受話器を示して、もう一方の手で家に上がるように身振りした。それに頷いて頭を下げると、弟の方を振り返った。
 
 弟の晴辰(はるとき)は、ようやく門をくぐったところで、暑さにやられたのか、少しぐったりした様子で歩いてくる。それとは対照的に、仔犬のカタシロは元気に晴辰の足元を駆け回っていた。

「ハル、早くこい。とろとろするな」

 声を掛けると、晴辰はうつむけていた顔をあげる。

「……だって、暑くて」
「夏が暑いのは、当たり前のことだろ」
「それに、気持ち悪い……」

 見れば確かに顔色が悪い。軽い日射病になったのかもしれなかった。歩くのが遅いからと、弟を置いてさっさと来たことに少し引け目を感じた俊は、自分のスポーツバッグを足元に置くと、弟のところまで戻って荷物を持ってやった。

「さきに中に入って休んでろ。叔母さんは、居間にいるから」
「……うん」

 ついでにカタシロのリードも受け取って、水を飲ませに行こうとしたが、今玄関に入ったと思った晴辰が、すぐに引き返してきた。

「まだ、何かあるのか」

 暑さでイライラしていることもあって、煩わしげな声で訊ねると、晴辰は何か言おうとして口篭もった。だが、きゅっと口元を引き結ぶと俊の傍までやってきて、カタシロのリードを取り戻して庭のほうに歩いていく。

「おい、気分が悪いんじゃなかったのかよ」
「うん。だけど、カタシロの世話は僕がしないと」

 そう言って、仔犬を抱き上げる。全身が黒い毛で覆われた仔犬は、左の前足だけが真っ白だった。だから、カタシロと名がついた。この春から、家で飼うことになった仔犬は、弟がいっさいの世話をするという条件で、やっと母の許しを得たのだった。

 普段から、晴辰が律儀に母との約束を守ろうとしているのは知っていた。毎年夏休みになると遊びに来ている祖父の家に、カタシロを連れて行くと言い出したのも晴辰で、あらかじめ電話で祖父に了解をとっていたことも知っていたから、俊は黙って弟の後についていった。

 玄関のわきを通って庭に入ると、裏山から引いている湧き水のもとまで行く。晴辰は俊に持ってもらっていたリュックから、カタシロがいつも使っている水飲み用のプラスチックの器を取り出すと、湧き水を汲んでカタシロの前に置いてやった。仔犬は、飛び付くように水を飲み始める。

 晴辰はしゃがみ込んで、俊は立ったままでその様子を眺めていると、庭に面した縁側のガラス戸がガラガラと音を立てて開いた。軒下の風鈴がチロリと鳴る。俊が顔をあげると、そこには鳩羽色の着物をきた祖父の忠道が、好々爺然とした顔で立っていた。

「お前達、やっときたかと思えば、家に入りもしないで何をしとるんじゃ」
「おじいちゃん!」

 晴辰が嬉しそうな声をあげて立ち上がった。一年ぶりに会う祖父を前に、晴辰の表情は明るくなる。

「ほら、この犬が電話で言ってたカタシロだよ。かわいいでしょ。今、水をあげてたところなんだ」

 晴辰はカタシロを腕に抱えると、祖父によく見せようと掲げてみせる。

「おお、そうか、そうか」

 忠道は笑って仔犬を撫ぜると、つぎに晴辰の頭も撫ぜた。

「お前達も駅からここまで歩いてきて、暑かっただろう。さあ、中に入りなさい」

 そう言われて、具合が悪かったことを思い出したのか、晴辰は一瞬顔を曇らせる。しかし、すぐに笑顔を浮かべて、祖父の顔を見上げた。

「……うん。あ、ねえ、カタシロも中に入れてもいい?」
「足を洗ったらな。今、何か拭くものを持ってこよう」

 奥に取って返そうとする祖父を俊が呼び止めた。

「――じいさん、いいよ。ちゃんとカタシロ用のタオル持ってきてるから。母さんがそういうけじめはちゃんとつけろってうるさいから」

 そう言うと、忠道は振り返って、したり顔で頷いた。

「真紀子はそういうことは、昔からうるさかったからな。今もあいかわらずか」
「まあね」
「そういうお前さんもあいかわらずじゃの」

 これには肩をすくめてみせて、俊はリュックからタオルを出してやった。晴辰はそれを受け取って縁側から家の中に入っていく。その背中に、後で靴を玄関に戻すように言って、俊は玄関に置きっぱなしのスポーツバッグを取りに行った。

 祖父の家には、夏休みになると一週間ほど滞在するのが毎年の恒例行事となっていた。一昨年までは母も一緒だったが、俊が中学に入学してからは、母は仕事の休めない父の世話をするため家に残り、俊と晴辰だけで祖父の家に訪れるようになっていた。

 泊りにきたときにいつもあてがわれる十二畳ほどの座敷に荷物を置くと、そこへ叔母が麦茶を持って現われた。叔母は二つのグラスを机に置くと、俊に笑顔を向ける。

「さっきはちゃんとお出迎えできなくてごめんなさいね。ちょうど昌宏から電話が掛かってきたものだから」
「いえ、」

 昌宏とは、今年大学生になった叔母の息子のことだ。東京の大学に入学した為、今は下宿しているはずだった。

 叔母は二十歳で結婚してすぐに昌宏を生んだから、姉である俊の母よりも年長の子供がいることになる。それに対し、母は結婚するまではバリバリのキャリアウーマンで、仕事を生き甲斐にしていたような人だったから、比較的結婚も遅かった。その母も、三十歳の時に父と出会って結婚し、その翌年に俊が生まれたというわけだ。

 そういえば、まだあいさつも何もしてなかったことを思い出し、俊はあらためて頭を下げる。

「今日から一週間、弟ともどもお世話になります」
「まあ、こちらこそ。たいしたおもてなしもできませんけど、ゆっくりしていってちょうだいね」

 叔母は律儀にあいさつする俊にちょっと笑ってから、座敷を出て行った。それと入れ違うように、カタシロを抱いた晴辰が入ってくる。そちらにちらりと視線をやって、仔犬の足が綺麗になっているのを確認した。

「足、ちゃんと拭いたんだろうな。濡れたまま畳の上を歩かせるなよ」
「大丈夫だよ」

 そう言って、晴辰はカタシロを畳の上におろすと、だるそうに横になってしまった。

「おい、」

 まだ具合が悪かったのかと、弟の顔を覗き込むと、晴辰はうっすら目を開けてこちらを見返してきた。額に手を当ててみる。少し熱い。やはり、長時間外にいたため、日射病になっていたのだ。

「具合が悪いならそう言えよ。麦茶、飲めるか」

 叔母が持ってきてくれた麦茶を渡すと、晴辰は身体を起こしておとなしくそれを飲んだ。

「………だるい」
「日射病だろ。水分とって、休んでいれば大丈夫だよ。夕方まで寝てろ」
「……うん」

 頷いて再び横になると、そのまま眠ってしまう。押入れからタオルケットを取り出して晴辰に掛けてやると、足にじゃれついてきたカタシロを抱き上げて、俊は座敷をそっと抜けだした。



 とくに行くあてがあるわけでもなく、カタシロを膝の上にのせ、縁側でぼんやり庭を眺めていると、ちょうど庭の向こうにある蔵から、祖父が木箱を持って出てくるのが見えた。



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