月の喫茶店 昔、不思議な青年に出会った。 まだ、五、六歳の頃の話だ。 その日、風邪をひいて保育園を休んでいた僕は、二階の自分のベッドに寝かされ退屈していた。薬を飲んだおかげで、一時的に熱が下がっていたので、身体もだるくはなく、少しばかり咳をコンコン、とするくらいだった。 子供はじっとしていることが苦手だ。その頃の僕も例外なくそんな子供のひとりだったので、おとなしく天井の木目を見ているのにも飽きて、ついにベッドから抜け出した。 お気に入りの赤いスポーツカーのおもちゃを出してくると、それをあちこちに動かして部屋中をドライブした。 「ぶーん、ぶーん」 エンジン音を響かせながら、床だけでなく、ぽんっと空中移動して柔らかいベッドの上を爆走したり、重力を無視して柱を昇っていったり、タンスの上を走ったりする。 そして、もう一度空中移動して窓ガラスの表面を走っていると─── 「………?」 僕は首を傾げた。 窓からは家の前にある公園がよく見渡せる。スポーツカーを走らせながら、なんとなくそちらを見ると、そこにおかしな格好をした青年がいたのだった。 「……へんなひと」 思わずそうつぶやいてしまうくらい、へんな青年だった。 彼はどこかの喫茶店から抜け出してきたかのような黒いウェイターの制服を着て、右手には双眼鏡、左手には透明なビニール袋を持ち、公園内をうろうろしている。 がぜん興味を抱いた僕は、スポーツカーを置くとパジャマ姿のまま公園に向かった。 薄いたまご色のスニーカーを履くと、庭の垣根を抜けて、公園に這い出す。青年はブランコの前をゆっくり歩いていた。僕はその姿を確認すると、とてとてと走りだす。 僕がすぐ傍までいくと、彼は僕に気づいて少し目を見張る。いきなり現れたパジャマ姿の子供に驚いたようだった。近くで見ると、思っていたよりもかなり若い。まだ二十歳くらいだった。 僕はすぐさま何をしているのか尋ねようとしたが、息を吸った瞬間、コンコンと咳き込んでしまった。 「──わ、大丈夫かい?」 青年は慌てて僕の背中を撫ぜてくれる。 そのおかげですぐに咳はやみ、僕はちょっと涙目になってしまった目を手で拭う。 「風邪かい?寝てなくていいの?熱は?」 青年はしゃがみ込んで心配そうに尋ねてくる。僕はそれに一度頷いて、でもまたすぐに首を横に振った。 「かぜだけど、へいき。熱はさがったよ」 僕がそう言うと、彼はそうかと言ってちょっと笑う。そして、急に制服のポケットをごそごそしはじめた。 「──ちょっと待ってて。どこかに飴があったはず」 「あめ?」 「うん。風邪をひいてのどが痛いときにはこれがよく効くんだ。──あ、あった!」 そう言って青年が取り出したのは、銀色の丸い罐だった。蓋を取ると、そこには小粒の月長石のような半透明の白い飴がいっぱい詰め込まれていた。 「これを舐めてごらん。痛みがすっとやわらぐよ」 「うん……」 差し出された飴をひとつ摘んで、思いきって口の中にほうりこむ。 すると── 「わあ、甘い。これ、とってもおいしいね」 僕が目を丸くすると、青年は口元をほころばせた。 「そうだろう?これは、月甘露っていうんだよ」 「つきかんろ?」 「そう。月の葉を発酵させてない状態で、砂糖水と一緒に煮つめて作ったものなんだ。甘くておいしいから、口が寂しいときに舐めたりすることが多いけど、本来はのど飴なんだよ。──どうだい、のどの痛みがやわらいできただろう?」 飴の説明はよくわからなかったが、本当にのどの痛みが消えていたので驚いた。僕がこくこく頷くと、青年は満足そうに微笑んだ。 「じゃあ、これは君にあげるよ。早く風邪が治るといいね」 「ありがとう、お兄ちゃん」 罐ひとつをまるまるもらって、僕はご機嫌だった。 「どういたしまして」 青年がにっこり笑う。 と、その時、ふいに空から葉っぱが一枚はらはら落ちてきた。それは僕の目の前を舞うように降りてくると、つるつるした緑の表面をこちらに向けて地面に落ちる。 僕は公園内を見回して、どこから落ちてきた葉っぱなのだろうと首を傾げた。周囲にはこの様につるつるした光沢のある葉を持つ木はどこにもなかったからだ。 すると青年が突然その葉っぱを拾って持っていたビニール袋に入れたので、僕はきょとんとしてしまった。 「それ、どうするの?」 不思議に思いながら袋の中の葉を見ると、青年は立ち上がって微笑んだ。 「これでお茶をつくるんだよ」 「お茶?」 「そうだよ。ほら、あそこに月が出ているだろう?」 青年が指差すほうに目を遣ると、真白くて丸いものが青い空に浮かんでいた。 「お月さま……?」 「そう、真昼の月だね」 「お月さまって夜だけじゃなかったんだ……。僕知らなかった」 びっくりしながら言うと、彼はちょっと笑って双眼鏡を差し出した。 「これで月を見てごらん。おもしろいものが見られるよ」 「おもしろいもの?」 なんだろう? 不思議に思いながら、双眼鏡を両手で持って、月を見る。 白くて少し欠けている月が見えた。控えめでそっと地上を眺めている姿は、黄金色に輝く夜の姿とは異なって、それとはまた違った魅力があった。 しばらくの間、真昼の月に釘付けになっていると、ふいにその月のほうから何かがひらひら落ちてくるのに気づいた。 「なんだろう?」 目を凝らして見ていると、陽の光を反射してきらきら光りながら落ちてくるのは、先程僕の前に落ちてきたのと同じ葉っぱだった。 「──あれは月の葉だよ。知ってるかい?月にはね、大きな大きな樹があって、その樹から落ちる葉がこうして地上に降ってくるんだ」 「月の葉?」 「うん。僕はその月の葉を集めて、お茶をつくっているんだ」 「お茶?」 「そう。そのお茶の名前は皓月茶(こうげつちゃ)というんだ。とてもおいしいんだよ」 皓月茶。 青年が微笑みながらそう言うと、本当においしそうに思えるから不思議だった。 「僕も飲んでみたい、そのお茶」 そう言うと、彼はすこし困った顔をする。 「……駄目?」 おそるおそる聞くと、青年は首を振る。 「駄目じゃないよ。ただ、そのお茶は今切らしててないんだ」 「そうなんだ……」 あからさまにがっかりする僕を見て、青年も申し訳なさそうにする。 「お茶は月の葉を発酵させて、それから乾燥させると出来上がりなんだ。だからたぶん、君の風邪がすっかりよくなった頃にはお茶もできてると思う。そうしたら君にもご馳走するよ」 [次へ] |