50,000hit感謝!! 春だから・1(銀新) かぶき町に春が来た。 長引いた冬もようやく終わりを告げ、温んだ空気が街を包む。 待ってましたとばかりに綻び始めた花々と、激しい寒暖の差に戸惑う人々で、街は妙に慌ただしく、そしてどこか浮かれている。 そんな状況が、俺たち万事屋にツキをもたらしていた。 春の陽気に身も心も、財布の紐まで緩んだ街の住人たちが、次々と万事屋に仕事を持ち込み、さらにはいつもより若干高めの報酬を気前よく払っていく。 おかげで万年冬だと思われていた俺の懐にも念願の春が来て、これがまた大層暖かい。 気を良くし、つい酒や博打に走りそうになる俺を引き留めたのは新八で、「まずは家賃の支払いでしょーが!」と言って俺の財布を取り上げた。 渋々、下のバーさんに数ヶ月分の家賃を手渡せば、返ってきたのは溜め息と呆れ顔。 いつもこうならいいんだけどねェ…とぼやきながらも、来たついでに、と言って昼飯を出してくれた事から察するに、バーさんでさえ春の到来には浮かれているらしい。 「おかわりヨロシ?」 「いいわけねーだろがァァァ!!!」 ……流石に、神楽の20杯目のおかわりにはキレたが。 「程々にしとけよ、神楽」 とっくに箸を置いていた俺は、心にもない事を言って席を立つ。 「どこ行くんですか?銀さん」 隣で熱いお茶を啜っていた新八が、棘のある声で俺の名を呼んだ。 俺がパチンコにでも行くと思ったんだろう。……大当たり。 「ちょっとくれェいーじゃねーか。まだ余裕あんだしよォ」 何が悲しくて、ガキの顔色を窺いながら趣味に興じなければならないのか。 不満に思わないでもないが、下手に機嫌を損ねてまた財布を取り上げられては堪らない。 「大丈夫だって、今俺らツいてっから。倍になるかもしんねーぞ」 自分の懐をポンポンと叩きながら軽い調子でそう言うと、新八は冷ややかな目で俺を一瞥し、それ以上は何も言わなかった。 その態度を“了承”と思い込む事にして、意気揚々と店の出口に向かう俺。 しかし、再び新八が引き止める。 振り向けば新八もカウンターの椅子から立ち上がり、俺の方へ近付いて来ていた。 反射的に懐の財布を庇った俺の腕を新八が遠慮なく掴み、手を退かそうとしてくる。 「オイ、何しやがんだ」 財布を守ろうと躍起になる俺に対して、どこまでも落ち着き払った新八は、無言で俺の胸元を指差した。 「醤油、付いてますよ」 新八の指先を目で追うと、白い着物によく目立つ、小さな茶色いシミがそこにあった。 「もォ…いい年してみっともない」 抵抗を止めた俺の腕を退かし、シミのある部分を触る新八。 「新八、コレ使いな」 ババアがカウンター越しに、新八に濡れた布巾を手渡した。 着物と体の間に手を差し入れた新八が、布巾をシミに当ててトントンと叩く。 ……やべ、恥ずかしさで死ねそう。 カウンター席でふんぞり返る神楽が、ニヤニヤ笑いながら俺を見ていた。自分だって口の周りに山ほど飯粒付けてやがるクセに。 シミと格闘する新八を、いたたまれない思いで睨み付ける。 と言っても、相手が俯いている為、頭頂部の旋毛をひたすら見ているだけだ。 俺にしたら奇跡のような直毛がそこから伸び、重力に逆らうことなく下へ流れて、動く度にサラサラ揺れる。 ──どんな毛根してやがんだコイツは。 恥ずかしさを紛らわす為に考え出した事が徐々に本物の興味へと変わり、俺は新八の頭へ顔を近付けた。 「ちょっと、動かないで下さいよ」 距離を縮めたせいでシミを拭きにくくなった新八が俯いたまま抗議の声を上げる。 それでも俺が離れずにいると、新八は不意に顔を上げた。 旋毛が遠ざかり、額が目の前に現れる。 ──その直後に俺がとった行動の理由を説明するならば、 ただ、丁度いい高さだったから、としか言いようがない。 もしくは──そう、春だからだ。 春だから、俺もちょっとおかしくなってたんだ。 店の空気が凍り付いているのが肌で感じられた。 そりゃそうだろう、何の前触れもなく、俺が新八の額に唇を押し当てたら、そりゃ誰だって引くだろう。俺だって引く。 いわゆる“でこチュー”ってやつだ。男が男にするモンじゃねーよ。 ゆっくりと唇を離し、新八の顔を見下ろす。見開かれた目と開きっぱなしの口が間抜けだった。 俺の着物を掴んでいた手がストンと下に降り、布巾が床に落ちる。 そこで漸く我に返ったらしい新八は、顔を引きつらせながらやっとの事で言葉を発した。 「え……何すか今の」 「……何だろうね」 こちらも口元をヒクヒクさせながら答えると、「いや、アンタは分かってろよ」と返される。 俺は仕方がないので素直な気持ちを口にした。 「……春だから?」 「だから?」 「何か変な気分になっただけだ。意味はねェ」 新八の目が少しずつ吊り上がっていく。 あ、怒ってる? 気付いた時にはもう、体が宙に舞っていた。 あまりに動きが速くて目でとらえる事が出来なかったが、もげるような鼻の痛みが、新八の必殺技を食らった事を証明していた。 薄れゆく意識の中で、吐き捨てるような新八の声を聞いた。 「しばらく僕に近付かないで下さい」 → |