は -怪我- そんなある日の亊。 昼餉のかしましさもようやく落ち着き、ほんの少し日も西へと傾き始めた頃、月砂は辺りに抜かりなく気を配りながら風斎の部屋を訪れた。 「何や?なんぞあったんか?」 訪いもなく入ってきた月砂に風斎はむくりと起き上がる。 「今日は何も言わへんのやな」 月砂は勝手に上がり込むと、風斎の前にすとんと座る。 「いつもやったら、黙って入ってくんなとか勝手に上がるなとか言うくせに」 何故風斎が何も言わないのか解っていながら、月砂は茶化すように言う。 風斎は、それには答えずに、じっと月砂を見ると小さく息を吐いた。 「大した亊なさそうやな。アンタらしくもない。誰に襲われた?」 ふっと月砂は苦笑いをこぼすと、「ホンマにアンタには何も隠し事は出来ひんな」と笑う。 「アンタが隠さへんからやろ」 当たり前のように風斎は言う。 確かに月砂が弱味を見せるのは風斎だけだ。 だが、襲われたなんて一言も言ってない。ましてや傷を負ってるなどと。 「ちょこっとかすっただけやよ。たまたま通りかかった銀さんが追っ払ってくれたしな」 「銀次がか?」 「うん。ホンマ助かったわ。気配感じた時には遅うてな、急所外すんで精一杯やった……」 月砂は、そっと遅れ毛を撫でつける。 昨日の晩、月砂はいつものように飯屋の手伝いを終えて夜道を一人歩いていた。 ここ最近、ふと『気配』を感じる亊が時々あったから、用心はしていたつもりだった。 だが、その男は完璧に気配を消していた。 近付かれた亊にも気付かなかった。 気づいたのは、風が揺れたからだ。 その男が放った刃の動きに。 瞬時に身をよじった。 だが、刃は左腕を打った。 「……っっ、」 すぐさま体勢を立て直し短刀を抜いた、その時、 「何してやがる!」 誰かの声が響いた。 「ちっ、」 男は舌打ちをすると闇に紛れた。 そして、すぐに駆け寄ってきた誰かは、目を丸くして驚きの表情を浮かべた。 「月砂、月砂じゃねぇか!」 ああ、腕が熱い。 ダラリと下げた腕の指先からポタリポタリと血が滴っている。 「銀さん……」 「斬られたのか」 気忙しげに銀次が言う。 「大丈夫、かすっただけだよ」 月砂はニッと笑った。 誰にやられた?と問う銀次に物盗りかなんかだろうと誤魔化し、医者に連れて行くと言うのを、大したことない、明日、知り合いの医者に診せるから、と宥めて、応急処置だけやってもらった。 月砂の部屋で傷を洗い、晒布を巻き付けた後、銀次は難しい顔をして言った。 「お前ら、何に首突っ込んでる?さっきの男、普通の男じゃねぇだろ?」 「さぁねぇ、あたしにはわからないよ。いきなり襲われただけでさ」 月砂は首をすくめる。 銀次は黙って月砂の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐くと言った。 「おめぇが普通の女じゃねぇ亊は解ってる。そんじょそこらの男じゃ適わねぇ亊もな。だが、さっきのは違う。アイツにはひょっとしたら、オレだって適わねぇかも知れねぇ。そんな奴に狙われてるってのはどういう亊だ?お前らが何かしてるのは知ってる。だがな、風斎や俊藏か?あの芝居小屋の。あいつらはともかく、お前は……」 「女だから……なんて言わないでおくれよ」月砂は柔らかく笑うと「銀さん、ありがとうね。解ってやってる亊だから」と、言った。 「……。そうか、なら、もう何も言わねぇ。だけどな、もし、オレで役立つ亊があれば言いな。それから……」 銀次はことさら真剣な顔をして言った。 「夜道……いや、夜道だけじゃねぇ。今まで以上にもっと気をつけろ」 銀次の言葉に月砂は素直にうなずくと、 「ありがと、銀さん。世話かけたね」と、頭を下げた。 「ふうん、やっぱり親分達には知れとるんやなぁ。まぁ、そやなかったら江戸の町なんぞまとめられんやろうけどな」 風斎はポリポリと頭を掻く。 「で?そいつはどっちや?」 「あの気配の消し方は忍びやと思う。刀も短かったしな」 「ほうか。ほんで、アンタはどこまでいっとる?」 「さぁねぇ、襲われたって亊は、間違って無いっちゅう亊やとは思うけどね」 風斎は懐から煙管を取り出すと、刻み煙草を詰める。 そして、月砂の前にも煙草入れを押しやった。 「おおきに」 月砂も遠慮なく自分の煙管に葉を詰める。 そうして二人は煙管を吹かしながら、暫くの間、密やかな声で何事か話し込んでいた。 そして、半刻ほど経っただろうか、いつの間にか声は聞こえなくなり風斎が鳴らす扇子の音だけがパチンパチンと響く。 「よっしゃ、ほなアンタはあと一歩気張りや。なんぞあったらすぐ言うて来い。それから……」 風斎は月砂の腕にそっと触れると 「ジジイんとこ行って、ちゃんと診てもらえ」と、言った。 「うん、端っからそのつもりやしな」 月砂はニッと笑う。 「アンタ……おりるならおりてええぞ」 風斎は、熱を持ってる月砂の腕から手を離すと小さな声でぼそりと言った。 「はっ、あははは、」 月砂は声を上げて笑う。 「アンタ、たった今、気張りや言うたやんか。それにな、そう言われて、はい、そうですか、って、あたしが降りるとでも思うてんのか?」 月砂はニヤニヤとしながら風斎の顔を覗き込む。 風斎はクイっと口端を上げると「ふんっ、思うてへんけどなっ。一応言うてみただけや。つか!顔、近いねんっ」 と、シッシッと手を振る。 月砂は再び声を上げて笑うと、「そらおおきに。気ぃ遣うてもろうてすんまへんなぁ」と、おどけてみせると「ほなな」と部屋を出る。 引き戸を閉めて、月砂はふっと息を吐く。 風斎がそれなりに気にしてくれてるのは、言われなくったって、ちゃんと解ってる。 でも、やると決めたのは自分だ。 命のやり取りになるのも覚悟の上だ。 ただ一つ気にしてるのは、風斎の邪魔にならない亊だけだった。 いざとなれば己自身で始末をつける覚悟で関わっている。 そして、風斎も、そんな月砂の覚悟を知っている。 必要であれば、誰の命でも切り捨てる。 嫌ならば、背を向ければいい。 そうやって生きてきた世界だ。 いざという時、月砂が風斎の枷になるのなら、月砂が自分で自身を始末出来ないのなら、風斎が始末してくれる。 それは、薄情だとか、人でなしだとか、そんな薄っぺらい話しではない。 今更、そんな話しをする必要はない。 長い付き合いの二人だった。 「さぁて、」物思いを振り切るように頭を振ってそう呟くと、月砂は数軒先の映水の部屋を訪ねた。 「せんせ、ちょっと診てくれる?」 そう言いながら入って来た月砂に、「おう、来たか。よしよし、診てやるから袖を捲れ」と、映水はゴソゴソと準備を始める。 そんな映水の様子に、月砂はくつくつと笑って言った。 「あたし、まだ何も言ってないのに」 「ん?そうじゃったか?」 振り返った映水は、ふぉっふぉっと笑いながらテキパキと治療を始めた。 「ふむ、そう深くはないな。これなら、三日もすれば塞がり始めるじゃろうて。上手にかわしたな」 映水は満足気に笑った。 「ふふ、そっか、良かった。せんせ、ありがと」 月砂もにこりと笑って幾ばくかの金を差し出す。 「いらんよ」 そう言って映水は月砂の手を押し返す。 「え、でも……」 「いいんじゃよ。月砂にはいつもこぞうの尻拭いで酒もらってるからの。また酒を貰えたらそっちの方が有り難いわい」 そう言って映水は目を細めた。 「そのくらい、お安いご用ですけど。先生は飲み過ぎです」 月砂は父親に意見する真面目な娘のように、顔をしかめて見せた。 「何を言うか。酒は消毒にも使うんじゃぞ?儂にとっては、いんや、医者にとっては必需品じゃて」 映水も大真面目に頷きながら胸を張る。 月砂は、やれやれと笑いながら首をすくめた。 と、ふと映水は月砂の顔をまじまじと見ると、すっと手を伸ばして、ぐいっと月砂の左目を開いた。 「せっ、先生!」 月砂は驚いて反射的に身を引く。 「月砂……また星が増えとるじゃないか。やっぱり一度儂の知り合いの目医者に……」 真面目な顔をして言う映水の言葉が終わらぬうちに月砂はぴょんと立ち上がる。 「あ、あたし行かなきゃ、じゃ、せんせ、またねっ」 あたふたと草履を引っ掛けて、月砂はひらひらと手を振りながら、小走りに部屋を出て行く。 「あ、こら、待て月砂っ……全く……あれじゃあ左端は殆ど見えてなかろうに……」 映水は、困ったもんじゃ、と溜め息をついた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |