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kissの味 (1/4)


 仁王のキスは巧い。強引なだけかも知れない。けれど恋愛に幼い切原は、唇をきつく吸われ口内を舐め回されて舌を捕われるだけで、良く感じた。
「可愛ええの、赤也は。真っ赤ナリ」
 唇が離れて、切原は剥れる。
 夕暮れにからすが飛んで行く。豆腐売りを知らせる笛の音が微かに聞こえた。
「じゃあな」
 仁王はくしゃりと切原の髪を掻き混ぜた。細い目が優しく微笑ったのを見て、切原は差し込む夕陽に紛れて頬を更に朱くする。
 仁王が部室を出るのと入れ違いに真田が入った。
「お、真田。先帰るぜよ」
 仁王の声音は至って変わらない。其でも真田は怪訝そうな顔をした。
「仁王は何をしてたんだ?」
「話し相手してくれてたんすよ」
 切原は真田の胸に顔をうずめ背中に腕を回した。真田も慣れない仕草で其に応える。
「アンタがなかなか来なくて、寂しかったから…」
「赤也…」
 顔を上げると、真っ直ぐな目と視線が合った。真田の昏い強い瞳が見詰めて居る。其だけで何も要らなかった。

 敵を殺すような真田の瞳が、今は切原に夢中である事を何よりも語って居た。
 気付くと切原を追って、視界に切原が入った時は彼だけの為に動きを止めた。
 切原が好きになった真田の像は、強くて有か無しか無く、常に進む道が判って居て、振り返らない。だから振り向かせたくなった。

 切原は真田の胸に縋った儘、意味ありげに目を閉じた。
 しかし真田は切原の前髪を優しく撫でるだけで離れてしまった。

+++

 ―強くて、好き。
 切原は良く真田に犯される夢を見る。
 犯されたい、と言うよりは彼を独占したかった。
 ―迷わなくて、好き。
 夢の中で真田は大胆だ。切原が嫌がっても躊躇わない。泣かせても酷くしても、好きと言う。
 ―俺を好きだから、好き。

 現実に真田は堅実だった。
 其も切原に手を出さずに愛する事に堅実だった。
 進展しない関係の儘でも好きで居られる事を真田は知って居た。身体を寄せて居ないと不安になる切原とは正反対である。
 一緒に居るだけで堅い真田の表情は優しくなったし、慈しむ手つきで頬を撫でてくれる。其が真田の心からの愛情表現である事を切原は知ってる。頑固者をここまで甘くさせたのだから満足するべきだ。
 其でも、切原はまだ愛情が欲しい。

「ふ、ぅん…」
 ちゅっと音を立てて唇が離れる。
「赤也チャン、色っぽい声やのぉ」
 仁王はケタケタ笑う。
「お前さん、真田とはしとらんの?」
「何を」
「キスも其以上も」
「べつに…」
「べつに、て何じゃ。答になっとらん」
 あの堅物は落とすだけでも大変だったのにこれ以上期待出来る訳が無い。切原は強気に釣り上がった眉を顰めた。
 海志館は昼休みだと言うのに閑散として居る。屋上に出る戸の前は、鉄の扉が重く聳え、尚静まり返っていた。
 お互いの声がダイレクトに響く。誰にも暴かれて居ない場所に届きそうな、侵入される感覚に、切原はくらくらした。
「赤也は男が好きなん?」
「は…?」
 仁王の視線が下りて一点を見詰める。確かに擡げた欲望に気付いて、切原は真っ赤になった。
「あ、アンタのせいッスよ!」
 立てた膝を抱いて隠す。
「キスがうまいって褒めてくれてるんか」
「ばっ…バッカじゃねえの!?何言っちゃってんの!」
 くくっと今度は怪しく笑う。徐に、掌で切原の視界を遮り、耳元で囁いた。
「“赤也、愛してる…”」
「あ、あの人はそんな事言わない!」
 然う言う割に、切原は耳まで朱くなった。

 仁王は声真似が得意だ。勿論、そっくりに同じ声を出して居る訳では無く、声の高低、単語の音程や訛り、調子や速度、其らを出来るだけ真似ると、似てくるのだ。演技して居ると言っても良い。
 切原はよくこれに翻弄されて居た。

+++

 広く広く雪原が続いて居る。しんと静まって居て、誰も足を踏み入れて居ない。小さな子ぎつねの足跡やうさぎの穴ぐらすら無い。どんな者も立ち入るのを憚れた。雪原は其の美しさで来る者を拒んだ。

 其が真田が抱く切原の像である。
 欲情しないのかと訊かれれば、すると答えられる。柔らかい女の身体でも無いのに然うなるのは、やはり愛しいと思う気持ちが確かに在るからなのだろう。
 ―赤也、
 真田は布団に包(くる)まって腕(かいな)を抱く。
 暗闇の中、切原はあえかな白い肢体をくねらせた。
 ―赤也。
 腕を抱いていた掌は、姿を現した欲望に伸びた。

+++

「赤也、俺に幻滅しないで欲しい」
「誰がするか…嬉しいんスから、」
 その日、二人は初めて口づけを交わした。夜を纏った夏の暑い日、真田邸の庭で笹が騒ぐ音だけが流れて居た。
 拙い、触れるだけの子供が想像したようなキスが、二人の距離を縮めた。

 其からと言う物、二人は遠慮が少なくなり恋人として申し分ない関係を築いた。真田は堅実な儘で居たが、極たまに切原の望む方法で愛情を表現してくれた。
 しかし切原は仁王と会うのをやめない。仁王は切原の良い所をもう熟知して居て、喜ばせる方法も知ってる。勿論、切原に抵抗が無い訳では無い。

「後ろめたいとか、思うん?」
「…当たり前っしょ」
 切原は手の甲で唇を拭った。
「副部長はそんなベロベロしないし…」
「ちっともムードの無い言い方じゃのー」
 肩に鞄を掛けて、仁王は部室を出る。この時間、真田は顧問に部日誌を渡す為に部室を空ける。其の間、切原は留守番する。仁王はこの時間に良く訪れた。
 恥ずかしい程、翻弄されて居た。仁王の上手いキスを欲しがってる。好きなのは真田なのに、仁王のキスが欲しい。あのキスを、ちょっとしたご褒美の感覚で思って居た。
 程なくして真田が帰ってくる。切原は直ぐに帰れるように二人分の荷物を準備して置いた。真田は驚く程てきぱきと着替えた。
「すまんな、赤也…」
「いえ、もう慣れましたから」
 真田の平生と違う視線に気付いて切原は動きを止める。
「な、何か…?」
 目が合うと珍しく真田の頬が朱くなった。
「今日はいつもと違うな…」
「何が?」
 真田は黙りこくってしまった。切原が悪気の無い瞳をしばたたかせると、ばつが悪そうな低い声がした。
「…可愛い、と言ったら…」
「え…」
 二人の距離を真田が縮める。切原の赤い柔らかな唇に触れる。
「しても良いか」
「うん」
 切原は大人しく目を閉じた。

 休みの日、真田に会う口実に勉強を教えてくれと頼み、彼を家に上げるのに成功した。真面目な真田は切原の期待する邪な気持ちは露抱かず、やはり英語の教科書を読み上げるのに尽力した。
 そんな大人しい関係を望んでは居ない切原は直ぐに飽きた。
「お前の集中力はどうして勉強には向かないんだ」
 武骨な手が優しく癖毛を撫でる。切原は猫のように目を細める。
「副部長がいけないんす」
 真田の眉が不機嫌に顰められた。
「俺、アンタと居ると変な気分になって…アンタがこうゆうの好きじゃ無いんだろうなって事は解るんすけど…」
 言葉になると純粋な気持ちは姿を変えてしまいそうだった。其でも真田には真心が伝わったらしい。
「勝手に決めつけるな」
 優しい口づけで応えてくれる。切原は太い首に腕を回した。
「もっと…」
 真田は黙って口づける。
「もっとしたいっ」
 真田が仁王のようなキスが出来るとは思わない。だから切原は導くように、只我慢出来なくなっただけでもあるが、半ば強引に舌を差し込んだ。
 真田は弱々しく舌を絡める。其だけで切原の思考は蕩ける。
「んっ…ふぅ、う…」
 仁王がいつか色っぽいと言った声で煽る。真田は倒頭切原を押し倒した。冷えたフローリングで二人の身体は火照る。
 キスだけで、遠い幻想のような甘美な時間を過ごした。
 床で抱き合って余韻に浸った。脚を絡め、互いの違いを実感したりする。
 椿のように艶やかな唇を真田が恍惚と眺める。二人には早いと思われた雰囲気に包まれて切原は頬まで朱くした。
「キスをすると、いっそう紅くなるな」
 切原は恥ずかしそうに目を泳がせた。
「可愛い」




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