裕明さんと奈津子さん
画面に表示した名前を眺めて溜め息を吐く。見飽きた名前を視界から消すかのように、些か乱暴に通話ボタンを押せば、単調なコール音が耳に響く。
『……今、仕事中なんだが』
「あら、メールの一つも打てないほど忙しいのね」
電話口から聞こえる疲れたような溜め息が、妙に耳につく。
『……帰るのはまだ先だ、寝てていい』
まるでお決まりの台詞のように、いつも同じ言葉を彼は私に伝える。
「食事は?」
『いい、どうせ食えないだろうから』
「……」
『それだけか?』
「……、ええ」
『じゃあ仕事あるから切るぞ、おやすみ』
「……」
少しの間の後に回線が切断される音がして、やがて断続的な機械音が耳に響く。
「かあさん」
「!」
しばらく電話を眺めていた私に、あどけなさの残る呼び声。ハッと気付いて声の方に顔を向ければ、幼い息子が心配そうに此方を見ていた。
「ヤマト、まだ寝てなかったの?」
「……うん」
「パパね、今日も帰り遅いんですって。残念ね」
「……」
ぎゅっと服の裾を握って、ふるふると首を横に振るヤマトに、少し面食らう。
「おしごとだから。かあさんもタケルもいるから、だいじょうぶ」
本当は寂しいくせに、私を気遣う息子の姿に思わず泣いてしまいそうになって、慌てて笑顔を作る。
「そう、ヤマトは偉いわね。母さんも安心だわ」
目線を合わせてそう言えば、少しだけ安堵したようにヤマトの表情が緩む。
「一緒に寝ようか、ヤマト」
「うんっ」
嬉しそうなヤマトを抱き上げて、共に寝室へと向かう。
「おやすみ、かあさん」
ベッドに横になりながら、ヤマトが私に挨拶する。おやすみ、と返しながらふと先刻の電話を思い出す。
『―――、おやすみ』
ああ、そういえばあの言葉に私は何も返せなかったな。
「……おやすみ」
本当は、ただその言葉が聞きたかったのかもしれない。素直に伝えること、言葉を交わすこと、いつの間にか臆病になって、過ぎ行く時間に呑み込まれて。
「おやすみなさい、あなた」
伝わらない言葉を呟いて、眠りに落ちる。交わすことのない言葉を、それでも私は呟くのだろう。
だってどうして。
それでも彼が愛しいのだ。
薄れゆく愛
(けれど忘れられぬ想い)
薄れゆくもの、変わらぬもの。
崩れる未来と、積み上げた今。
虚しくて愛しい、あなたと私。
秋明菊
無料HPエムペ!