タケルと丈 あの頃の僕はもういない? 「タケル」 男性特有の低い、それでいてよく通るその声で名前を呼ばれるのが嬉しかった。 「もう遅いぞ。帰った方がいい」 ぶっきらぼうな物言いの中に、不器用な優しさが含まれているのを僕は知っていた。 「……まだ7時前だよ」 ただ素直に喜びだけを感じていた日々は、いつのまに消えたのだろう。いつしか育った反抗心、口答えばかりが上手くなっていく。 「もう7時、だろ」 無意識だろうか、彼は溜め息混じりに僕をたしなめる。そう、昔からそうだった。僕がわがままを言って、そうしたら溜め息をつきながら僅かに笑う。照れ屋なりの優しさなんだ。 「……僕、邪魔?」 「なに言って……、そんなこと言ってないだろ?」 わかってるのに、素直に受け取れない。心配して、大事にしてくれていること知っているのに。 「タケル?」 「わかった、帰るよ」 「何怒って……「別に怒ってないよ」 怒ってるだろ、と付け加える兄の戸惑いと困惑混じりの視線を振り払うように外へと走り出る。背後から僕を呼ぶ兄の声が聞こえたけれど、振り向かずに走った。そうでなければ、どうにかなってしまいそうだった。 **** 「……どうしたんだろう、僕」 結局、あのまま家に帰る気にもなれず、僕は公園に行った。ゆらゆらと揺れるブランコに座って、深い溜め息をつく。 「兄さん、怒ったかな……」 言って、首を横に振る。きっと兄は怒っていないだろう。むしろ心配しているか、落ち込んでるかだ。昔からそういう人だったから。 「……本当に、過保護なんだから」 小さな笑いがこぼれる。思い出せば思い出すほど、大切にされてきた記憶ばかりが蘇る。 「……っ」 耐えきれずに溢れてきた涙に気付き、慌てて服の袖で拭う。 「タケル君?」 不意に頭上から声がして、思わず顔をあげる。 「ああ、良かった。やっぱりタケル君だったね」 暗がりで、しっかりとは判別できないものの、相手の顔と声に思い当たる人物を見つけ、声をあげる。 「……丈、さん?」 僕の呼び掛けに応えるように、相手は大きく頷いて、笑った。 「近くで塾講師の手伝いをしていてね、たまたま通りかかったんだよ」 言いながら、丈さんは僕の隣のブランコに座る。 「そしたら、なんかタケル君に似た子がいるなぁって」 ブランコを漕ぎながら、丈さんは話し続ける。 「なんかほっとけない雰囲気っていうか、思い詰めた雰囲気っていうのかな、つい声かけちゃったよ」 そう言って笑う丈さんに、僕も小さく笑う。きっと、この人は相手が全く知らない人でも声をかけたんじゃないかな。 「で、どうしたんだい? ブランコに乗って童心にかえりたくなったのかな?」 冗談めかして言う丈さんに、苦笑する。今、目の前で楽しそうにブランコを漕いでいる丈さんこそ、童心にかえっている気がするけど。 「……あながち間違いでもないです」 僕の言葉に、丈さんがブランコを漕ぐのを止める。そうして、僕の方に顔を向けた。きょとんとした表情の丈さんを見て、軽く微笑む。 「子どもの頃に戻りたいです。あの頃みたいに素直になりたい」 膝の上に置いた拳を握り締める。見栄とプライドばかり育って、肝心な所は何も成長していない僕。あの頃は当たり前だったはずのことが、どうして今は…… 「素直に?」 丈さんが首を傾げて問う。また溢れ出しそうになった涙を拳で拭い、丈さんの方を見て頷く。 「素直に、です。そしたら、傷付けなかったかもしれないから」 困惑に満ちた兄の顔を思い出す。あの時、僕が素直に兄の好意を受け取っていたら、あんな顔させなくてすんだのに。 「誰かを傷付けてしまったのかい?」 「……はい」 僕の返事に丈さんは、何を言おうか考えているように、顎に手をあてる。 「傷付けて、かぁ……」 やっと口を開いた丈さんは、そう言って空を見上げた。 「それは、つらいね」 言ったと同時に、丈さんが優しく頭を撫でてくれる。懐かしい感覚に、ずっと我慢していた涙が溢れ出し、止められなかった。 「我慢しなくていいさ。大切な人であればあるほど、傷付けただけ、自分も傷付くんだ」 穏やかな丈さんの声に、ますます安心したのか、更に溢れてくる涙が恥ずかしくて、両手で顔を覆った。 「今と昔は違うね。受け入れられないものが増えたりするかもしれない。だけどね、今の自分を否定してはいけないよ」 ざりっと砂を踏む音と共に、隣で人が動く気配を感じ、顔をあげる。 「だって今の自分を否定したら、昔の自分が選んできた道も否定することになるだろう?」 僕の目の前に立った丈さんは、背が高い分、威圧感があるようだけれど、でも、その優しい眼差しがわかるからなのだろうか、怖い感じはしなかった。 「正しいことばかりを選んできたとは言えないけどね、でも」 そこで言葉を切ると、その場にしゃがみ、ブランコに腰掛けたままの僕と同じ目線になる丈さん。 「きっと、一生懸命だったはずだよ」 そう言って、僕の頭を優しく撫でる。 「……いいの?」 小さな声で尋ねる。 「昔の僕とは違うけど、それでもいいの?」 すがるように問いを重ねた。 素直で純粋で、そんな僕はきっともういない。知らなかったことも知って、うまくいかないことや、割り切れない思いも知った。決して綺麗とは呼べない感情も、誰にも踏み込まれたくない僕の世界もある。兄が可愛がってくれた、あの頃の僕はもう、いないんだ。 「変わってしまった僕じゃ、ダメな気がするんです。あの頃のまま、あのままでなくちゃ……っ」 あのままでなくちゃ、受け入れてもらえない気が、して。 「変わってなんかいないさ。ただ、成長しただけだ」 ぎゅっと僕の手を握る丈さん。ああ、なんだろう、とても懐かしい感覚。そういえば、兄さんと最後に手を繋いだのはいつだったかな? 「成長したって、相手を大切にしたい気持ちは変わらないだろう?」 丈さんの言葉に、ゆっくりと頷く。変わるわけない、今だって大切に思っているんだ。 「それは相手も同じだよ」 「……本当に?」 「ああ。ただ、大切な気持ちの表し方が変わるのさ」 「表し、方……」 「大切にされるのは嬉しい事だよ。だけど、時には重く感じる大切の形もあるかもしれない」 「……」 「小さな子どもだった頃のタケル君は、素直に無邪気に笑って側にいることで、大切な気持ちを表していたんじゃないかな」 俯いて、自分の手に重ねられた丈さんの手をじっとを見つめる。当時の僕がどう思っていたかなんてわからないけど、それでも幸せだったから笑っていたことは確かだと思う。 「これからは」 どこまでも優しく囁くような声に、自然と顔をあげると、想像通り穏やかな顔で微笑む丈さんと目が合う。 「違う方法を探そう?」 小さく首を傾けて、幼い子どもに提案するように丈さんは僕に言葉をかける。 「受け入れて、くれるかな?」 不安の滲んだ僕の言葉に、丈さんは僕の手を強く握り直して頷いた。 「当たり前じゃないか」 力強い丈さんの声が僕を励ます。 「みんな君を、大切に思っているんだから」 慈しむように言われた言葉にまた少し涙が溢れて、だけどすぐに緩んだ口元。 「ありがとう、丈さん」 ああ、思い出したよ。僕はこんな風にいつも笑っていたんだ。 追 憶 あの頃の僕はもういない? ううん、いるよ。 僕の中に。いつまでも。 アスター |