『薄幕の向こう側』 怒りや興奮というものを抱くのは人間として当然のことである。 しかしそういった激情ですら利用してしまうのが曹操であると誰が評したか。曹猛徳という人間は空気に流されるということと無縁の男であった。 しかしここにきてその説は崩れ去る。 それは絶世の美女でもなく、類希なる才能もつ人物でも、悪評高い野心家の所業ではなく、たった一人の、何も持たない男の仕業であった。 「いいのです」 仕方なさそうに笑った顔が気に入らない。全てを諦めた顔はしかし、全てを理解した顔で。 押し込められた言葉が何なのか知っている。 今劉備が欲して、そして諦めたものが何か。それは曹操が求めて手を出せずにいたものと同等のものだと知っているからだ。 「もう、良いのです」 およそ劉備という人間に相応しくない表情が、その奥に押し込められた感情がどうしようもなく欲しくて、それでもその言葉だけはお互いに発せられないと知っていて、歯がゆいほどの焦燥が曹操を焦がす。 「…私は」 それでもぽつりと言葉を落とした劉備が揺れる眼差しを伏せて万感の思いの篭もった吐息を吐き出せば、曹操は押さえの利かない己をとうとう自覚した。 だんっと、地面に劉備を引き倒して、その両腕を押さえ込み逃げを封じる。 驚いた顔が腹立たしく、そして激情に走る己を押さえられない。その初めての感覚に揉まれながら、曹操は自分が何をしようとしているのかどこか冷めた視線で見つめている自分に気付いていた。 それは。 「言え」 破滅へと導く、激情。 「はっ…あ…」 寄せた唇を拒否するかのように顎が反らされ、露になった首筋にどうしようもなく欲情していることを、最早曹操は隠さなかった。唇を落とし、舌を這わせ、その白いそこに存在を刻みたい。むしろ血が出るまで歯を立ててしまいたい。 その欲望に逆らうことなく這わせた舌の蠢く様に劉備が身悶えた。 洩れ出でた声は恐ろしいほど曹操を昂ぶらせる。 欲しい。この男が、どうしても欲しい。 「劉備…」 「そうそ…殿っ」 己が己である限り、彼が彼である限り、その願いだけは絶対に叶えられないと二人気付かぬふりをして、諦めていたものを今曹操は壊そうと躍起になっていた。 「言え、劉備」 強い言葉に、唇が与える愛撫に、押さえつける腕に。 抗えずにいる劉備はそれでも最後の砦だけは死守していた。意思という名のそれは、唯一曹操が攻略できない難攻不落の砦であった。 「申し訳ありませ…」 か弱く男に組み敷かれているくせして頑として譲らないそこに、薄くも絶対に破られない壁を曹操は見た。 どうしても手に入らない。この広い世の中ですらもう望めないであろう、唯一無二の存在だけが手に入らない。 狂おしいとはこのことか。 「一言だけでいいのだ…」 もはや懇願に似た声に、ぐうっと劉備が詰まった。 一瞬言ってしまっていいのではないかとよぎった考えが、それだけはしてはならないと確認させてしまう皮肉に劉備も苦しさに唇を噛み締める。 本当は応えたい。 この自信に満ち溢れて、傲慢で、そして哀れな一人の男に己を捧げてしまいたい。 けれどそれだけはできない。唯一欲しいものは、決して手に入らないもの。 見下ろす曹操の瞳が揺れた。 「この俺の頼みが聞けぬか?」 命令ではない。それが劉備の心を強く揺さぶった。何もかもかなぐり捨て求めてくれる男に、心が揺れぬわけがないのだ。 それが曹操のような男ならなおさら。 それでも劉備は泣きそうになる己を叱咤して、首を振った。 「聞けません…それだけは」 そう答えが返ってくることを当然のように予想していた曹操は、皮肉気に口角を持ち上げる。もしもここで劉備が是といえば何もかも終わっていたのに、やはり劉備は劉備なのだ。 それ故に欲している。その矛盾が曹操は恨めしかった。 「これほど、」 拘束した腕を解放して、乱れた髪を撫で付ける。自由になった劉備はそれでも動かなかった。至近距離で見下ろしている曹操の瞳に捕らえられたように、切なくただただ曹操を見つめていた。 「これほどお前を憎く思うとは思わなかったぞ」 そして言葉とは裏腹に愛しげに落とされた口付けを、劉備は逆らうことなく甘受する。そうして触れた唇に心が歓喜に震えたことに気付かれないように、そっと目を閉じて、今この瞬間だけはその背に腕を回すことを己に許した。 -了- (私はよほど言わせたい曹操が好きなのか…不意打ち後編の話を掘り下げてみました) |