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『不意打ち(前)』


その日劉備は珍しく落ち込んでいた。
嫌なことが重なったというか、いくら前向きな劉備でも一時くらい不安になったり嫌なことがあったり陰口にへこたれないばかりではなかったり、とにかくそんな時だってあるのだ。
いつもはすぐに立ち直る。或いは元から気にしていない。
だけど裏切られ路頭に迷う民の行く先が不安な現状、常に強気でいられるほど劉備は図太い性格はしていないのだ。
加えて様々な嫌がらせ、陰口。自分のことだけなら平気なそれも、大切な義弟たちや部下のことに及べば口惜しいもの。
自分の不甲斐なさのせいで大切な人々が蔑ろにされることがとても悔しくまた申し訳なかったのだ。
そんなわけでいつもへこたれない劉備は、本日珍しいほど情緒不安定だったのである。


この日曹操は珍しく苛ついていた。
とにかく些細なことが鼻につくというか、自分の及ばない力や上手くことが運ばない運の悪さや、間が悪い報告に態度の気に入らない相手との会話。そんな様々なことが積み重なって機嫌が悪かった。
休む暇もなく疲れがたまっていたというのもある。常日頃から上手い具合に休みを勧めてきた相手ともしばらく会っていなかったわけでもあり、そのことが何より曹操を苛立たせたという事実に本人は気付いていなかった。
いくら曹操といえど超人ではない。目に見えぬ疲労はいつもの冷静さを欠かす原因となっていたのだけれど、曹操は未だその自覚がない。
そんなわけで曹操は、親しい友人にすら不機嫌を隠せないほど苛ついていたのだ。


そんなわけでたまたま、目に付いたというか或いは無意識が導いたというべきか。ぼんやりと内庭を歩いていた曹操が劉備に貸し与えた部屋のほうに向かっていると気が付いたのは、当のその本人を発見してからだった。
「曹操殿?」
「劉備…」
義弟の話を楽しげに聞いている姿は、曹操の周辺にはあまり見られない光景であり優しい空気であった。
曹操の出現とともに大人しく下がった関羽と張飛はあくまでも劉備を守るという態勢であり、こと関羽に至っては恭順の下で油断ならぬ視線をしていることを曹操は知っていた。
つくづくよい犬をもっていると皮肉に口角があがれば、劉備は不思議そうに首を傾げる。
「ずいぶん楽しそうだな」
「ええ、義弟たちとの会話は何よりの楽しみです」
「そうだな。俺といる時よりよほど楽しそうだ」
そう言えば劉備がどう反応するかなんて曹操からしてみれば火をみるより明らかだ。案の定困ったように眉を下げながら、そんなことはないと言い募る。
それが妙に気に障った。
「結構。貴殿の仕事はそれであろう?」
いつだって何から、誰かから。“守られているだけ”が仕事であろうという、あまりにも直接的な皮肉に空気が凍りついた。
さっと張飛の顔が赤く染まり、今にも怒鳴り散らそうな所を関羽が無言で諌めている。当の関羽も厳しい視線を曹操に向けることに余念が無い。
これは一体どういったことか、場合によってはただではおかぬと張飛以上の怒りを秘め曹操をねめつけている。
その二人の様子に少しが溜飲が下がったようで、曹操は楽しい気分でさてと劉備に視線をやった。お前はどんな反応をするのかと。
劉備は少しだけ目を見開いて曹操を見つめていた。
開いた唇から音が紡がれることはなく、ヒュッと息を吸う音がしたかと思うと微かに震える。かち合った視線に沈黙と緊張が高まったその時。
物言わぬ劉備の両目から、いきなり大粒の涙がポロリと流れ落ちた。
それから堰を切ったかのようにぽろぽろと次から次に零れ落ちる涙に、さすがの曹操もぎょっとする。
「りゅう…び?」
呼びかけると、更に悪化したように涙は止まらない。戸惑う曹操とおかしな劉備の様子に何かを察知したのか、関羽が張飛に退室を促した。しぶる義弟をうまく宥め、劉備に背後から退室の意を伝えると曹操にも退室の言葉を運ぶ。
「兄者はあなたと会うのを楽しみにされていた。その気持ちに免じて今回はこの場をお任せします」
囁かれた言葉に鷹揚に頷く。その裏に込められた意味を嫌というほど理解はしているけれども、目の前の涙に動揺は消えない。
これが計算された女の涙や同情を誘うものだったりすれば曹操だって動揺なんてしない。子供が泣くことも鬱陶しいと思うこともあったし、女々しく泣く男なぞ持っての外だ。
しかし。
ぽろぽろと泣く劉備はひたすらに無防備なのだ。その涙に一切の意味を出していない。ただ曹操が与えた言葉に傷ついている。
関羽の言葉が蘇る。
曹操に会うのを楽しみにしていたと。馬鹿がつくほど正直な劉備のことだ。きっと本心だろう。
そうなると苛つくままの曹操の言葉は分が悪い。完全なる八つ当たり、一方的な暴言。
悪いのは曹操だ。誰が見たって曹操が悪いとわかる。曹操だって認めざるを得ない。というか、あんまりにも無防備に泣くものだから、驚くほど素直に曹操の罪悪感を刺激した。
「申し訳…ありませ…」
そして健気である。振り絞る言葉も流れ出る涙も必死な表情も、うろたえる曹操を責め立てるのに充分であった。完全に曹操が悪い。
いつもの劉備であれば食って掛かっていたであろう。或いはいつもの曹操ならそんな悪意を込めた皮肉は言わないし、劉備の状態を考慮できない言動などとらない。
つまりはとても間が悪かったのだ。
一刻ほど馬鹿みたいに立ち尽くす曹操と、未だぽろぽろ泣き止まぬ劉備という奇妙な構図はやがて、曹操が動くことで終止を打たれた。
劉備の前まで歩み寄り、腰を屈める。縮んだ距離が、涙を意識させた。
「…悪かった」
目の前に立った曹操から零れた唐突な言葉に、劉備は顔を上げる。そこには不機嫌そうな気まずそうな複雑な顔の曹操が。
「だから、その、」
「………」
「…もう泣くな」
それからぎこちなく指で涙を拭うものだから、驚いた劉備は泣くことも忘れてしまった。
あの曹操が。あの自信に満ち溢れ自分の好きなように道を切り開いてきたあの曹操が、自分から謝ったのだ。
なおかつ、色事に長けた曹操のそのあんまりにも不器用すぎる言葉と仕草に、劉備は心打たれた。
「…はい」
思わず頷いてしまえば、ほっとしたような曹操に抱きしめられ、幼子をあやすように背中を撫でられる。その仕草に改めて己の醜態を意識した劉備の頬がふんわりと染まる。泣くなぞ、当の自分でも驚いているのだ。
「お見苦しい所を…」
「言うな。俺が情けなくなる」
八つ当たりをしたのだと苦々しい表情の曹操に、劉備の表情も曇る。
「お忙しいと聞いています。お身体に影響がないといいのですが…」
あくまでも心配そうな顔につくづく劉備も人が良いと、ここまでくればお人よしも美徳に思えてくるから侮れない。


→続


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