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「いやー……まいったね。財布を忘れたって言っただけだ。ただ、それだけなんだ。そしたら、ひっぱたかれた」
赤くなった頬に冷えたグラスを当てながら、ヴェロッサはうなだれる。
それを見たクロノが、イイ気味だとばかりに口角を釣り上げて言った。
「少しは反省するといい。女にかまけてばかりのダメ査察官め」
「ダメ査察官め」
「お前もだ、カフカ」
ヤレヤレ、とばかりにカフカは肩を竦める。
久しぶりに会ったというのに、これから説教が始まりそうな具合である。全く勘弁してほしい。提督という役職に着いている人間は、どいつもこいつもこんな風に頭でっかちで怒りっぽいのだろうか。遅れて来た人間が、相手の機嫌が悪いことをどうこう言うのもおかしな話だが。
だが、クロノはグッと堪えて代わりにため息を吐き出すに留めた。
「まあ、いい……分かってたことだ。お前たちが遅れて来ることなんてな」
「ちなみに、オレは褒められて伸びるタイプなんだ。覚えといてくれ」
「ボクもだ」
「ああ、覚えとくよ。覚えておくとも!」
歯をむき出しにしながらそう口にしたクロノは、メニューを手にしてウェイトレスを呼び止める。
カフカはワインのお代わりを頼み、なんともなしに賑やかなクラナガンの通りに目を移した。
休日のクラナガンは、平日に比べていささか陽気な雰囲気が漂っている。通信機器を耳に当てながら怒鳴るビジネスマンもいなければ、ベンチに座ってこの世の終わりみたいな顔をしているサラリーマンもいない。断頭台に上がる囚人のようにリニアから下りてくる大勢の人間もいなければ、高いヒールを履いて地面を砕かんばかりに闊歩するOLもいない。その代わり通りには子どもの手を引く家族連れや、永遠の愛を信じて疑わない恋人ばかりだ。
そんな中、そこだけポツンと穴が空いたように陰気な雰囲気を纏った少年が目に付いた。親とはぐれでもしたのだろうか、彼は人の波に行ったり来たり揺られている。
その少年の姿が、つい3日ほど前に父親を亡くした子どもと重なる。彼は今頃どうしているのだろうか。もう母親から事実は知らされたのだろうか、それとも父親がいつまでたっても帰って来ないことを訝しんでいるのだろうか。
カフカは首を振った。このままだとアルコールが悪い方へ入っていってしてしまいそうだったからだ。
そうして気がつけば、少年の姿は見えなくなっていた。きっと無事に父親と母親に再会できたのだろう。カフカはそう思うことにした。だから、クロノが言ったことにも笑顔で応えられた。
「そういえば、お手柄だったそうじゃないか」
「ああ、もっと褒めてくれ」
「相手が死んだのは残念だったが、お前たちがそれほど気に病む必要はない。もちろん、もっと上手くやれたはずだと思うことは決して悪くないことだ。僕が言いたいのは、つまり……責任の比重の置き方だ。分かるだろう?」
間を置くことなく、この不器用な提督は言葉を続ける。
「だから、負うべき責任は男の逃走を許してしまったことであり、質量兵器や自殺を許してしまったことではない。それらは査察官の負う必要のない責任だ」
クロノの言葉で、どうやら自分でも知らないうちに相当参っていたということにカフカは気づかされる。
「お前たちは上手くやった。何より一般人に被害がでなかったのが良い証拠だ。他の査察官だったら、こうはいかなかっただろう。僕はそう思ってる―――そこで、提案があるんだが」
カフカは顔を上げた。何やら嫌な響きの言葉が聞こえたからだ。ウェイトレスの尻に見とれていたヴェロッサも何かを察したのか、顔をクロノの方へ戻した。
「優秀な査察官である2人の能力を買っての提案だ」
「ここは自分の奢りにさせてくれ、っていう素敵な提案か?」
「いや、違う。というか、初めからお前たちはそのつもりだろう。財布を持ってない奴もいることだしな!」
「いや、なに、ほら……海を漂うには懐は軽い方がいいんじゃないかって思ってさ」
目を泳がせてそう口にしたヴェロッサに、カフカはシニカルな笑みを浮かべながらクロノに言った。
「教会育ちはこれだから困る。見てろよ、今にきっと免罪符で代金を支払うようになるぞ」
「コメントは差し控えさせてもらおう……僕はそれなりに立場のある身だからな」
ただのジョークだ、とカフカは面白くなさそうに肩をすくめた。
ヴェロッサも同じように面白くなさそうに肩をすくめて話を戻す。
「それで、提案ってなんだい?」
「ああ、実は協力してほしいことがあるんだ」
そらきた、とカフカは首を振る。
「止めてくれ、聞きたくない」
「話だけでも聞いてあげようじゃないかカフカ」
「聞いたら後に戻れない、ってことにならなきゃな」
ウェイトレスが運んできた牡蠣にレモンを絞りながら、カフカはうんざりしたようにそう口にした。
以前にもあったことだ。クロノが提督になってすぐ、足場を固めたいから協力してほしいと頼まれた。その内容は、手を繋ぐべき人間とそうでない人間を調べてほしいということだった。
もちろんカフカはヴェロッサと共に、友人のその頼みを引き受けた。提督になりたての彼には信頼できる人間がいなかったし、他ならぬ友人の頼みだったからだ。けれど、
「断言していい。あのときのアレはクソだった。この世で最も薄汚いモノに触れ、最も醜い人間を目にした。あんまりだ、酷だよお前は。よりによって査察官のオレたちに―――」
「違う、今回はそういう類じゃない……」
テーブルに組んだ手に額を乗せ、絞り出すような声でそう言ったクロノに、カフカはさらに容赦のない言葉を浴びせかける。
「その言葉は信用できるのか? 忘れるなよ、お前もその場所にいることを」
「……忘れてないさ、僕はそのクソの上に立ってる。自分の足でだ」
もう楽しい昼食というわけにもいかない、とカフカは席を立とうとする。
だが、ヴェロッサがそれを引き留めた。
「まあ、前例があるわけだから信用はできない。けれど、信頼はボクたちの間にはある。そうだろう?」
「昼食代の心配ならしなくていいんだぞロッサ。ここは初めから僕が払うつもりだった」
「その信頼も、たった今崩れ落ちそうなんだけどね」
やれやれ、とヴェロッサはうなだれる。
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