強く、儚いもの。 それは確かなもの。 絶望を照らす灯台の明りの様に、暗闇を割く眩しい光の道標。 それは不確かなもの。 春先の雨、あるいは何物にも縛られず自由な猫の様に移ろい易く、実に気まぐれである。 結局の所、此れは勝手で一方的な独占欲。子供じみた我儘。 息が詰まりそうで苦しくて、呼吸をするのがとても辛い。 陳腐な約束も虚実な言葉もいらないから切に願う。 【強く、儚いもの。】 「顔色が優れませんけど、どこか具合でも悪いんですか?」 最近物憂げな表情が多くなった航海士に、淹れたばかりの紅茶を差し出しながらコックが訊いた。 「そう?気のせいじゃないかしら」 はぐらかすような返事だと思いつつもナミはそう答えてみた。白い湯気は仄かに蜂蜜の香りがして張り詰めていた神経が少しだけ緩んだように感じた。 こちらを見るサンジは訝しい表情だったが、それ以上は何も訊こうとしなかった。 目ざとい割に気が利くあたりは流石だ、と改めて彼の評価が上がる。 「風が出てきましたね」 眩しい程に晴れ渡っていた空が、昼を過ぎてから少しずつ翳り出した。 僅かに気圧も下がったので先ほど甲板に出たら、空の端に積乱雲が確認出来た。 「そのうち嵐が来るわよ」 ご馳走様、と立ち上がってナミはキッチンを後にした。 自室に戻ってやりかけの作業を再開しようと思ったが、嵐が来れば籠もり切りにならざるを得ない。 それまでのしばしの間、見れそうにない空でも見上げて風でも浴びよう。 そうすればこの鈍い痛みも多少はマシになるかもしれない。 蜜柑畑に害虫(若干2名)が居ない事を確認してから、椅子にもたれて頭上を仰いだ。 流れる雲の速さが増して、どんどん空模様は変化を急ぐ。 移ろいゆく景色はまるで人間の心の様だ、と思った。 特にこのグランドラインの天候は、通常の海のものとは比べ物にならない。 理論もデータもあらゆる知識も、時として使い物にならない。 有り得ない事が起こる、それを今まで幾度と無く思い知らされてきた。 自分の航海術が通用しない、という事実を突きつけられた時は呆然とした。 意地とプライド、自尊心だけで今の自分は何とか立っていられるのだろうか。 憂鬱だ。 どうしてこんなにも、気が重いのだろう。 焦りと苛立ち、どうにもならないもどかしさ。 ・・・ああ、そうか。 その時ようやく少しだけ、悩みの原因の糸口が見えた気がした。 視界の片隅に映り込んだのは、麦わら帽子とよく目立つ赤いシャツ。 「何やってんのよルフィ」 「う、見付かっちった」 蜜柑に伸ばしていた手を簡単にナミに振り落とされ、ルフィは所在無さげにバツの悪い顔をした。 「もうすぐ嵐になるから、部屋に戻った方が良いわよ」 諦めの悪い船長を宥めるように、適当な文句を並べた。 「嵐が来るのか!それは楽しみだ!」 「・・・あんたねぇ・・」 忠告は逆効果。奇しくも、船長はわくわくしながら船首の特等席に向かおうとしている。 呆れながらも、ナミはその後をついていった。 「ナミこそ部屋に戻れば良いだろー」 「私の居ない間に蜜柑狙われると困りますから。それに、そんな所に座ってもし落っこちたら誰が助けるのよ」 「しししっ。よろしく!」 完全に無邪気な子供の顔で嬉しそうにされても困る。 助けて貰わなければ、生きていけない自信が有る。 完璧では無いこんな男の仲間になったのは、恐らく男が完璧で無いからだろう。 単純な事に、今更気付いてしまった。 「・・なぁナミ、何で最近浮かない顔ばっかりしてんだ?」 突然真面目な顔になって此方を真っ直ぐに見据えて、ルフィが尋ねた。 あまりに唐突なので、ナミは口を開けたまま数秒ほど彼の視線を逸らすことが出来なかった。 「意外だわ、あんたにそんな事言われるなんて」 「はぐらかすなよ」 まだまだ自分は、彼を甘く見ていたんだと改めて思った。 誰よりも仲間を思いやる彼が、航海士一人の表情の変化に気付かないはずが無い。 心配してくれてるんだと思うと、少し気恥ずかしくなった。 「そうね、やっと自分でも何で憂鬱になってたのか分かった所よ」 すっかり暗くなった黒雲から、ぽつりと雨粒が落ちて至る所に染みを作った。 間もなくして、泣きじゃくる子供の様に大粒の泪が空から降ってきた。 冷たくは無かった。むしろ心地良い温かさだった。 きっと熱にでも浮かされているのだろう。濡れる事を不愉快だと思わなかった。 不安だった。 航海士として自分を選んでくれた彼の役に立てているのか。 今の自分は余りに力不足で、どう足掻いても誤魔化せない。 誰よりも、彼の近くでこの世界を見たかった。 まるで子供の稚拙な独占欲だと気付いた。 特別で、大切な存在に。「ただの」仲間以上の存在に。 彼の手に、導いてほしいと思った。 息が詰まりそうで苦しくて、呼吸をするのがとても辛い。 陳腐な約束も虚実な言葉もいらないから切に願う。 言ってしまえば楽になるのだろう。 憂鬱になる程溜め込んだ想いが何なのか。 自覚してしまった以上、誤魔化す必要も無いだろう。 「好きよ、ルフィ」 ふっきれたように穏やかな表情を浮かべていた事に、自分でも気が付かなかった。 特等席から降りた彼が、優しく自分を抱き締めている事を認識するまでに、しばらく掛かった。 彼の心臓の鼓動が、こんなにも近くに聞こえる。 すっかり濡れきっているのに、纏わり付く衣服の冷たさも感じない。 暖かな温もりだけを感じている。 こんなどしゃ降りの日には、傘も差さずにシャワーを浴びるのも悪くないと思った。 頬を伝う雫の温度が分からなくて、雨でも泪でもどうでも良くなった。 ただ単純に嬉しくて、また涙腺が緩くなった。 「泣きたい時は泣けば良い、だけど」 「お前が一人で泣くな。何だか悔しい」 せめてこの手で包んであげたら良い。 彼女の全てを理解する事は叶わなくても、彼女の痛みを感じる事なら出来る。 ならば、その痛みの半分でも引き受けたい。 そうやって少しでも色んな感情を共有したいと思った。 航海士として彼女を仲間にしたのは、彼女だったからだ。 その意味を、果たして分かってくれているだろうか。 不安にさせるものが自分であるならば、極力拭い去ろう。 遠いあの日の約束、これじゃあ全然守れてないなと気付いてルフィは密かに苦笑した。 どうしよう、殺されるよ俺。 「ナミ」 名前を呼んで、抱き締めたまま見つめあったら、自然と笑顔が零れた。 「これから先、何があってもお前は俺の隣に居ろよな」 誰よりも近くに、居てくれればそれで良い。 今はまだ、それ以上の事はしてあげられそうにない。 「・・・当たり前でしょ」 ふいに気恥ずかしくなって、ナミは顔を背けた。 不意打ちを喰らった所為で、照れ隠しの一つも出来やしない。 嵐はそう大きくならずに、しばらくして雨が上がった。 雲間から差し込む陽光の神々しさに目を奪われて、濡れた服が乾くまで眺めていた。 何よりも、誰よりも大切な人とそれを一緒に眺めていられる事がとても幸せだと思う。 それは不確かなもの。 約束も保障も保険も証明も書類のサインも無い。信じる事は裏切りと常に紙一重。 それは確かなもの。 目には見えなくても頑なな絆がそこにある。 完璧に強いわけじゃ無い。しかしだからといって儚くも無い。 だからこそ、こうやって互いに支えあって生きていける。 そんなある日の午後。 end. by:綾瀬ユウキ [次へ#] [戻る] |