カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
本編4
次の日。
なんとなくレナさんと気まずくなってしまっていたので、とにかくなんとかしなくちゃと思った。でも、何が原因でレナさんが不機嫌になったのか解らないんじゃ、私にもなんとも出来ない。
とりあえず、少し早めに『皐月堂』に着いた。二階に上がるとドアを開ける。
部屋の隅に置かれている椅子に座って、レナさんが居眠りしていた。すでにいつもの制服に着替えている。
私は音を立てないようにそっと、女子更衣室に入った。着替えが終わって更衣室を出ても、まだレナさんは眠っている。
寝不足なのかな……。
ちょっと近付いて、顔を覗き込む。
――うわ〜。睫毛が長いな〜、とか。
――やっぱりハーフか、クウォーターなのかな?とか。
そんなことを考えてみたり……。
こんなに顔近づけているのに全く起きないなんて。よっぽど寝不足なのね。きっと、論文書くのが大変なんだ。それか、もしかしたらあの後、レストランのバイトだったのかもしれない……。
「……」
ふと、思う。
――このままだと、こっそりキスとかしちゃうのも可能よね?
これだけ熟睡していたら、絶対に気付かないかも……。
そんなことを考えていたら、本当にキスしてみたくなった。
……起きない、よね? ちょっとだけ、だもん……。キスってどんなものか、ちょっとしてみたいし……。
だからレナさんが起きるとは思わなかった。
「…………!」
「…………?」
私は驚いて後退りした。自分の唇を両手で覆う。レナさんの唇の端にキスをしてしまった……!
レナさんは起きたばかりでも、今、自分が何をしてしまったのかは解ったみたいで驚いている。親指で唇の端を拭い、付いてしまった淡いピンク色の色付きリップを見つめている。
私は必死に首を何度も横に振った。
悪気はなくて! 起きるなんて思わなくて! ど、ど、どうしよう! 絶対、変な子だって思われた! やだ……やだ、どうしよう! 私のこと、嫌いにならないで!
レナさんが立ち上がった。
「ごめん。起こそうとしてくれたんだ?」
本当は違うんだけれど、私は何度も縦に首を振った。
「……そうか。ごめんね」
レナさんはそのまま、一階に下りる。私も急いでその後に続いた。
どうしよう。
レナさんにきちんとした弁解は何も出来ないまま、淡々と時間が過ぎていく。
何事も無かったように笑顔で仕事をしていても、私の心の中は大嵐が吹き荒れていた。
――どうしよう……。
キスとかってしてみたかった。レナさんにキスしてみたかった……。
でも、あんな……なんだか変なことになってしまって……。
それよりも困るのは、バイト終わる時間がレナさんと一緒だっていうことで……。
また、二階で顔を合わせるのは、ちょっと……。どんな顔をしていいのか解らない。
それでも時間がきたので、私は二階に上がった。
は〜あ……。
ドアを閉め、私は溜息をついた。
あれは事故だったと思ってもらった方が無難よね。まずは、お疲れ様でした、って言ってその後に、今朝のあれは事故ってことで!、と言って。……う〜ん……。
実際、レナさんが二階に上がってきても、
「……お疲れ様でした」
しか出てこない。
え〜と、タイミング……。
「お疲れ様。――今朝のは……ごめん」
と、レナさん。
ええ〜っと。
「あ、あれは……えっと……近付いても気付かないのね〜と思って……」
「すまない」
「ううん、別に……」
ふと、レナさんの表情がまた曇る。
「留姫は……平気なの?」
「……?」
冷たい声で言われて、私は戸惑う。レナさんの周りの空気が変わっているような気がした。
「誰かとキスしたり、誰かの部屋に遊びに行ったりするの……よくするの?」
言われて、私は顔を赤くした。
「ち、違う……」
ひどい誤解をされている!
何て言っていいのか解らなくて、でも何か言わなくちゃいけないと思ったから、私はあまり顔を見られたくなくて、上目遣いでレナさんを見上げた。
「ど、どうせ起きないと思ったから! キスってどういうものか、ちょっと興味が……」
レナさんは唖然とした。
「興味があった……?」
顔を真っ赤にして、私は頷いた。
そ、そうよ。私はレナさんに興味があるもの!
レナさんは困った顔をして前髪をかき上げた。
――かっこいい……。
そんな仕草にドキドキして、私は顔を背けた。
レナさんが一歩、私に歩み寄った。反射的に、私は逃げる体勢になった。
レナさんの手が伸びて、私の頬に軽く触れる。
「初めてのキスの相手が私でも良かったの……?」
恥ずかしくてたまらなくて、私はその手から逃げ出した。けれどすぐに腕を掴まれ、引かれた。がくんと前のめりになった私は、強引に両肩を掴まれる。
「いやっ、痛いッ」
「留姫」
レナさんの声は怒っていないけれど、冷たい。
「興味があることでも、していいことと悪いことがあるでしょう」
――やっぱり怒っているんだ。
「ごめんなさい」
「自分がどういうことをしているのか、本当に解っている?」
そう言い、レナさんが声を潜める。
「留姫はかわいいから、誰でも本気になるよ?」
びくん、と、体が震えた。
「――!」
私はレナさんの手を思いっきり振りほどいた。女子更衣室に逃げ込み、ドアを閉める。
――きゃー! レナさんのバカ! そんなこと言わないでよ! か、かわいい? 本当に――?
扉の向こうから、声がかかる。
「冗談だから……」
そう言われた。
――冗談……。
急に力が抜けた。
そっか……冗談の相手にしかならないってことか……。私なんかじゃ……ダメか……。
両手を強く握り締めた。
――泣くな。バカ。みっともない!
掠れそうになる声を、精一杯明るく出した。
「そうですよね〜。私なんかじゃ、本気になりませんよね〜」
返事は無かった。私はドアから離れ、自分のロッカーを開けた。真っ白いエプロンを外そうとして、先ほど肩を掴んでいたレナさんの両手のことを思い出した。
自分を抱え込むように、両手を肩に当ててみた。
――泣くな! 泣いちゃダメだったら!
しゃがみ込んだ。
好きな人に全く相手にされないとは思わなかった。
まさか、告白する前にあんなこと言われるとは思わなかった……。
そっか……私のキスは、つまり……迷惑だったのね……。
必死で我慢したから泣かなかったけれど、ずいぶん時間が経ったみたい。
女子更衣室から出た時には、もう、レナさんはいなかった。
テーブルの上に、メモを見つけた。スケジュール帳を一枚破ったものだった。
『用事があるので先に帰ります』
綺麗な文字だった。
それでも……それでも私は、レナさんのことが好き……。
好きでもない子を気遣って、こんなメモを残してしまうレナさんが好きだ……。
大切にそのメモを両手で拾い上げた。両手で包んで、胸に押し当てた。
トントンと軽やかな足音が響く。
「あれ? まだいたの?」
ドアを開けたのは樹莉だった。樹莉のバイト終了の時間になっていた。
「何していたの?」
「――レナさんにふられていたの」
そう言ってもすぐには、樹莉は何のことか解らないみたいだった。
「ふられた?」
「うん」
ようやく、意味が解ってきたみたいで、
「どうして――? あの人、彼女でもいたの?」
と叫びそうになって慌てて声を小さくして言った。
「彼女がいるかどうかは知らないけれど……私じゃダメみたい……」
さっき、さんざん涙を我慢したから、もう出なかった。
「ダメ……みたい……」
樹莉はじっと考えながら呟いた。そして、
「でも、まだ知り合ったばかりでしょ? もうちょっと留姫と一緒にいれば、留姫のいいところたくさん見て知ってもらったら、きっと……」
「それ、無理っぽい。そんな気力ないよ」
「根性出そうってば! いつもの留姫らしくないよ!」
「私らしくないなんて勝手に決めないで!」
思わず、口からその言葉が出た。
「留姫……ごめん……ごめんね……」
樹莉が目を潤ませた。
私は慌てて、樹莉をぎゅっと抱き締めた。
「ごめん。言い過ぎた、こっちこそごめん……」
離れて、私は樹莉の両手を取った。
「――樹莉の言うこと、もうちょっと良く考えてみるね。ちょっとショックで……私、かなりダメージ受けちゃっていて、冷静になれないの……」
私はさっきのメモをバッグにしまうと、樹莉に笑いかけた。
「明日は元気になれると思う。大丈夫だから。――じゃあね」
と部屋を出た。
家に帰ってきたら、ママがいた。今日は帰ってくるのが早かったみたい。
「留姫ちゃん、お帰りなさい!」
満面の笑顔で迎えに出たママの顔が、一瞬で曇る。
「何かあったの?」
靴を脱いで家に上がると、ママを見上げた。
ママは綺麗だと思う。現役でモデルをやっているだけある。
「ねえ、ママ」
「なあに?」
「私って可愛くないのかな?」
「可愛いわよ! 私の留姫ちゃんが可愛くないわけがないじゃない!」
「……そんなにムキにならなくてもいいよ……」
私は溜息をついた。
「なんかさ、思ったの。人に好かれるのって、難しいよね……」
ママがかなり驚いた顔をした。
「留姫ちゃん……それって、誰か好きな人が出来たの?」
私は膨れっ面で目を逸らした。
「……まあ、そんなところ……」
面倒臭い話になりそうなので、私は自分の部屋に行こうとした。
「その人、クッキーとか好きそう?」
「クッキー?」
話が急に変わったので、私は首を傾げた。
「クッキー……かぁ。好きなんじゃないかな……」
「いただきもののクッキーがあるの。まだ箱を開けていなくて。そんなに甘くないから男の人でも大丈夫だと思うけれど、持っていったらどうかしら?」
「え?」
「その人ってバイト先の人なんでしょう? 休憩時間に皆さんで食べてもいいし……」
ママはちょっと嬉しそうに
「話すきっかけにもなるじゃない?」
と付け加えた。
……きっかけ。
今は藁でも蜘蛛の糸でもすがりたい。
「持っていってみる。サンキュ! ママ」
私は明日持っていくのを忘れないように、玄関にお菓子の箱の入った紙袋を用意した。
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