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カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
本編2
 夏休み第一日目。バイト初日。
 前日眠れなかったので寝坊してしまった。本当はもっと早く起きて、きちんと髪も梳かして出かける支度をするつもりだったのに!
 急いで支度をして駅に急ぐ。この暑さだと、さっぱりと顔を洗っていてもすぐに汗だくになってしまう。
 ちょうど来た電車に飛び乗ると、空いている席に座った。夏休みだから、普段よりも空いているみたい。
 電車の窓から、夏の日差しが差し込む。
 あ〜あ…。
 バッグから四角いコンパクトミラーを取り出すと、前髪を整える。急いで結ったからいつも後頭部でまとめている髪の仕上がりがいまいち……。
 昨夜、どうしても眠れなくなっちゃったんだもの。あの人のこと思い出して、なんだか……。
 私は膨れっ面になった。面接の日にあの、私の目の前に現れた人は言った。
(「バイト? ……そう……」)
 あ〜もう! あの言い方は何なの? 思い出したらまた腹が立つ!
 彼は私のことは全然興味無さそうで、テーブルのセッティングをするためにさっさと行ってしまった。その態度は素っ気無いものだった。
 少し経ってから顔を出したマスターが、まだ準備中の店内を案内してくれた。入り口に近いテーブルで簡単な面接をしてもらい、履歴書も見てもらった。その時に、さっきの無愛想な彼が、私と同じバイトで入ったと聞いた。
 ……あんな無愛想な人にちょっとでもときめいた自分が憎らしい……。
 かっこいいとは思うけれど、なんなの、あの無愛想さは! ちょっとは笑いかけるとか、ないの?
 私のママは現役のモデルで美人だし、娘の私もそれなりにブスじゃないと思っていた。買い物とか出かけるとわりと声かけられるから、それなりに自信はあった。
(もしかしなくてもあの目は、『範囲外』って感じだし……)
 うう……でも、私の理想に近いんだけれど……。あの身長とか……髪の色や瞳の色……とっても綺麗だった……。
 ぼ〜っとしていると、いつのまにか駅についていた。慌てて下車する。
 いつも通学で使っている駅なのに、今日は違う場所に見える。
 エスカレーターを上り、改札口に向かいながら、気付く。
 ――初対面の人に愛想良くしろっていうのは、ちょっとわがままなのかも。あのドアを開けた時に私、バイトの面接に来たことを伝えていないもの。
 そうね、そこがいけなかったんだ、きっと。
 会ったらきちんと挨拶をしよう。おはようございます、って。
 念仏のように心の中で、おはようございます、を繰り返す。そんなことをしていたら、改札口を出たところで突然、前の人が立ち止まった。
 ドンッ。
 思い切り背中にぶち当たり、私はよろめいた。尻餅をついた私の手を引っ張ってすぐに誰かが起こしてくれた。
 なんと、目の前の人はあの人だった。私ってば、どうして気付かなかったの!
「大丈夫?」
 と言われているのに気が動転して
「おはようございます」
 と。そう、言ってしまった。



 私はすっかり混乱していた。私の右手を、彼の左手が引いている。手を繋ぐというよりは手首を掴まれて引っ張られているんだけれど。
 どうしてこの人の手が私を引っ張ってくれているんだろう……。
 駅から出て商店街を通り脇道へ向かう。
 『皐月堂』のドアを開けると、従業員が休憩に使っている二階に上がり、タイムカードを押す。彼は私の分もタイムカードを押してくれた。
 ようやく、思い出した。私が遅刻ぎりぎりなら、彼も遅刻しそうになっていたんだということに。
「着替えて」
 クリーニングが済んでいる制服を手渡され、女子用の更衣室のドアを指差した。私は慌てて中に入ると、私服からそれに着替えた。
 白い丸襟がかわいい黒色のワンピースはミニ丈で袖は膨らんだデザイン。真っ白いフリルのエプロン。ギャルソンヌ……というより、少し膝上ぐらいにスカートが広がったかわいいウェイトレスの制服だった。
 着替えが終わって出てくると、姿見の前に椅子があった。
 彼はすでに着替えていた。
「座って」
 どういうこと?と思ってとにかく座ると、鏡に映った自分の頭にぎょっとした。
 今朝、なんとか結っていた髪がかなり崩れている。駅で彼にぶつかった時、自分の手で引っ掛けてしまったのかもしれない。
「すぐだから」
 彼は私の髪を縛っていたヘアゴムを解いた。梳かし直し、そのまま器用に結い直す。あっという間だった。自分でするよりも綺麗に仕上がっている。
「あ……ありがとうございます」
 立ち上がってお礼を言うと、
「こっちこそすまなかった」
 と、白い二段レースのカチューシャを手渡された。
 鏡を見ながらカチューシャをはめた。
「自分で結ぶより上手……」
 あらためて鏡で自分の髪を見ていると、背後から、
「慣れているから」
 と、言われた。
 え?
 振り向くと、ドアが閉まる音がした。先に下に行ってしまった。
 慣れているって?
 女の子の髪、そんなに触る機会があるっていうこと? もしかして……!
 思い切り頭を左右に振った。
 考え過ぎた。女の子の髪の毛に触る機会があるって……思いっきりエッチな想像しちゃった!
 うわ〜、あの人、女の子とそういう関係になること多いのかしら……。それは……マジ、ひく……。



 働くって本当に大変なことなのね……!
 ウェイトレスのバイトって、もっと簡単で楽しいものだと思っていたけれど、予想を覆された。
 大きな円形のトレイを抱え、あっち行ったりこっち行ったり。
 面接の時に簡単なレクチャーはあったけれど、いざお店で本当にお客様から注文を受けてみると、こっちが何もしていないのに最初から不機嫌なお客様だとどうしても逃げ腰になる。
 あの人よりもよっぽど無愛想なお客様もいるし。
 でもいいお客様もいる。
 グラスにお水を足して回ったり、空いたテーブルの片づけをしたり。頻繁にやるとうっとおしいからさりげなくするように……でもうっかり忘れてしまったり。タイミングが難しい。
 あの人は……というと。
 私より数日早くバイトを始めていただけのはずなのに、テキパキとしている。この差は何?
 昼になってお店が混んで、四時過ぎまで忙しかった。今日は私は五時までだから、あともう少しと頑張っているうちに水の入ったグラスを一つ、床に落として粉々にしてしまった。
 その時も、あの人がさっさと掃除をしてくれた。周囲のお客様にも頭を下げてくれて、私はその後に続くように慌てて頭を下げた。
「大丈夫?」
 半泣きになってカウンターの向こうに行くと、昼からキッチンの雑用をしていた樹莉が声をかけてくれた。
 樹莉に小さく首を縦に振ってみせた。近くにいたマスターには
「気をつけます……」
 と、頭を下げた。
 でも、あの人に迷惑をかけてしまった自分が腹立たしい。なんであんな短距離なのに、グラスを落としちゃったんだろう……。
 五時になって、私は皆に挨拶をして二階に上がった。
 戻ったらホッとした。私、バイトなんか無理かも……。
 瞬きしたら涙が零れた。二人に合わせてバイト始めたけれど、向いてないよ。接客って難しい……。
 誰かが階段を上がってくる。靴音に気付いて私は涙を手の甲で拭った。
 あの人だった。
「今日はいろいろ……すみませんでした」
 泣き顔を見られたくなかったから、急いで深く頭を下げた。
「初日からこんなことじゃ……」
「初日だからだと思う」
 彼はそう言うと、男子用の更衣室に入った。
 きっと、呆れているんだと思う……。
 要領良く出来ない自分にも腹が立つ。
 そんなことをぐるぐると考え巡らせて落ち込んでいると、彼は着替えを済ませて出てきた。
「まだ着替えていなかったの?」
「……」
 言われて、女子用の更衣室に行こうとして、手を掴まれた。
 びっくりして振り向くと、彼は私を姿見の前に引っ張って行く。
 姿見に、私と、私服に着替えた彼が映る。
 彼が少し屈み、私の両肩に手を置く。
「ちゃんと似合っている。仕事が出来るように見える。大丈夫だから」
 そう言われて、私は一瞬のうちに混乱した。彼を押し退けるように女子更衣室に入った。慌ててドアを閉めると、早くなっている心臓の音を静めようとぎゅっと目を閉じた。
 うわ、うわ……!
 何度も何度も、私の頭の中に声が繰り返される。落ち着いたその声にさらにドキドキする。
 励ましてくれた……。すごく無愛想な人だと思っていたのに、励ましてくれた……!
 指が震えて、エプロンのリボンをほどいたり、背中のファスナーを下ろしたりするのにとても手間取ってしまった。
 それでも急いで着替えて出てくると、彼はそのまま待っていてくれた。
 椅子に座っていた彼が立ち上がると、
「駅まで一緒に行こう」
 と声をかけてくれた。
 それに、頷くことしか出来なかった。
 お店を出て、彼の隣から一歩下がってついて行った。自然とそうなってしまった。
 今朝もこの道を一緒に歩いたのに。
 私は彼を見上げ、なんとなく勇気が出ない自分に苛立った。
 彼が立ち止まる。
「歩くの、早かった?」
「そんなことないです……」
 慌てて、私は歩調を早めた。彼の隣を歩きながら、さらにドキドキした。
「グラス、割ったことある」
「え……」
「いつだったか、ファミレスのバイトで」
「……」
「いくつもグラス持ったりすると、慣れないと重いよね」
「……」
 励ましてくれるのは解る。でも、言われるとそれだけ落ち込んでくる……。
「グラス、両手で六個持てる」
「へ? ろっこ?」
 突然そんなことを言われて、私は驚いた。
「空になっているグラスの底と底を合わせてまず持って、人差し指と中指の間にさらにもう一個のグラスの底の方を挟むように持って……」
 外資系のファミレスで、とにかくテーブルのセッティングを急げとそういうグラスの運び方を習ったんだという。
 歩きながらグラスの持ち方を説明する彼の手が、綺麗だけれど大きいのに見惚れた。
「『皐月堂』だとそこまでのスピードを要求されないから助かる」
 彼は微笑む。
 彼の手を真似てみていると、
「牧野さんには無理だ。手が小さいから」
 と、言われた。
 な、名前知っているの?
 そういえば名前知らなかったら私のタイムカードも押せないじゃないの!
「……留姫、でいいです。呼び捨てで。あの、名前教えて下さい!」
 それはとても勇気がいる一言のはずなのに、私は声に出していた。
 彼は首を傾げる。
「知らなかった?」
 私は首を縦に振った。
「そう……」
 ちょっと彼は考える。
「じゃあ……レナ、でいい」
 レナ? なんだか女っぽい名前……。
 今度は私が首を傾げると、彼は苦笑している。
 駅に着いて、彼は私とは別の電車で帰って行った。
 エスカレーターを下りながら、何度も何度も心の中で『レナ』という名前を連呼していた。



 家に帰っておばあちゃんに声をかけると、「バイト初日、大丈夫だった?」と訊かれた。
「グラスを一個、割っちゃった」
 そう答えることが出来た。
 自分の部屋に向かうと、勉強机替わりにしている和テーブルの近くに置いてあったクッションを拾い上げた。座り込んで、それを抱える。
 レナさんに励ましてもらえなかったら……グラスを割っちゃったこと、おばあちゃんにあんな風に言えなかった……。
 初めてバイト先の物を壊してしまって、どうしていいのか解らなかった。グラスだって落とせば割れるのに。床は石をレンガのように組んだものだから、ガラスで作られたものだったらひとたまりもない。
 ――肩に手を置かれた時、声がすごく近かった……。
 クッションに顔を埋めた。
 どうしよう……すごく、好き……かも。

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