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カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
マフィンと夏空 Side:DOBERMON
 アリスが家に遊びに来た日の夜、私は眠れなくて何度も寝返りを打った。
 養父母が日本に訪ねて来る時のことを考えると、眠れなかった。それに、アリスのことを考えて……どうしても眠れなかった。
 明け方、夢の中にアリスが出て来たような気がしたが、起きたらどんな夢だったか忘れてしまった。
 ――思い出せない……。
 溜息をついて、寝直すことにした。



 うとうとしていた頃、携帯電話が鳴った。留守電に切り替わったことには気付いたものの、そのまま私は眠りに引き戻された。
 それからどれぐらい時間が経った頃だろう。
 ようやく起きる気になった。携帯電話のことを思い出して、デジモンの姿から人間の姿へとなって、それに手を伸ばした。
「――アリス……!」
 聞こえてきた声に、一気に目が覚めた。少し戸惑い気味なアリスの声が『またかけます』と。
 急いで電話をかけてみたが、こちらからの電話はかからなかった。電源が入っていないというアナウンスが聞こえてきた。
 ――何の用だろう?
 携帯電話を置いて、シャワーを浴びようと部屋を出た。
 シャワーを浴びて戻ってきても、アリスからの着信はなかった。急用じゃないのかもしれないと思い、コーヒーを入れて飲んだ。
「……」
 ――何となく、気になる……。
 考え直して、私は出かけることにした。
 支度をして外に出ると、真夏の日差しが照りつけていた。デジモンの姿になり、一気に空に駆け上がる。真っ直ぐにアリスの家を目指した。



 アリスの家の裏庭に降り立つと、アリスの気配を探した。焼き菓子の匂いと、アリスの気配を同時に感じた。
 人間の姿になって窓の傍に近付いた。そっと覗くと、アリスがキッチンで忙しそうに何かを作っている。
 ――あ、火傷した……。
 オーブンの鉄板に触れてしまい、慌てて水道の水で冷やしている。
 ――今度はひっくり返した……。
 皿の上に並べていた焼きたてのマフィンを、テーブルの上にひっくり返して半泣きになっている。
 ……もしかして、アリスは料理が苦手なのだろうか? そんな話は聞いたことがないが……?
 少し見ていると、どうやらテーブルの端に置いた携帯電話をとても気にしているみたいだった。気になり過ぎて、料理に集中出来ていない。
 ふと、自分の携帯電話に留守電が入っていたことを思い出した。私の他にも誰かにかけていて、着信を待っているのだろうか?
 玄関に行って声をかけようかどうしようか迷っていると、アリスが突然、声を上げた。「直った!」と。
 ――って、何のことだろう?
 アリスはミトン型の鍋掴みを手から外すと、携帯電話を取った。そわそわしながら電話をかけている。
「……?」
 すぐに私の携帯電話が鳴り始めたので、窓から離れてケータイを取り出して操作する。
「もしもし」
 けれど、すぐに電話は切れた。アリスが電話をかけた相手が私だったのかと、なんとなく気付く。玄関へ行こうと思ったのとほぼ同時に、
「ドーベルモン!」
 と、アリスが現れた。飛びつくように抱き付かれて驚いた。
「どうして家に来てくれたの?」
 アリスは嬉しそうに私を見上げる。
「ケータイにメッセージが残っていたから、何かあったのかと思って……。何か用だった?」
 私はアリスに問いかけた。
 アリスは微笑んで大きく頷いた。
「お菓子を作って持って行こうと思ったの」
「お菓子? 私に?」
「おやつにどうかしらと思って……」
 おやつ……。
「そうか……」
 私のためにあれを作っていたのか……。
「そうか、って……あの……?」
 アリスが不安そうな顔をする。消えそうな声になる。
「マフィンを作ったんだけれど……味はそんなに悪くないと思うの。まだ味見はしていないんだけれど、……失敗はしていないと思うわ……」
 アリスは落ち込んで、俯いてしまった。
「……ああ、――すまない。ぼんやりしてしまった」
「もしかして今日は他に予定があるの?」
「特に無いが……」
 ぼんやりと、――今朝は何も食べていないことを思い出していただけだ。
「それは今、食べてもかまわない?」
「今? ええ、もちろん食べられるわ……!」
 アリスは私の手を引く。
 玄関から家に入ると、ダイニングへ案内された。アリスの祖父に挨拶をしておく必要があると思い、どこにいるのか訊ねると、外出しているという。
 ――アリス。無用心なことはするべきではない。
 そう思ったものの、それならこのまま帰ると言えばアリスが悲しむと思ったので言えない。
 ダイニングテーブルには濃い青と白のチェック柄のテーブルクロスがかけられていた。夏らしい涼しげな印象を受けた。その上に焼きたてのマフィンと、ジャムなどを用意された。
「飲み物は?」
 と訊かれたのでコーヒーを頼んだ。
 チーズ入りのマフィンを齧る。――美味しい。
 コーヒーを用意してくれたアリスはテーブルの向かい側に座り、嬉しそうに私を眺めている。
 チョコチップの入ったものに手を伸ばす。――これも美味しい。
 ――料理が下手なわけではないようだ。
 せっかく出されたのでプレーンマフィンにはジャムをつけた。アリスが作ったらしい、甘さをおさえたスグリのジャムだった。
 アリスが使っていたオーブンは、とても古いタイプのものだった。火加減が難しいだろうと思うが、最新式のオーブンレンジはおそらく壊してしまうのだろう。制限された状況でもこんなに美味しく作れるのだからたいしたものだと思う。
 食べ終わって、コーヒーも飲み終えた。
「ごちそうさま。――美味しかった」
「本当? 良かった!」
 アリスは嬉しそうだ。
 先ほどから気になっていたことがあった。
「でも、アリスの分は?」
「私?」
 訊ねたとたん、アリスは頬を染めた。
「――朝食はもう食べたから。それに……あの、最近ちょっとダイエットを……」
「ダイエット? その必要は無さそうだが……?」
 そう言ってから、――何を気にしているのかなんとなく気付いた。ウエストはまだそこまで気にしなくても良さそうだが、もしかしたら……つまりはバストの発育が良過ぎてしまっているということなのかもしれない。同じ年頃の女の子が聞いたら羨ましがるだろうなとは思っても、アリスが好む服のデザインでは着る人の体型はある程度限定されるのだろう。どちらかというと華奢な体型の方が似合うはず。
「……」
「……」
 なんとなくお互いに気まずくなって、言葉に詰まってしまった。話題を変えようとして、アリスの携帯電話のことを思い出した。壊れていたようだが……。
「アリス。携帯電話を見てもいいか?」
 ――まさか今朝、私が電話にすぐに出なかったから……? ――アリスには申し訳ないが、いちいちそんなことで壊れていたらどうしようもないだろう。
「え……?」
 アリスは戸惑い、それを差し出した。
「壊れたのか?」
「ええ……」
 ちょっと操作してみるが、別に壊れているようには見えない。
「大丈夫のようだが?」
「そう? でも、画面がすぐに消えて……」
 アリスは私から携帯電話を受け取った。画面を覗き込んで、ちょっと操作をしてみている。
「本当! 直っているわ。どうして?」
 信じられないという顔をしている。
「――さあ? 一時的なものだったんだろう」
 私は椅子から立ち上がると、使い終わった食器を手に持った。
「いいのに……」
「片付けぐらいは手伝おう」
 私は食器を持ってキッチンに行き、洗い始めた。
 アリスは食器用の布巾を用意して、洗い終わった食器の水気を綺麗に拭いていく。
 後片付けを終えると、アリスが私の手を取った。
「まだ時間はある?」
「ああ。特に予定はないが……?」
 自分からそうしようと言い出したものの、アリスとこんな風に親しく話すことには少し戸惑う。
「見て欲しい物があるの」
 アリスは私の手を引いた。
 そのまま私はアリスについていく。
 ――アリス……?
 階段を上ろうとするので、私は立ち止まった。
「ドーベルモン?」
「――持って来られる物なら、持って来てくれないか?」
 アリスの視線が揺らいだ。少しショックを受けているようだけれど、アリスはすぐに微笑んだ。
「わかったわ。持ってくる」
 階段を上っていくアリスを見送ってから、私は視線を床に落とした。アリスの部屋には行くべきではない。自分の気持ちに整理がつかないうちは、やめたほうがいいだろう。
 本来ならばアリスと二人きりになるのも控えたほうがいいとは思うのだが、アリスが不安になるとあの携帯電話のように、また何かが故障してしまうだろう……。
 昨日、私に「好き?」と訊ねてから、アリスが少し変わってしまった。私の関心を惹こうと、自分は食べることが出来ないのにマフィンを作るなんて。私がアリスの気持ちに応えられないからだと思うと、苦しい。
 少し待っていると、アリスが大きな本を抱えてきた。重そうなので私は急いで階段の途中まで上り、それを受け取った。
「ごめんなさい。重いのに……」
「確かに。これだけ大きいと重いな」
 本だと思ったそれは大きなアルバムだった。とても古くて、今ある薄型のものではなく、スクラップブックに近いようなものだった。
 リビングのテーブルにそれを置き、ソファーに腰掛けた。アリスがページをめくる。
「――これが……私のパパとママよ」
 アリスは古い写真を指差した。
「……」
 私はそれを見つめた。
 ――ああ。私もよく知っている人達だ。
「私はどちらかというと、ママに似ているみたい」
「そうだな」
 養父は少しふっくらとした顔立ちをしている。アリスの顔立ちなどは養母の方に似ていると思う。
 アリスは嬉しそうにページをめくる。
 ――?
 ふと、私はアリスのその手を止めた。
「ドーベルモン?」
 アリスの声が遠くに聞こえているような気がするぐらい、一枚の写真に目が釘付けになった。
 その写真には養父母達が写っていた。当時の研究室で撮影したものらしい。その後ろにはガラスの入れ物があった。
「どうしたの?」
 アリスは私が見ている写真を見ようと覗き込む。けれど私はそのページをさりげなくめくった。
「――なんでもない」
「そう?」
「ああ」
 再び、アリスはページを捲る。
 ――あのガラスケースは覚えている。水槽のようなあの中から、養父母を私は眺めていた……。
 私が大きくなったある日、私があれを壊してしまった。あの時は養父母をとても驚かせてしまって、とても反省した……。
「……ドーベルモン」
 アリスの呟きに我に返った。アリスは私を見つめている。
「すまない。昔のことを思い出していた」
「昔? 子供の頃?」
「……ああ」
 あの水槽がアリスの産まれた頃にはすでにあったのなら、私は昔、アリスと会ったことがあるのかもしれない。
 私はページをめくった。
「……!」
 予感が的中した。小さい、まだようやく歩けるようになったばかりのアリスの横に、ぬいぐるみのようなものが置いてある。黒くて何のぬいぐるみなのかよく判らないものだ。
「……」
 ……嫌なことを思い出した。


 重くて苦しくて、何かに押し潰されそうになったこと、とか。
 自分が行きたい方向に行こうとすると、耳を掴まれて引き戻されたこと、とか。


 ――もしかしなくてもあれは全部、この目の前にいる少女がしたことだ……。
 あの頃――幼年期の私にとって天敵のような存在がいたことは、おぼろげな記憶ながら覚えている。
 ページをめくると、なるほど……『私』がアリスに押し潰されている写真があった。写真に写る幼い少女は機嫌良く笑っている。
「懐かしいわ、そのぬいぐるみ! とっても気に入っていたの!」
 アリスは嬉しそうに微笑む。
「ぬいぐるみ……?」
「とても大切だったのに、どこかになくしてしまったの。とても悲しくてたくさん泣いたことは今でも覚えているわ」
 ――なくした? 泣いた……?
 懐かしそうにそう話すアリスの目の前に、その『ぬいぐるみ』だった私がいる。
「そうだったのか……」
 なんだか嬉しくて、おかしい。
 けれどアリスは怒った。
「ひどい! そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
 顔を真っ赤にして怒っている。
「すまない」
「知らないっ!」
「謝るから……」
「知らないったら!」
「――そんなに大切にしてくれていたとは思わなかった」
「ええ、本当に大切だったんだもの!」
 そう言ってから、アリスは「?」と黙る。ちょっと考え込んで、私に問いかけた。
「……今、何て……?」
「……大切だったのか?、と」
 私は穏やかにそう言った。
「ええ、そうよ。すごく大切で……」
 アリスは何か、不思議そうな顔をしている。
 私はページをめくる。
 愛娘を抱きかかえる養母。その傍に立つ養父。
 そんな写真を眺めて、アリスと話しながら穏やかな時間を過ごした。



 太陽は西に傾き始めていた。
 私はアリスに見送られて、空に向かって駆け上がる。人目につかないように一気に上空に上ると、そのまま走り出した。
 ――私達は『義兄妹』なのだ。
 私はそう、何度目かになるその言葉を心の中で呟いた。
 昨日は、養父母に自分の気持ちを正直に打ち明けようと思った。けれどあの家族の幸せそうな写真を見て、本当にそうしてしまっていいのかと迷う。自分は間違っているのではないか、と……。
 ――この気持ちさえ整理がついてしまえば……。
 ずきりと、心が痛んだ。
 ――大丈夫だ。どんなに心が痛んでも……。本当にアリスが幸せになるのなら。どんなことでも出来る――。
 それにアリスも……。
「……」
 アリスはきっと、最初はショックを受けるだろうけれど――。それでも私を義兄として見てくれるようになるだろう。それが自分の両親の願いだと知れば、きっと……。
 私が恋愛の対象にならないと知れば……そのうち、アリスは他の誰かと恋に落ちる……。
 ――そうなった方が、アリスの幸せなのだから……。
 そう思えば思うほど。自分に言い聞かせれば、その分だけ――心が悲鳴を上げていた。

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