カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
夜空に咲く花 Side:Alice
「今度、映画を観に行こう」と誘われた。それはとても大きな出来事で、私は動揺し過ぎて困ってしまうぐらい。
それなのに、さらに、今週の土曜日の花火見物に誘われた。もう、どうしていいのか解らなくなってしまった。
留姫や樹莉も、レナモンさんやマスターと花火見物に行くといい、皆でそれぞれ、浴衣を着ることになった。
浴衣に着替えて『皐月堂』を出て、ドーベルモンさんと二人、しばらく歩いた。
……ドーベルモンさん、何も話してくれないんだけれど……。
私は悲しくなって下を向いて歩いた。
やっぱり私って、髪が黒くないし、茶色でもないし……浴衣は似合わないのね……。
でも、紺色の浴衣だったらこんな髪の色でも似合うって……。皆が言ってくれるのはお世辞なのかしら……。
ドーベルモンさんが呟いた。
「――送るから」
私は耳を疑った。涙が溢れた。
――そ、そんなに似合わない? 私と一緒にいたくないぐらい……? 花火見物も中止になってしまうぐらい?
他に人のいない路地で、ドーベルモンさんが立ち止まった。
私は涙で前が見えなくなって、歩けなくて立ち止まる。
――浴衣、着るなんて思わなければ良かった……!
ぎゅっと私は瞼を閉じた。ぼろぼろと涙が零れた。
――どっと、風が流れた。
「――アリス? そんな……」
ドーベルモンさんの声に、私は瞼を開く。
「そんな……泣くほど怖い?」
ドーベルモンさんの声だけれど……違う? ――大きな、犬……の足?
ゆっくり顔を上げて驚いた。驚き過ぎて声が出なくなる。
大きな――犬のドーベルマン種のような姿。でもとても、とても大きい……!
「すまない……そんなに怖がらせるつもりじゃなかったのだが……」
私は慌てて首を横に振った。
「違いますっ。そんな、違いますから!」
――これがドーベルモンさん? 本当の姿なの? どうして、デジモンの姿になっちゃったの?
私は急いで涙の言い訳を考えた。足元の下駄に気付く。
「――ごめんなさい、あの……下駄がかなり……痛くて……」
「足が?」
ドーベルモンさんが顔を近づける。温かい息がかかった。
「――――!」
――きゃあ――っ! あ、足っ! 舐めた――――!
逃げる間もなかった。ざらりとした舌の感触に体が硬直した。
「だ、だ、大丈夫ですっ……から……!」
ドーベルモンさんが腹這いになる。
「移動しよう」
「え?」
「乗って。下駄は脱いで、手に持って」
「乗って、って……!」
私が背に乗りやすいように? の……乗るの?
小さい頃、うちで飼っているゴールデンレトリバー犬のアレックスの背に乗って、おじいちゃんに怒られたことがある。――でもドーベルモンさんほど大きいと、私が乗ったぐらいなら平気なのかしら?
「すみません……」
ドーベルモンさんの背に乗る。でも、何も掴まるところがない。首にはめている金属には大きな槍先のような突起がたくさんついていて、触れるとケガをしてしまいそう。浴衣だから横座りのような、不安定な体勢だもの、余計に……。
おじいちゃんに教わったことがあるけれど、デジモンの中には戦いを好む者もいるらしい。もしかしたらドーベルモンさんって、ケンカとか……するタイプなのかしら?
ドーベルモンさんは立ち上がる。
――きゃっ!
「大丈夫?」
「大丈夫です……」
――本当は全然、大丈夫じゃない。ドキドキし過ぎて、心臓が壊れそう!
「あまり走らないようにするから。怖かったら、言って」
「はい」
とんっと、ドーベルモンさんが跳んだ。
――きゃあああっ!
民家の塀を足場に、更に空に跳んだ。そのまま、何もないはずなのにそこに道があるように走り出した。
必死にしがみ付いた。眼下に広がる街並みがどんどん遠くなる。
――高い!
目が回りそうなぐらい高い。
――ああ、やだ! どうしようっ、すごく怖いっ!! こんなところから落ちたら、絶対、死んじゃうっ!
ド――ンッ。
大きな音が鳴り響いた。
夜空に、大輪の花が咲いた。光の花は緩やかに花びらを広げていく。
「きれい……!」
その花が消えないうちに、また、すぐに次の花が生まれた。
「わぁ……」
怖い気持ちがどこかに吹き飛んでいた。次々に打ち上がる花火に、私は溜息をついた。
ドーベルモンさんはやがて、駅からずっと離れた場所にある複合型商業施設のタワーの真上に降り立った。
私はドーベルモンさんの背から下りた。花火がとても良く見える。
「もっと近くで見せることが出来たらいいのだが、あまり滞空は得意ではないから……」
いつのまにかドーベルモンさんは人間の姿に戻っていた。
「すみません……重かったですか……?」
最近ちょっと甘いもの食べ過ぎで太っちゃったもの……。
「別に。アリスぐらいの体重だったら、あの姿の時じゃなくても持ち上げることは出来る。――試そうか?」
「え……! 遠慮しますっ」
「……冗談」
――ひ〜ど〜い〜!
私は顔を真っ赤にして横を向いた。
「ほら、花火……」
ドーベルモンさんが近付いて、手摺りにもたれた。夜風が長めの前髪を揺らしている。
――ドーベルモンさん、かっこいい……。
ドキドキしながら、私は隣に並んだ。
綺麗な花火を、一緒に眺めた。夜風が気持ちいい。昼間の暑さが和らいでいて、過ごしやすい……。
「足は大丈夫?」
私はドーベルモンさんを見上げた。本当のことを言いたくなった。
「本当は……足が痛いのは嘘なんです」
「それなら、やはり怖かった?」
「いいえ、その……ドーベルモンさんが花火見物をしないで帰るんだと思って……」
「それは誤解させてしまってすまなかった。『帰る時に送るから、少し遠くに行ってもいいだろうか』と思って、ああ言っただけだ」
「私、嬉しかったんです。――花火を一緒に見られること、すごく嬉しかった。昨日は夜、あまり眠れないぐらい……。だから、花火が終わるまではここで……一緒にいて下さい……」
――本当の気持ち、言えちゃった……。
私は恥ずかしくなって俯いた。手摺りから手を離す。手が震える、体が震える……。
ドーベルモンさんの腕が伸び、肩を抱き寄せられた。――抱き締められた。
……何が起きているのかよく解らないうちに、前髪にキスされた。
「――Danke.」
ドイツ語だとすぐに解った。意味は『ありがとう』。
――ありがとうって、言ってくれた……! キスされちゃった!
「こちらこそ。ドーベルモンさんと花火を見られて嬉しい……Vielen Dank……」
――私からは『ありがとうございます』。
ドーベルモンさんが驚いている。
「両親がドイツにいるんです。ずっと会っていないけれど……いつか会えたら、ドイツ語で話すことが出来たらいいなと思って……少しだけ。発音、変じゃないですか?」
「正しい発音だ。――そうか。私の養父母もドイツにいる。数年前までは私もドイツに住んでいた」
「そうなんですか?」
「日本の大学で学びたいことがあったから、この国に来た」
「それじゃ……」
「ドイツの大学も卒業している」
「ええ! そうなんですか?」
ドーベルモンさんが苦笑する。
「アリスに解らない言葉で言いたかったんだが」
「どうしてですか?」
「日本語はあまり得意じゃない」
「そうは見えませんけれど?」
「発音や、アクセントや……とにかく苦手だ」
「……ドイツ語頑張って覚えようかしら」
「無理しなくていい」
「でも私、ドーベルモンさんともっと話がしたいんです」
「アリス……」
ドーベルモンさんが微笑む。――こんな笑い方するんだ、と思うような、そんな優しい微笑みだった。
「私もアリスと話がしたい」
そう言ってもらえて、すごく嬉しかった。
花火が終わって、家の近くまでドーベルモンさんが連れて行ってくれた。
「じゃあまた明日……Gute Nacht.」
私がそう言うと、ドーベルモンさんも微笑む。
「また明日。――Gute Nacht.」
私は夜空を走っていくドーベルモンさんをいつまでも見送った。
姿がもう見えなくなって、私は家に行こうとした。
「……?」
誰かの気配がして、振り向いた。けれど、誰もいなかった。
私は首を傾げたけれど、そのまま家へと歩き出した。
「デジモンにとって、きみの存在は脅威になる」
振り向くと、いつか見た、銀髪の男の人が立っていた。
びっくりして走って逃げようとしたら、いつの間にかその人は目の前にいた! ――怖い!
「けれど、彼とずっと一緒にいることは、きみには出来るはずだ」
「え……?」
「だから安心していい。このことはきみだけの秘密だ。彼にも言ってはいけない」
――秘密……?
「私はきみの味方だ。――また、会おう」
銀髪の男の人は、消えた。
何者なんだろうと呆然としていると、そこにアレックスの鳴き声が聞こえた。
おじいちゃんもいた。
「アリス。そろそろ帰ってくる頃だと思ったよ」
私は微笑んだ。
「ただいま、おじいちゃん」
アレックスが吠え、……けれど、ふと、それを止めた。不思議そうな様子で、私の浴衣に鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。
――ドーベルモンさんと会っていたの、ばれちゃう!
けれど、おじいちゃんは言った。
「デジモンと会っていたのかと思ったが、そうではなかったようだね」
「え? ええ……」
曖昧に、私は頷いた。
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