カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
本編19
翌日の水曜日。私はバイトを休んだ。
早朝、家を出た。電車を乗り継いで病院の最寄駅へ向かい、駅前から出ている循環バスを待つ。
雨が降っている。早くバスが来ればいいのに、なかなか来ない。雨のせいでバスの運行時刻に遅れが出ているみたいだった。
ようやく来たバスに乗り、昨日行った病院に向かう。ひっきりなしに雨が窓を叩いていた。
病院に到着し、テイルモンさんが案内してくれて、キュウビモンのいる病室に行った。
彼がいたのは個室で、人間の姿で眠っていた。
「まだ眠っているから、起きたらベッドの上の呼び出しブザーを押して呼んで下さい」
と説明してくれた。
テイルモンさんが部屋から出て行き、私はベッドに近付いた。
――昨日のことが、全部嘘みたい……。
あんな……一歩間違えたら、怪獣映画みたいになってしまいそうな騒ぎになって……。
壁際に、バケツに入れられた花束がいくつかあった。
――そういえば、モテるんだっけ……。
すぐに決まった検査入院。しかも実質二日間だけなのに、こんなに花束を貰うなんてよっぽど……。
裏取引されている写真って? 見たいような……怖いような……。
近くにあった椅子に腰掛けると、しばらく彼の様子を眺めていた。
――?
誰かが髪を触っているのに気付き、私は目を覚ました。レナの手だった。
起き上がると、レナは天井を見上げていた。
「……ごめん、眠ってしまって……」
ベッドの端に突っ伏して眠ってしまっていた。今朝、早起きしたから……。
「具合、どう? 元気?」
「ああ」
レナは天井を見上げたまま呟いた。
「そう? 良かった。朝食の時間の時になっても起きないんだもの。――ええと、何か食べる?」
「……首の、邪魔だ……」
――?
レナは髪を束ねていて、首が見えたけれど、そこに何かの管が刺さっている。点滴……?
「留姫の顔が見えない」
「寝返りもうてないわね」
レナが目を閉じた。
「――留姫。バイトは休んだの?」
「昨日みたいなことが起きたら困るんじゃないかなって思って……」
「昨日……?」
「覚えていないの?」
「何かあったの?」
「うん、あったけれど……。本当に覚えていないの?」
「……留姫がここに来るほど?」
「後で話すね」
私は椅子から立ち上がり、レナの枕元のブザーを押そうとした。
「――留姫には何もなかったんだよね?」
「え……?」
私は手を止めた。
――私の心配なんかしないでよ……。
「大丈夫」
「だったら話して」
「後で先生方から聞いたほうがいいよ。私、ちょっとしかいなかったから」
「今、聞きたい」
「頑固……」
私はちょっと考え、簡単に説明した。
「――キュウビモンの姿で、麻酔から目が覚めちゃったみたいだった。起き上がろうとしたから大騒ぎになったの。でも……すぐにまた眠ったの」
レナは目を閉じたまま、呟く。
「麻酔は、約十時間効くと聞いていたけれど……」
「そういうこともあるんじゃないかしら? 歯医者での治療だってそういうものじゃない?」
あの場合は違うとは、私も感じていた。それぐらいの騒ぎだったもの。でも、そんなこと言えないじゃない。
「……やっぱり、何かあった?」
レナが訊ねる。
「何もないったら!」
「……不安そうな言い方だから」
「……だって、」
私はわざと、明るく言った。
「レナって病気みたいなものだったんでしょう? レナモンから他のデジモンには進化しないんだって、皆から聞いたの」
「最近……急に、進化出来るようになって……キュウビモンの姿にしかならなくなった……」
「すぐに病院に行かなくちゃ! そんなに病院、嫌いなの?」
「何日かかるか解らないと思ったから。……それに……留姫に迷惑がかかるかもしれない……」
「迷惑? バイトのこと? 大丈夫よ、それぐらい」
私はブザーを押した。
私は注射針を見つめた。
――こういうこと!
「はい、力抜いて」
サッと採血された。全然痛くなかった。
「すごい、テイルモンさん! 全然痛くありませんでした!」
テイルモンさんが少し照れたような顔をした。
「私も注射苦手だったから。注射だけは上手くなりたいって思ったのよ」
「そうなんですか……」
問診の後に採血をされた。口の中の粘膜もDNAを調べるために少し採られた。検査結果などはすぐに出るらしい。
「ありがとうございました」
私は病室を出ようとした。
「ウィザーモンせんせ〜!」
小さいデジモンが病室に来た。幽霊のようにドアを通り抜けて――!
「順に呼びますから!」
「キャ――ッ!」
テイルモンさんがその小さいデジモンを素早くつまみ、ドアを開けて放り出す。
「あの……!」
あんな小さいデジモンに乱暴なんて!と驚くと、
「いいの! あの患者さん、いつもは究極体で巨体なのに通院日だけ幼年期Uに戻るんだからっ!」
ギリリッと奥歯を噛み締める。
――うわぁ、またソーゼツなところ、見てしまった……。
「テイルモン、あの……」
背の高い、優しそうな目のお医者さんが顔を出す。
「今、声がしたようだけれど?」
「何でもありませんっ!」
テイルモンさんはそう言い放ち、部屋の外に出て行ってしまった。
――なるほど。この人が、噂のウィザーモン先生……。
困った顔をしている。こんなかっこいい先生がモテないはずはない。老若問わず……ええと、この場合は幼年期から究極体まで……?
「牧野さん。キュウビモンの検査も無事に終わって、良かったですね」
話しかけられた。
「あの高さから落としたら一大事になると思いましたが、案外なんとかなるものですね」
――え? もしかして、この先生が……?
「昨日は、ありがとうございました!」
「お大事に」
ウィザーモン先生は微笑む。
私は頭を下げ、病室を出た。
病院の廊下を通りながら、レナのいるずっと奥の病室に向かう。
ほんと、いろいろな姿のデジモンがいる……。
周囲をちらちらと見ながら、私は歩く。
小児科の近くを通ったら、笑い声がした。廊下の窓越しに室内を覗くと、病院内の保育施設にいるらしい小さいデジモン達が遊びまわっている。追いかけっこをしたり、馬跳びをしたりしている。
――かわいい! レナにもこういう時期があったのかな? 幼年期の時って、いったい、どんなデジモンだったんだろう。
「……」
――レナは……キュウビモンに進化出来るようになったらダメだったのかな……。もしもとても悪い病気だったらどうしよう……!
「留姫」
呼ばれて顔を上げると、マスターがいた。
「マスター!?」
思わず、病院内なのに声を上げてしまった。
「用があって、店はドーベルモンに任せて来た。これからレナモンの見舞いもしていこうかと……」
「用事ですか?」
――あれ? 病院に…用事って?
「こんなところで、どうした?」
私はマスターを見上げる。ほら、と注射の跡を見せる。
「私も検査受けました」
マスターが眉をひそめる。
「そうか……」
そう言い、私を促して歩き出した。
「『バッカスの杯』には似ているらしいが、別のものかもしれないそうだ。感染源の特定は難しいようだが、昨日、暴走しようとしたキュウビモンが留姫の声に反応したから、院内では注目しているようだ」
「……」
「そんな顔をするな。誰も留姫のことを責めたりはしない。人間が媒介することもありえない」
でも、無関係ってわけじゃないもの。責任は感じるもの……。
マスターが立ち止まり、窓の外を眺めた。雨は止み、灰色を帯びた景色が広がっている。
「夏で……こんな曇り空で、時折、雨が降っていた……」
――?
「『バッカスの杯』に幼馴染が感染したことがある。五年前のことだ」
「……?」
「死んだよ」
マスターはそう、言った。
私はマスターの横顔を見つめた。
「『バッカスの杯』という名は、あだ名みたいなもので、正しい名前は他にある。けれども皆、その別名で呼んだ。攻撃性が増し、凶暴化する――まるで酒に酔っているように気分がいいらしい。ドラッグに近くても危険ウイルスに指定されたのは、周囲のデジモンを次々に殺していくからだ。そして一定時間後に症状が弱まる。その時には、『バッカスの杯』に関係なく――誰もが自らの死を選んだ……。
我々はほぼ、半永久に存在し続ける存在だ。けれども自らの死を選んだ場合は、デジタマに戻る再生方法を選択せず、消滅する。――つまり、死ぬ」
マスターは淡々と、そう言った。
「そんな……」
「――そういう顔をしなくてもいい。もう五年も経った。だから――気持ちの整理は終わっている」
と、私の方をそっと見て、また、窓の外へ視線を戻した。
「あの頃は、この人間の住む世界――リアルワールド――に住み始めたデジモンが社会秩序を乱さないように働きかける……そういう仕事をしていた。こちらの世界だと、警察、消防のような役割だ」
「この前、料理の先生をやっていたって……?」
「もともと興味はあって調理師免許は持っていた。あの仕事を辞めてしばらくしてから、調理師養成学校に勤務したのは本当だ」
「そうだったんですか。……ごめんなさい」
「謝らなくていい。前から辞めようと思っていたから、あの騒ぎはきっかけになっただけだ。――それにしても、今さらあの名前を聞くとは。おかげでこちらが知りたい情報は入手し放題。――戻って来いという奴らがうるさいんだが――戻るつもりはない」
と、マスターは目を伏せた。それから、私の方を見る。
「何か情報が入ったら連絡する。――知り合いは上手に使うものだ」
「ありがとうございます……」
「それと……樹莉にはこのことは話さないで欲しい」
「はい」
――そうね、心配かけるから。亡くなったのが幼馴染だっていうんだから……。
ところが、マスターは思いがけないことを言った。
「その幼馴染とは一時期、婚約していた。――だから、余計なことは言わないで欲しい」
……婚約って……フィアンセってこと!?
「そんなに大げさなものではない。幼馴染だったから親同士が決めただけで、他に好きな相手が出来た時には婚約は解消されることになっていた。私と彼女は兄妹のようなものだった。彼女は就職してから好きな人が出来て――そいつは私の同僚で、やがて結婚することになった。――その矢先だった」
なんでもないように、マスターは話す。
――なんか、とんでもないこと聞いちゃったんだけれど……。
何て言っていいのか解らなくなってしまった。
さらに、やっぱりなんでもないようにマスターは付け加える。
「――どちらかというと、その後のことを樹莉に知られたくない。――やさぐれていたから」
「……?」
「最近はそういう言い方はしないのか? ――不良になっていた、だと話が通じるか?」
「不良って……!」
私が絶句すると、マスターは
「ああ、不良って言葉は残っているのか……」
と、一人で納得している。
「マスターが? 想像も出来ない……!」
「今の私から考えるとな。――だから、樹莉には内緒だ」
マスターは肩をすくめて歩き出した。
私は呆然と、マスターの後ろ姿を見つめた。
――そんな爽やかな顔して何を言っているんですか! そんなに立て続けにいろいろ言われたら、びっくりするじゃないですか!
マスターが角を曲がって行ってしまったので、私は慌てて後を追いかけた。追いつくと、マスターは何事もなかったように他の話を始めた。本当に先ほど聞いたことが真実なのかと疑ってしまうぐらい。
やがて、レナのいる病室に戻った。
「レナ……?」
室内には、誰もいなかった。
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