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カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
本編2
 スプリンクラーから降り注ぐ水しぶきが火災を防ぐ。ドラマや映画でしか見たことがなかったけれど、降り注ぐ水は強い。予想もしていなかったので驚いたけれど、感心している余裕は無かった。
「アリス! アリス、嘘でしょう? アリスッ――――」
 爆発が起きる前にアリスが泣いていて、アリスの両親はドーベルモンさんを自分たちの息子だと主張していた。それって――息子ってどういうこと? 自分達の子供だって言っているのよね? でも、アリスの両親は人間だもの……それなのにどうして、ドーベルモンさんが息子なの? じゃあアリスは? アリスも娘なのよね? どういうことなのかさっぱり解らないっ!
「――え? 待って!」
 どうしていいか解らなくてただアリスの名前だけ呼んでいた私は、意識を失っているアリスの腕から医師達が小さいデジモンを取り上げてしまったので驚いた。
 無菌状態の部屋で隔離していた上、退化してしまったんだもの、ドーベルモンさんは間違いなく危険な状態のはず。もしかしなくても命に関わるかもしれない。
 でも! アリスから引き離してしまうの? そんな――!
「待って下さいっ!」
 声を上げたけれど、
「留姫!」
 足元にいたポコモンに強い口調で呼ばれた。
「でもっ!」
「留姫、ダメだ」
「だって! だって、あのデジモンはドーベルモンさんなんでしょう? アリスから引き離すなんて、ダメよ! 止めなくちゃ……」
「留姫、落ち着いて。二人が無事かどうか、まずは診察してもらおう」
「でもっ!」
「留姫! 私の言っていることが正しいかどうか、良く考えて」
 ポコモンにそう言われ、私はぎゅっと両手を握った。
「だって……」
「良く考えて!」
 私は唇を噛み締め、
「……ポコモンは正しいわ」
 呟くようにそう言う。それが精一杯で、思わず瞳から涙が一粒こぼれた。悔しかった……。
「留姫……」
「なんでもない……」
 思わずこぼしてしまったけれど、涙はそれ以上流れなかった。悔し泣きしても仕方ないことだと解っているから。ここで私が泣いたからって、誰かがなんとかしてくれるわけでもないもの。
 ――ポコモンの言うとおりよ。しっかりしなくちゃ!
 泣くよりももっと、アリス達のために出来ることがあるはず……!
 医師のうち一人は、床に仰向けに横たわらせたアリスの脈を診て、傷の状況なども診ている。傍にいる看護士さんに二、三言ほど伝え、立ち上がる。
「右手にかすり傷を負っていますが、大丈夫です。頭を打っていないか、目が覚めたら念のため検査を受けてもらいます」
 そう言われた。
 運ばれてきたストレッチャーでアリスを別の病室に運ぶ準備がされた。寝台にベルトで固定される。
「どなたでもいいので一人、付き添いをお願いします」
 別の看護士さんがそう言い、私達を見回す。
 保護者であるアリスの両親は予期せぬ事態に立ちすくんでしまっていた。アリスのお母さんは震えながら、
「私が……」
 と、握り締めていた手を上げた。恐る恐る上げたその手を拒絶するように、
「遠慮してくれ」
 と言い、一歩進み出たのはアリスのおじいさんだった。アリスの両親に強張った顔を向ける。
「もうたくさんだ。お前達は近づかないでくれ」
 アリスのおじいさんがそう言ったので、傍で聞いていた私は驚いた。
「……!」
 アリスのお母さんは言葉を失い、アリスのおじいさんを見つめる。
 アリスのお父さんが、
「父さん……」
 と歩み寄る。
 アリスのおじいさんは肩を震わせるほど怒っている。
「家から出て行ったのはお前達だ。今さら、どういうつもりでアリスの前に現れた? お前達はアリスの親だからここに来たのではなく、研究対象だったデジモンの様子を見に来ただけだろう?」
 たたみかけるように訊ね、さらに突き放すような口調でそう告げるとアリスのおじいさんは背を向けた。
「父さん、それは……それは違うんだ……」
 ようやくアリスのお父さんが搾り出すように言った。怒りに真っ赤になっているアリスのおじいさんとは対照的な、血の気の失せた顔をしている。
「何が違うんだ――!」
 アリスのおじいさんは恫喝するように声を荒げ、振り返った。
「アリスよりも『D-X10』を選んだのはお前達だ。今さら現れないでくれ! 見捨てた娘を――アリスをこれ以上傷つけないでくれっ!」
 アリスのおじいさんはそう怒鳴ると、アリスの両親に背を向けた。看護士さんに向かって
「アリスは私の孫です。どうか……どうかアリスをよろしくお願いします……」
 と頭を下げた。
 私は両手を握り締めた。何が起きているのか少しだけ解った。アリスのおじいさんがアリスの両親を拒絶していること……。ただそれだけしか解らないけれど……。
 ――アリス……!
 アリスが運ばれて行ってしまう。けれど私には、どうしていいのか解らない。運ばれていくアリスを黙って見送るわけにはいかない。でもこの場で私が何をどうこう出来るわけがない……。どうしていいのか全然……本当に頭の中が真っ白になりそう!
 ――どうしよう、どうしよう……。アリスをなんとかしなくちゃ。ドーベルモンさんも……。だって、アリスとドーベルモンさん達の大ピンチじゃない!
 混乱しているうちに、今はとにかく、アリスのおじいさんを追いかけなくちゃいけないような気がしてきた。
 ――そうしていいの? 私、アリスと友達だというだけで……アリスのおじいさんにとっては部外者じゃない? 怒っていて怖いし! でも、やっぱり追いかけた方がいいんじゃないかしら? あーあ、もうっ!
「留姫っ!」
 ポコモンに呼ばれた。私は足元を見下ろす。
「私がここに残るから、アリスのおじいさんと一緒にアリスのところへ行って」
 迷う私の背中を押すように、ポコモンがそう言ってくれた。
「う…うん……でも……」
「行って!」
「解った……!」
 私は頷いた。
「私、行ってくるね。お願いね!」
「急いで」
 ポコモンはしっかりと私を見つめる。ポコモンは小さい体なのに、とても頼もしく感じた。
「うん! ――すみません。失礼しますっ」
 私はアリスの両親に深く頭を下げ、すぐにアリスのおじいさん達を早足で追いかけた。
 廊下を曲がり、エレベーターに乗りこんでいく彼らに追いついたけれど、エレベーターのかごの中はすでに満員だった。
「何階へ行くんですか?」
 急いで声をかけたけれど、断られるかもしれないと思った。そう言われてしまったらどうしようと身構えたけれど、
「六階だから。すまないがこの次のエレベーターに乗ってくれないかい?」
 アリスのおじいさんが申し訳なさそうな顔をして私に言った。
「解りました」
 私は頷いた。次のエレベーターでと言ってもらえたなら私がついて来ることを許してもらったってことだもの。
 ――早く来い、エレベーター!
 アリスのペットボトルのお茶などを抱え直し、エレベーターがまた戻って来るまで私はじりじりしながら待った。
 ようやく来たエレベーターに急いで乗り込むと、すぐに追いかけた。



 個室の病室の前で私は待った。アリスが運ばれたその病室は、ちらりと中が見えたけれどベッドが一つ入っているだけの狭い部屋だった。
 ――アリス、大丈夫かしら?
 私が部屋の前に着いてから五分ぐらいで、看護士さん達が部屋を出て行った。あれから十分ぐらい経ったかもしれない。
 ようやくまたドアが開く音がして、私は顔を上げた。
「すまないね……」
 付き添っていたアリスのおじいさんは病室から出て来ると、私に頭を下げた。
「牧野さんにも心配をかけて……」
 私はアリスと中等部の頃から同じクラスで、ずっと一緒だった。アリスのおじいさんとは授業参観や学園祭、それにアリスの家でも会ったことがある。厳しい人だと思っていたので、私は緊張した。
「いいえ……」
 私は首を横に振った。
 アリスのおじいさんは
「ここは急患用の予備の病室らしい。アリスが目を覚ますまで借りることが出来て良かった。目を覚ましたらすぐに検査を受けるように言われたが……」
 そこまで言ってふと我に返ったように
「今話す必要は無いか……。ひとまず、ちょっとでもいいから一息つこう。疲れてしまった……老いには勝てぬ」
 と肩を落とす。
 私は
「突然のことで驚いたからだと思います……」
 と遠慮がちに話しかけた。
「年寄りが怒鳴り散らして、みっともないところを見せてしまったね」
「え……いいえ、そんな……」
 私は返答に詰まった。恐る恐る、
「あの、これ……アリスが先ほど買ったものですが……」
 飲みかけのペットボトルのお茶と、まだ手をつけていないバウムクーヘンをおじいさんに手渡した。
「運んでくれたのか。そうか……すまないね。ありがとう。目を覚ませばあの子も喉が渇くだろうから、目につく場所に置いておこう」
 アリスのおじいさんはそれらを抱えて病室へ戻り、またこちらに戻って来た。廊下に出てから部屋の中を少し覗いてアリスの様子を再度確認して、それから音を立てないように静かにドアを閉める。
「私はコーヒーでも飲もう……」
 疲れた顔のおじいさんについて行き、私は廊下の端に向かった。自動販売機と、ソファがあった。廊下はたまに看護士が他の病室へ行き来するぐらいで、静かだった。
「うーん……」
 自動販売機には甘いコーヒー飲料の他は緑茶と麦茶しかなくて、おじいさんは顔をしかめる。
「甘いのは苦手なんですか?」
「これは以前に飲んで、そんなに好きな味じゃなかったから……」
「そうでしたか。あの、何か売店で買ってきましょうか? 違うコーヒーがあるかもしれませんから」
「それは申し訳ない。これでいいよ、これで」
 少し迷った末に、甘くてもコーヒー飲料を買うことにしたみたい。小銭と引き換えにガタンと音を立てて缶コーヒーは落ちてきた。その音は静かな廊下に意外なほど大きく響く。
 アリスのおじいさんと私は、自動販売機の横に置かれているソファに座った。黒いビニール皮革のソファは、いかにも病院といった雰囲気で少し冷たく感じた。
 アリスのおじいさんは仕方無さそうな顔をして甘いコーヒー飲料を少しずつ飲んだ。
 私は飲みかけだったお茶を飲んだ。すると、とても喉が渇いていることに気づく。冷たくなくなってしまったお茶でもそれなりに美味しく感じた。
 私はあんパンを買っていたけれど、アリスのおじいさんにそれを半分すすめた。
「甘いもので申し訳ないのですが……」
「ありがとう。せっかくだからいただこうか」
 アリスのおじいさんは少し緊張を和らげたみたい。私が半分にちぎったあんパンを受け取ると口に運ぶ。二口ほど食べて、ふうっとアリスのおじいさんは溜息をついた。やっぱり甘いものは食べにくいのかもと、私は内心とても気まずく思ったけれど、
「あの若者が『D-X10』だったとは……」
 おじいさんの口から溜息に続いて出たのは、ぽつりとした呟きだった。
「それって、どういう意味の言葉ですか? ドーベルモンさんのことですよね? なぜそう呼ぶんですか?」
 私が問いかけると、アリスのおじいさんは「ああ」と頷く。
「ドーベルモンという名前だったね……」
「はい」
「そう……」
「ドーベルモンさんのことを、おじいさんは以前から知っていたんですか?」
「……」
 アリスのおじいさんは顔を曇らせた。
 私が質問したらマズイのかも?と、ちょっとためらわれたけれど、さらに
「アリスのお父さんとお母さんもドーベルモンさんのことを知っているみたいですよね……?」
 と訊ねてしまった。思わず口から出てしまった言葉に、すぐに後悔してしまった。
 ――訊いたらいけなかった?
 心の中で慌てたけれど、アリスのおじいさんは深い溜息を一つ吐き出す。それから、まっすぐ視線を前に向けた。その表情が一瞬のうちに変わっていたので私は驚いた。アリスのおじいさんの瞳の奥に、強い光が生まれていた。生き生きとしていて、ほんの数秒前よりずっと若く見える。
「昔のことだ。まだアリスが生まれる前だ……」
 と昔を懐かしむように話し始めた。
「昔、息子夫婦――いや、まだあの頃は結婚どころか恋人でさえなかったが――息子と研究仲間だった息子の嫁はネット上で見つけたとある塊……ほんの小さいそのデータが、実は生きたものだと気づいた。構造を調べてみると信じられないことに人間が作り出したものではない。それなら誰が? まるで未知との遭遇、そのものだった」
 私は驚いた。
「それって、デジモンのことですね!」
 ドキドキしながら私はアリスのおじいさんを見つめた。
「私達だけではなく、各国の科学者達が研究した。自分達が作り出したコンピュータ・ネットワークに未知なる生命が宿っているという仮説を探求し、その答えを探し出そうとした。――大いなる冒険だった。人間がコンピュータ・ネットワークを作り出したと思っていたのに、それ以前に同様なものがありコンピュータ・ネットワークがたまたまつながっただけだという説も生まれて論争が起きた。いまだに結論は出ていないが……。
 心を躍らせた息子達は夢中になって、その小さいデータの塊を研究した。ところがそうこうしているうちに、他の科学者達が無数のデータ群を見出し……デジタルワールドという存在に辿り着いた」
 そこで言葉を区切るように一拍置いてから、アリスのおじいさんは
「――つまり、私達は遅れをとってしまったのだ」
 と、自嘲の笑みを浮かべてそう言った。
「え? どういうことですか?」
 私は首を傾げた。
 アリスのおじいさんは私を見つめる。
「小さいデータに夢中になって、ノーベル賞に匹敵する大発見からは遅れを取ってしまった。周囲からの視線が辛かったよ……無駄な研究に時間を費やしていると、ひどい言われようだった」
「え……!」
 私は瞬きをした。
「無駄って、そんな……。だってその小さいデータって、デジモンですよね? そちらは大発見じゃないんですか?」
「わりとよくある話だよ」
 アリスのおじいさんは自分の膝に視線を落とす。広げた両手の平を見つめる。
「デジモンなどというものが認識されることがない、ずっと昔の話だ。息子達が夢中になっていたのはデータの大きさも幼年期デジモンには全く及ばない、ごく小さいものだった。デジモンではないけれど近い、育てればデジモンになる可能性を秘めたものだった」
 アリスのおじいさんは、ふっと笑みを漏らした。広げた両手の平を合わせるようにゆっくり組む。再び、視線を前に向けた。その視線はずっと昔の世界へ再び向けられているように感じた。
「その小さいデータの塊が、これまたほんの少しの小さいプログラムとして育つにつれて……息子達には親としての感情が芽生え始めていた。不思議なものでそれがきっかけになり、息子達は研究者同士であるお互いを恋人として意識し始め、やがて本当に結婚してしまった。――でもね、きっかけは何であれ、私は嬉しかったよ。息子の嫁は気立てが良いから、ずっとそうなるといいと願っていたんだ。だから……アリスが生まれて嬉しかった。アリスはその小さなプログラムを見るとごきげんでね、にこにこ笑うんだ。まるで兄妹みたいだと思ったよ。私も、息子夫婦も……」
 私は混乱してきた。
「それって……その、ええっと、小さなプログラムって……! デジモンに育ったんですよね?」
 思わず立ち上がり早口に問いかけた。
 アリスのおじいさんは私を見上げる。
「不思議だろう?」
「じゃあ、まさか本当に?」
「そうだ。――それは質量を保つ存在になり、やがて……息子夫婦の間に生まれたアリスの遊び相手になった」
 私は思わず、両手で自分の口を覆った。
「じゃあ――」
 手が震えた。その両手を握ると、アリスの病室のドアを見つめた。白いドアは開く気配も無い。アリスはまだ眠っていると思うから。
「そんな……」
「アリスは小さかったから解っていなかった。お気に入りのぬいぐるみだと思っていた。今でもそうだ」
「そんな…そんなことって……」
 私はアリスのおじいさんへ視線を戻す。ソファに座り直すと、アリスのおじいさんを見つめ、問いかける。
「アリスはドーベルモンさんと幼馴染なんですか? そうなんですよね? 『皐月堂』で初めて出会ったんじゃなくて、本当はずっと昔に出会っていたなんて……!」
「信じがたいが、どうやらそのようだな……」
「本当に信じられないです! でも、『お兄ちゃん』なんて言っていたのはアリスの勘違いでしょう? アリスが目覚めたらすぐに教えてあげなくちゃ……」
 私がそう言うと、
「義理の兄妹だ」
 とアリスのおじいさんは言った。
「え……」
「『D-X10』はある程度育ち……けれどもさらに育てるためにはもっと設備の整った研究所を探す必要が出てきた。国外の研究所に移るにしても、その頃にはデジモンという存在が知られるようになって、パスポートの発行など必要な手続きを取らざるをえなくなった。そのために養子に迎えたのだ」
「ええっ!」
「また、息子夫婦は立ち塞がる大きな壁に困惑した。デジモンの研究は未知の分野であり、どういう結果を生み出すのかは解らない。息子夫婦も、もちろん私も……怪物を育てているという危機感は忘れていなかったから慎重に行動した」
「怪物? そんな言い方、ひどいです!」
 私は身を乗り出した。
「どうしてです! デジモンがそんな風に思われるなんて……」
「全てではないが、我々人間が立ち向かうことが出来ないデジモンも存在する」
「それは……!」
 私は次々に、今まで出会ったデジモン達を思い出した。危険な目にあったことも思い出し、ぞくりと背に悪寒が走った。
 アリスのおじいさんは私を見つめる。
「あの当時、息子夫婦にそれを提供することが出来たのは……ドイツの研究所だった。環境の条件も理想に近かった」
「だからドーベルモンさんはドイツで育ったって……」
「私は反対した」
「反対? どうしてですか? ドーベルモンさんが育つために必要なものが揃っているのがそこしかないのなら、反対も何も……」
「軍事研究所だったからだ」
「……!」
 私は絶句した。
「そんなところに連れて行くぐらいなら、さらに成長させなくてもいいと思った。ろくなことが起きないと予感がしたからだ。
 ――予感は当たってしまった……。その研究所の職員の一人は、デジタルワールドというものが存在することを早くから認識していた。息子夫婦が気づかぬうちに『D-X10』は、対デジモン用の特殊訓練を受ける契約をされていた。生体兵器として……」
「そんな……!」
「息子夫婦は抗議したが契約を白紙に戻すことは出来なかった」
「そんな、ひどい……」
「『D-X10』は特殊訓練の最中に事故に巻き込まれ、瀕死の重傷を負ったと聞いている。その時に……」
 アリスのおじいさんは言葉を途切らせ、視線を上げた。そちらへ私も顔を向けた。
「その名で呼ばないで下さい。私達の息子です。ちゃんとドーベルモンという名前があるんです」
 そこに立っていたのは、アリスのお父さんだった。
「瀕死の重傷を負ってなお、私達を見上げたあの子は言った。私達を、『とうさん、かあさん』と……」
 アリスのお父さんの目から、涙がこぼれた。
「人間が治療に輸血を必要とする場合があるように、人間のDNA情報のサンプルが必要だった。あの子が助かるのならかまわないと……迷わずそう思ったんです。今になって……後悔しています」
 アリスのおじいさんが立ち上がった。手に持っていた空のコーヒーの缶が落ち、弾みながら床に転がる。
「おじいさん……」
 私は驚いて立ち上がった。転がったコーヒーの缶を拾おうとして、屈む。けれど、
「おじいさんっ!」
 目の端に信じられないものが映り、驚いて顔を上げる。
「馬鹿者が!」
 アリスのおじいさんが、アリスのお父さんを殴った。
 私は驚いて悲鳴を上げた。
「やめて! 殴るなんて……!」
 アリスのおじいさんは右拳を震わせている。
「それがあの子らに必要だったというのか? あの子らに必要だったのはお前達の愛情だけだったはずだ! ドイツに行かなくても、立派な研究設備がなくても、あの子らはうちに一緒にいるだけで十分幸せだったんじゃないのか!
 綺麗事ばかり言いおって! 知っているんだぞ、お前が科学者としての名誉のために人間のDNA情報を与えて成熟期に進化させたことを……。それさえしなければ……そうしてしまったがために『D-X10』は人間の社会にもデジタルワールドにも居場所の無い異質な存在になってしまった……。自分達の手元に置けばいい? どれだけ酷いことをしたのか解っているのか!」
 殴られたアリスのお父さんは、崩れるように廊下に座り込んだままだった。肩を震わせていた。
「ドイツに連れて行かなければあの子は、ただの研究対象データ『D-X10』の進化型として一生を終えていた……」
「何っ! 進化? どういうことだ!」
 アリスのおじいさんが目を見開く。
「ええ、進化です……。もちろんそれだけではなく、デジモンの研究者としての地位も確立出来たのだから、私達は責められて当然です……」
 アリスのおじいさんが、呆然とこぶしを下ろした。
「なんだと……! どういうことだ? それじゃあ、成熟期デジモンに進化したのはお前達がDNA情報を与えたからではないのか?」
 アリスのお父さんがうな垂れる。
「すでにアメリカで……ある日突然、進化したんです。『D-X10』が自ら進化し、育成用ケースを壊して外へ……」
「まさか……あれはアリスが『能力』でコンピュータごと壊したのでは……」
「違います。『D-X10』が早まった進化をしてしまい、壊したのです」
「早まった?」
「正常な進化ではありませんでした。暗黒進化と呼ばれているものに近かった」
「まさか、馬鹿な……!」
「それを外部に知られるわけにはいかず、私達はアリスのせいにしました。黙っていてすみません……」
「嘘だ……そんな……」
「アリスには申し訳ないことをしました……」
「お前は自分がどういうことをしたのか、解っているのか!」
 アリスのおじいさんは、アリスのお父さんの前に膝をつき、両肩を掴んで揺さぶった。
「あれがきっかけでアリスはコンピュータ機器などを壊すようになって……そうじゃないのか? 違うのか! 本当は『D-X10』がしたことだと! 自分達の娘だぞ! まるでスケープゴートのような目に合わせて……合衆国政府からの補助金で設置した機器を壊したと言われ、アリスは数年以上監視されたんだぞ! 今だって……」
「ドーベルモンは――あの子は外の世界を……『自由』を楽しみたかったんです。けれど自ら進化した事実、暗黒進化を起こした結果を外部に知られてしまえば、ドーベルモンはその存在を否定されてしまう……。あの当時の科学とデジモン達に対して向けられていた全世界からの目を、猜疑的なものではなく羨望と希望だけにしなければ……あの子は守れなかったんです……」
 アリスのお父さんにそう言われ、アリスのおじいさんは途方に暮れた顔をした。
「守るため? お前達が『D-X10』を進化させるためにアリスを捨てたのではなかったのか? それをなぜ、せめて父親である私に……ああ、なぜ真実を私に話さなかった?」
「私はあの頃、悩んでいた。自分を変えたい、有名になりたいとそればかり考えて……道を見誤った。父さんはいつも私達家族を愛し、支えようとしてくれた。それなのに私は……父さんにだけは知られたくない。父さんを越えたい、デジモンの進化の秘密も父さんには知られたくないと……」
「馬鹿者が。進化の秘密も何も、そんなものよりもっと大切なものに気付くべきだったのに」
「すみません……」
 アリスのお父さんはうなだれている。
 アリスのおじいさんは目を閉じてしばらく考え込み、それから目蓋を開く。しっかりと力強い視線をアリスのお父さんに向けた。
「だが、話してくれて良かった。つまり……アリスが機器を破壊する力は、大型のホストコンピュータレベルの機器を壊すほど強いものでは無かったんだな? そうか……おかしいと思っていたよ。あれ以降に壊したものは家庭用の電化製品や、私のパソコンだけだったからな……」
 アリスのおじいさんはホッとした顔でそう言ったけれど、
「それだけじゃないはずです」
 アリスのお父さんはそう言った。
「なに?」
「それだけだとしたら、アリスは父さんに報告しなかっただけですよ。――言い出せなかったんだと思います。きっと、怒られると思ったのかもしれません」
「そんな! 他にもあるというのか……!」
 アリスのおじいさんは驚いている。
「あるはずなんです。生半可なパワーじゃないのですから。――アリスを元に戻します」
「元……? アリスに何かしたのか?」
 そこまで言い、アリスのおじいさんは突然、顔を強張らせた。
「まさか……!」
「ドーベルモンの生体データの一部を移植したんです。私は愚かでした。……機器を破壊する能力だけ自分の娘に移植したんです……」
 アリスのお父さんは拳を握り締めた。
「そんな、馬鹿な……!」
 アリスのおじいさんはそう呟き、よろめくように座り込んだ。
「それじゃあ、アリスは……アリスのあの力は……」
「まだ善悪の判断がつかないドーベルモンからあの能力を取り上げる必要があった。けれど抹消することが出来なかった。あの不思議な能力をなんとかこの世から消さない方法をと……だから私達はそうしてしまった。幸いにも拒否反応は出ず、アリスは元気だったので私は……これは神に許されたことだと思いました……」
 アリスのお父さんは熱にうかされているように話し続ける。
「ドーベルモンは人間に育てられた人工のデジモンではなく、人間に育てられただけの純粋なデジモンなんです。あの力を戻してしまえば完璧なデジモンとなる。デジタルワールドに返すことも……デジモンの存在が認められた今なら可能のはずです。
 このことが知られてしまえば、私達夫婦が科学と人間社会を欺いていたことが知られてしまう。けれどもう、そうなってもいいと覚悟が出来ました。――二人を元に戻します」
 アリスのおじいさんがたしなめるように、
「だが、それは待ってくれ。あの二人は愛し合っている。ちゃんと二人に話して、納得させないと……」
「アリスを愛しているのは……愛情ではない可能性が98.7566%あるんです。ドーベルモンは本能に従い、自分に欠けているデータの一部を探し出してしまっていただけの可能性が高い。アリスの存在に執着しているようだが、本当は……愛しているわけではない。自分の一部を見つけた……ただそれだけのことのはずなんです」
「嘘だ、そんな……!」
「二人を元に戻します。ドーベルモンは瀕死の重傷を負っていると聞きましたが、能力を全て戻せばデジモン本来の自己修復能力が正常に機能するはずです。今は人間でいうと免疫障害の状態で……そうすればドーベルモンの命を救うことが出来るんです。
 アリスに対する認識も態度も変わるかもしれませんが、そうなっても二人は別々の道を歩むだけ。アリスには辛いかもしれませんが、ドーベルモンの幸せを考えればそうすることが……」



 私は気配に気付いた。アリスのおじいさんも、話し続けていたアリスのお父さんもその気配に気付いた。
 階段の近くに、デジモンがいた!
「ドーベルモン……!」
 そう呟くように呼んだのは、アリスのお父さんだった。
 ドーベルモンさんの瞳の真紅色が、燃えるような光を放っていた。まるで魔物のようだと思えて、私は思わず体を強張らせた。
「違ウ……」
 唸り声のような響きの声だった。
「私ハ……私ハ…………!」
 ドーベルモンさんは正気を失っていた。パッと、まるで野生の獣のような俊敏さで身をひるがえし、アリスの病室へ真っ直ぐに向かう。ドアに体当たりするように――壊した。
 警報音が鳴り響く。
 続いて、割れるガラスの音。
 何が起きたのか、理解出来なかった。私達は一歩も動けなかった。

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