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カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
黒い蝶と私と Side:JURI
(※樹莉の話です。レオジュリ苦手な方はご遠慮下さい。謝)


 マスターは空中を走り続けた。
 おびただしい数の人々の悲鳴、デジモンの咆哮が木霊するように響く中、暗い雲に覆われた空の下を走り抜ける。金色の獅子のような姿のデジモン――サーベルレオモンに進化したマスターが渋谷にあるDNSS『関東支部』に到着するのはあっという間だった。マスターはすぐにウイルスに対抗するワクチンの情報、ワクチン・ボールの構造情報、現状報告などを終え、私を背に乗せて再び空へと走り出す。
「一つでも多くのワクチン・ボールを投げよう。デジモンも人々も関係なく救おうと思う」
「はい!」
 マスターの言葉に私は頷いた。私に出来ることなら何でもしようと思った。
 ワクチン・ボールを投げるだけじゃない。避難する人々を手伝い、励まし、誘導もした。倒れたがれきを取り除く手伝いもした。
 疲れきっている。体中が痛い。それでも私は声を張り上げた。
「諦めないで! 急いで避難して下さい!」
 やがて厚い雲の隙間から、眩しい光が差した。ヤコブの梯子と呼ばれたりもする、真っ直ぐに差し込む光を見て、私の体中から緊張が抜けた。同時に疲労が押し寄せるように感じられた。
 ――戦いが終わっていく……。
 何度も、数え切れないほどワクチン・ボールを投げた。腕が痛くてもう上がらない。
 あちこちで煙が見える。地中を潜ることが出来るデジモン達が暴れ、都市ガスのガス管を破壊して火事が起きて……本当に大変だった。
 私はすすで真っ黒に汚れた顔を手の甲で拭う。顔……洗いたい……。
 崩れたがれきが散乱する街。普段なら賑やかで人が溢れる渋谷の街は、ビルが倒壊したりネオンサインが落下したりひび割れたり、今回の事件の爪あとがあちこちに残っている。
 JR渋谷駅ハチ公口の街頭に三基ある大型ビジョンでは、災害対策用情報を緊急放映していたけれど、今は真っ暗で何も映し出していない。どこかで電気の供給が途絶えたんだと思う。
 人々の声。そしてもちろんデジモン達の声も聞こえる。
 皆、励まし合い、声をかけ合う。ケンカを始める人達もいたけれど、それを止める人達もいてくれた。
 マスターは私を背に乗せてアスファルトの上を歩き回る。もう飛ぶ力は残っていないけれど、直接地上を歩くことは出来る。助けを求める者がいないかと、時折ふらつきながらも歩き続ける。
「マスター、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
 私は心配だった。マスターの声から力強さがなくなってきているような気がしたから。
「一度、DNSSの『関東支部』へ戻りましょう。ねえ、マスター?」
「いや、私は大丈夫だ」
「マスター、でも……」
 マスターは私の言葉には耳を貸してくれなかった。平静さを失っていると思ったけれど、こんなマスターを見たのは初めてだったのでどうしていいのか解らない。誰かがいれば説得を頼めるのにと、歯がゆかった。
 やがてマスターは突然、崩れるように倒れ込んだ。
「きゃあっ!」
 マスターの背に乗っていた私は衝撃で路上に落ちた。
「じゅ……」
 アスファルトの路上に落ちれば、夏服を着ていて剥き出しになっている肩や腕を擦り剥いてしまうのは当然。体中傷だらけなのにさらに傷だらけになって……私はそれでも、自分のことなんか後回しで良かった。
「マスター!」
 立ち上がろうとした。私は痛む足に力を込め、立ち上がった。
「マスター、しっかりして下さい!」
 倒れたままのマスターに懸命に歩み寄った。
「じゅ……り……」
 マスターの目は閉じたままだった。
「マスター、しっかりして下さい!」
 私はマスターの額に自分の額を当てるように押し付けた。
「私はここにいます! お願いです、ここにいますから!」
 私はぼろぼろと涙を零した。もう涙なんか出ないって思っていたのに……。
「お願いです、マスター! しっかりして下さい……いや……死なないで!」
 マスターは動かない。私の呼びかけには答えてくれない。
「いや……いやよ、マスター!」
 体が震える。どうしていいのか解らないほど、怖い。
 死んじゃう? ママが死んじゃった時みたいに?
 私は震えながら辺りを見回した。
「お水……そうよ、お水とか……何か……誰か……! 待っていて下さい、マスター。私、お水持ってきます……誰か、呼んで来て助けてもらいますから……」
 私はふらつく足で懸命に歩き出した。
「誰か……!」
 数歩歩いて、歩いてくる人々の姿を見つけた。大学生ぐらいの男の人達だ。
「お願いです、助けて下さい……」
 私は懸命にそちらに歩いた。
「お願いです……あのデジモンを……マスターを助けて下さい……」
 言いながら、私は異様な雰囲気に気づいた。その男の人達は手に金属の棒や板を持っている。
 ――何!?
 身の危険を感じた。私は踵を返した。
「いやっ、来ないでっ!」
 マスターの元へ懸命に歩くけれど、男の人達はマスターに向かって走り出した。
「やめてっ! マスターに何をするの! きゃああっ」
 私は数人の男の人に押さえつけられて地面に座らされた。強い力で押さえつけられて、痛いっ。
「やめて……何を……!」
 マスターに駆け寄った男の人達は、
「デジモンのくせに!」
「デジモンなんか、この世界から出て行け!」
「殺せ! 殺せっ!」
 と口々に叫び、マスターを罵倒した。
「なんで!? どうしてそんな……ひどい……!」
 信じられなくて私は目を見開いた。
「やめて! マスターは私達やこの世界を助けようとしてこんなに力を使い果たしたのに……どうして……!」
 突然、顔を殴られた。私の肩を押さえつけていた男の人に殴られたという事実に、私は呆然とした。
「あのボロいデジモンの仲間かー!」
「何だよ、マスターって? ええ? 言ってみろよ!」
 私は髪をつかまれた。痛い! 怖いっ!
「……やめて……誰か……!」
 お願い、誰か……。
 怖い……ああ、でも……お願い。私より、あの男の人達を止めて! マスターを殴ろうとしている、あの人達を止めて――――!


『愚か者達――――』


 声が聞こえた。マスターの額から一匹の黒い蝶が浮かび上がるように現れた。りん粉が光を反射しながら蝶の羽からこぼれ、風に乗る。
「なんだ?」
「気味の悪い虫だな……」
 男の人達は不気味さに顔を引きつらせた。そしてすぐに、
「ひぃぃぃっ!」
「目が……」
「痛い、痛い……」
「い…いきが……」
 私を押さえつけていた男の人達、マスターに金属の棒を振り下ろそうとしていた男の人達が声を上げて地面に転がる。のた打ち回りながら手足を夢中で振り回す。何かをつかむように、誰かに助けを求めるように伸ばしたその手や、暴れていた足が、糸の切れた人形がそうなるように力を失って投げ出される。
 突然起きたその場の状況が理解出来なくて、私は呆然とした。だって私は平気だったから。
「目が痛い? 息が出来ない? どうして?」
 黒い蝶がひらひらと私へと舞い降りる。私は呆然と蝶を見つめた。
「あなたがやったの?」
 思わず言葉が口から勝手に出た。蝶に話しかけたって、私の言葉が解るはずないのに。
 黒い蝶は私の目の前で、ふわり、ひらりと浮遊する。
『愚かな者達は私の毒で動けなくなっているだけ。命までは奪っていないから、そんな顔をすることはないわ』
 私の頭の中に直接、艶やかな色気のある女性の声が聞こえた。甘く優しい声に私はとても驚いた。
「信じられない……リリスモンさんなんですか? 本当に?」
 黒い蝶はひらり、ひらりと様子を変えずに舞う。
『ただの分身よ。貴女がどうしても気がかりで……どうしてかしらね。私はこんなお節介なことをしてしまう女なの。おかしいでしょう?』
「おかしいだなんて、そんな……リリスモンさん、ありがとうございます!」
『礼なんていらないわ。貴女に恩着せがましいことをするつもりないのよ。――さあ、そろそろこの分身の力も尽きる頃ね』
「えっ! 大丈夫ですか?」
『言ったでしょう、分身なの。私の本体は無事だから、そのうちまた会うこともあるでしょう』
「良かった……!」
『貴女に何かあったら、ファントモンが『どうして助けてくれなかったの!』って怒るでしょうから。誰か呼んで来るから、ここにいなさい』
 黒い蝶はひらりと空を舞い、飛んで行った。
 私はそれを見送り、それから立ち上がろうとしたけれど、もう体力が残っていなかった。
「マスター……」
 仕方ないので、這うようにマスターに近付いた。体が重い。鉄のように重く感じてしまう。
 ようやくマスターの傍に来ると、その大きな額にそっと寄り添うように座る。
「マスター……大丈夫ですか?」
 私は気を失ったままのマスターの額を撫で、頬を寄せた。短い毛に覆われた額は少し熱を帯びている。
「リリスモンさんが助けてくれました……。私、あのデジモンがとても怖くて、嫌いな時もありました。けれど……あのデジモンの考え方が少しだけど解りました。リリスモンさんはたまに突き放したような言い方をするけれど、それは周囲を気遣ってのことなんですね……」
 私は目を閉じた。
 助けようとした人間達に殴られるとは思わなかった。さっきリリスモンさんが助けてくれなかったらと考えると、恐ろしくて体が震えた。
「マスター、聞いて下さい。私……とても大切なことが解った気がします。心の中は誰にも見えないものですね。人間だとかデジモンだとか、そんなことにこだわると見えないものがあるんですね。それを解ることって……とても難しくて、素晴らしいことですね……」



 私は眠っていたみたい。目を覚ますと、診察台の上だった。
「目を覚ましたのね? 良かった……」
 看護婦さんが私の顔を覗き込んでいる。
「ここは……?」
 私は体を起こそうとした。すぐに看護婦さんは
「大丈夫?」
 と背中を支えて起きるのを手伝ってくれた。
「ここはどこですか? 病院ですか?」
「ええ、そうよ。うちはデジモン専門の病院だけれど、人間の内科と外科の救急患者受け入れも行っているの。サーベルレオモンと貴女を渋谷から運んで来たの」
「ありがとうございます。じゃあ、ここは渋谷じゃないんですか?」
「サーベルレオモンほどのデジモンの受け入れが出来る病院は少ないから、その中でうちが一番近かったの」
 と病院の先生がやって来て答えてくれた。女医さんだった。
「マスターは……ええと、サーベルレオモンは無事なんですね!」
「大丈夫よ。あとね、私はDNSSの付属病院で働いていたことがあって、彼とは知り合いなの」
「そうなんですか?」
 それを聞いて、ふっと肩の力が抜けた。安心したから。
「大変だったでしょう……ワクチン・ボールを投げるのを手伝ってくれたんですって?」
「はい。でも、それは皆もいたから……」
「先ほど連絡があって、ようやく事態の収拾がついたそうよ」
「本当ですか!」
「ええ。私達デジモンに協力してくれてありがとう」
「いいえ、私は……」
 お礼を言われるようなことは何もやっていない。私は無力で、ワクチン・ボール投げることぐらいしか出来なかったもの。
 私はうつむいた。皆は今、どうしているかしら……。
 診察をしてもらったけれど、特に異常は無かったという。でも、今回はとても特殊なケースなのでもっと専門の検査も行わなくてはならないと言われた。
 私はマスターと同じ病室になった。
 マスターはデジモンの姿のまま、特殊なオリのような場所に入らなければならなかった。まだ意識が戻らないマスターはそれだけ周囲には危険な存在だという。究極体だから仕方ないと言われた。
「究極体だからって……かわいそう……」
 私は自分用のベッドに横たわり、ずっとマスターを見ていた。あらためて見るとマスターはとても恐ろしい姿をしている。体も大きい。見る人によっては猛獣のように見えると思う。
 渋谷で倒れているマスターに殴りかかろうとした男の人達のことを思い出す。あの男の人達にはマスターはとても恐ろしい存在に見えたのかもしれない。
「……だからって、絶対に許せないけれど……」
 呟くと心がずきりと痛んだ。
「私だって……同じじゃないの」
 私にはあの男の人達のことを責める資格はない。デジタルワールドで……真実を知ろうともしないでアリスを責めたもの。自分だけが辛いはずじゃないのに……アリスだって辛かったはずなのに……。



 しばらく眠っていたけれど、トイレに行きたくなって目を覚ました。
 私はベッドを抜け出した。入院用のパジャマを病院から借りていたけれど、ごわごわしていてちょっと嫌だった。
 トイレを済ませてから、なんとなく病室に戻らずに廊下を歩いた。
 さっき看護婦さんは「おうちの人に連絡をしなくちゃね」とテレホンカードを貸してくれた。けれど使ったふりをして、お礼を言って返した。
 ――家に電話したって、誰も来てくれない。きっとお店だってこの騒ぎで無事じゃないもの。お父さんは忙しいと思う。お母さんだって……。
 私は売店の近くのソファーに腰を下ろした。
 お母さんはいわゆる『後妻』というもので……私を生んでくれた人じゃない。私を生んでくれたママはもう死んでいないから……私のことを本当に心配してくれる家族なんていない。
「ママ……」
 寂しくて目から涙が溢れた。
 お母さんはきっと……義弟のマー君の面倒をみていると思う。マー君は連れ子で私とは年齢も離れているし血も繋がっていない。私はマー君のお姉さんになったんだから、こんな寂しさぐらい我慢しなくちゃ……。
『それでいいの?』
 声が聞こえた。目の前に黒い蝶がひらひらと浮かんでいる。
「リリスモンさん、どうして……?」
 そう言ってから、リリスモンさんが私達のために残してくれた蝶は二匹だったことを思い出した。
 一匹目はマスターの額にワクチンの知識を与えるために一時的に消えていて、さっき渋谷で私達をたすけてくれた。助けを呼びに行ってくれたけれど力を使い果たしたみたいで、二度と現れなかった。
 そして二匹目は、私達をデジタルワールドで皆に合流させようと道案内をしてくれて、その後は私達の前から姿を消してしまっていた……。
 目の前の、二匹目の蝶はふわりと変わらない姿のまま、舞う。この蝶がマスターか私のどちらかの傍にずっといてくれたんだと思うと、感謝の気持ちで胸が一杯になり温かい涙が溢れた。
「心配してくれて……ありがとうございます」
 黒い蝶の姿は周囲の患者達からは見えないみたい。誰もこちらへ不審な視線を向けたりはしない。
『貴女を心配してくれる人もいるわよ』
「え……」
『家族というものは血の繋がりだけで作るものじゃないのよ。貴女の周りにいる人をもっと信じなさい。貴女の友達が貴女を信じたように……』
「リリスモンさん……!」
 黒い蝶は幻のように消えていった。力を使い果たしたのかもしれない。それとも、隠れたのかもしれない。
「……戻ろう」
 私は立ち上がった。自分の病室へと歩き始めた。
 リリスモンさんに言われた言葉の意味を考えながら、廊下の窓の外へ目を向けた。そこには夕焼けが広がっていた。
「綺麗な夕焼け……」
 私は、もっとずっと小さかった頃を思い出した。
 あの頃は毎日、夕焼けが空に広がる前に家へ帰った。家の手伝いをしなくちゃいけないから。
 小料理屋を経営するお父さんはいつも忙しくて、その手伝いをしているお母さんもとても忙しそうだった。
 私と一緒に遊んでいた友達はいつも『樹莉ちゃんのお母さんは優しくっていいなあ。うちのお母さんなんて口うるさくてキライ』と言っていたっけ……。
「優しかったかな……覚えていないわ……。じゃあ、嫌いだった?」
 私はお母さんのこと嫌い? ううん……よく解らない……。
「……嫌いじゃなかったと思う……」
 お母さんから嫌われたくないって、小さい頃はいつも思っていたっけ。お父さんがお母さんを連れて来て『新しいお母さんだよ』って言われて……。
 『新しいお母さん』だと言われたって、初めて会ったばかりの人だから甘えることも出来なくて……。あの頃はただひたすら嫌われたくないって思った。良い子にしなくちゃって思ったんだ、私は……。
 ふと、私は足を止めた。幼い頃のことを考えているうちに、突然、ある日の出来事を思い出した。
「私、お母さんに『本物のお母さんじゃない』って、言ったことがあった……!」
 いつだったのか、何がきっかけだったのか思い出せない。でも、確かに私はお母さんにそう言った……。
「なんでそんなひどいことを言ったの? 信じられない……なんてバカなことを言ってしまったの!」
 お母さんはいつも私に対してどこかよそよそしかった。それって、私がひどい言葉を言ったから? それが原因だったら? その事でお父さんから怒られた記憶がないもの、お母さんは誰にも言っていないはず。お母さんはその言葉を一人で抱え込んで……とても悲しかったんじゃないかしら?
「お母さんに電話しよう! ああでも、何て言うの? ――ダメ! 迷っている場合じゃないもの。とにかく今、私はここにいるからってまず電話しなくちゃ……!」
 もう一度テレホンカードを借りようと、私は看護婦さんを探した。やがて廊下の向こう側で、看護婦さんが誰かと話をしているのを見つけた。
「え……! どうして……!」
 私は立ちすくんだ。そこにいたのは私のお母さんだった!
 言い争うように早口で話しているお母さんの声が私にも聞こえてきた。


「私はこちらでお世話になっている加藤樹莉の母です! あの子がこちらに入院していると聞きました。ええ、そうです。DNSSの方からお電話をいただいたんですっ。
 あの子はどうして入院しているんです? ケガをしたんですね? 病室はどこですか? あの子はどこにいますか? まさか手術をしたんですか?
 どうか……どうかあの子に会わせて下さい! 私はあの子と血は繋がっていませんけれど、血液型は同じです! 輸血が必要なら私の血を使って下さい。血液の比重も問題ないと思います。私、血液だけは健康で献血も今までに何度もしていますから。私が樹莉にしてあげられることは、それしかないと思うんです……」


 お母さんは泣いていた。泣きながら話している。それはまるで、遠い場所で起きていることのように思えた。
 私のことを心配してくれているの? どうして? どうしてそんなに、私のことなんか心配してくれるの?
 私の目から涙が溢れた。
「ここにいるよ……」
 私はお母さんの元へ走った。お母さんがいる場所がとても離れているように思えて、不安でたまらない。今、お母さんのところへ行かなかったらずっと私、そこへ行けないような気がした。だから……!
「お母さん……私、ここにいるよ……!」
 お母さんは気づき、
「樹莉ちゃん……!」
 声を上げて両手を広げ、私に駆け寄った。
「お母さん……」
 お母さんにこんなに強く抱きしめられたのは初めてだった。お母さんがこんなに泣いているのも初めて見た。私はお母さんに
「樹莉ちゃん! 樹莉ちゃんっ!」
 と何度も名前を呼ばれた。
 私だってお母さんをぎゅうぎゅう抱きしめた。お母さんのこと、初めて大好きだって思えたから。心の底から、本当に大好きだって思えた。だから、涙が止まらなかった。
 看護婦さんは私達をそっとしておいてくれた。病院の廊下は走っちゃいけないのに見逃してくれた。
 同じ家に住んでいたのに、私は初めてお母さんの気持ちが解った。お母さんはずっと……私のお母さんになりたかったんだ。
 そして、自分の気持ちにも気づいた。お母さんのことずっと避けていたけれど……それは嫌われたくなくて、怒られたくなくてそうしてしまっていたんだ。本当はもっとずっとお母さんの傍にいたかったのに……。
 私はお母さんが泣き止むのを待っていた。どこにそんなにあったの?ってぐらい、お母さんの涙はなかなか止まらなかった。
「本当にどこも? 何ともないのね? 大丈夫なのね?」
 お母さんは何度もそう訊いて、私の髪や肩を、背を、何度も何度も撫でてくれた。
「肩と腕はちょっとだけ擦り剥いちゃって……」
「そうなの? 痛かった? ごめんなさいっ」
「ううん、そんなに大げさな擦り傷じゃないの。平気!」
「そう? 本当に? 触らないようにするわね……」
「お母さん……心配してくれてありがとう。心配かけて……ごめんなさい。お母さん、私を育ててくれてありがとう……!」
 私はすんなりとそう言えた。
 お母さんはまた泣いた。お母さんが脱水症状起こしちゃう……と思いながら、私もまた泣いた。
 それから病室へ、お母さんと一緒にゆっくり歩いた。マスターのこと、デジモンのこと……いろいろ話し始めた。お母さんは真剣な顔をして聞いてくれる。それが……とても嬉しかった。
「私、マー君が羨ましかった。私だって……お母さんといろいろ、たくさん話したい……」
 お母さんにそう言うと、嬉しそうに何度も頷くお母さんはまた泣いた。
「いやだわ。私、泣き虫でごめんね……」
「ううん……いいよ、お母さん……。マー君はお父さんと一緒にいるの?」
「ええ、ケガをしたんだけれど、今はもう大丈夫よ」
「えっ!? マー君、ケガをしたの? 大丈夫?」
「夜中の地震でうちが崩れたのよ」
「地震があったの? 知らなかったわ……」
「ええ。うちは古い家だったから……でもマー君は手を切っただけで、血は多く出たけれど命は無事なの。神様に感謝しなきゃ。火事もあったのよ。商店街だもの、夜中だって仕事しているお店もあるから……。町内会の人達と夜中ずっと消火活動して大変だったけれど、お父さんももちろん無事よ。マー君はお隣のおばあちゃんにお願いして預かってもらっているの……」
「ごめんなさい。みんな大変だったのに……」
 私はとても惨めで辛いと思ったけれど、皆それぞれ大変だったんだ……。
「マー君はケガした時に心細かったんじゃないかしら? お父さんも夜中ずっとだなんて……大変だったのね……。お母さんだって忙しかったんでしょう。それなのにここに来てくれて……」
 お母さんはぎゅっと私を抱きしめる。
「樹莉ちゃんも大変だったんでしょう? 頑張ったわね……樹莉ちゃん、頑張りやさんだものね……」
「お母さん……私、自分だけが辛いんだって思って、友達にもひどいこと言っちゃったの……」
 頑張っただなんて言われて、私は居たたまれなくなってそう打ち明けた。
 お母さんはじっと私の目を見つめる。
「樹莉ちゃんはそれだけ辛かったのね……ごめんね、お母さん、樹莉ちゃんの傍にいてあげられなかった。樹莉ちゃんのこと助けてあげられなくてごめんね……」
「お母さんが謝ることなんてないのに……私が自分勝手だったからいけないのに……」
 話しても解ってくれないと思っていた。そう私が思い込んでいたから、お母さんを苦しめた。家族から孤立したのは話そうとしない自分のせいなのに、お父さんが再婚したからだって思い込んで責任転換していた。
 リリスモンさんに言われたとおり、もっと家族や友達のことを信じようと思った。



 病室の前で、別の看護婦さんが何人かの人間と話をしている。誰だろうと思いながら近付くと、
「樹莉ちゃん!」
 と私を呼ぶ声に驚いた。
「おばさん!?」
 なんとマスターのお母さんだ! 人間の姿をしているけれどそこにいるのは皆、デジモンだった。
「ああ、樹莉ちゃん……樹莉ちゃん……! 無事だったのねぇ……」
 おばさんは私のところに来て、泣き崩れた。
「ごめんなさいね、樹莉ちゃんを巻き込んでしまって……」
 廊下でいきなり正座して頭を下げたので、私も私のお母さんもとてもびっくりした。
「おばさん!?」
「どうなさったんですか?」
 おばさんは泣きじゃくる。
「樹莉ちゃんを……大切なお嬢さんを危険な目に合わせてしまって……。本当に申し訳ないことをしました……」
「おばさんにまで心配かけて……ごめんなさい……」
「いいのよ、樹莉ちゃんが無事でとにかく良かった! 樹莉ちゃんがお嫁さんに来てくれるといいなと思っていたけれど、もう仕方ないわ……」
「え!?」
「うちのバカ息子も樹莉ちゃんを守って死んだのなら極楽浄土に安心して行けるでしょう!」
 おばさんはそう言うなり、号泣し始めた。
 ――えええ!?
 私はぽかんとした。そしてすぐに我に返った。
「おばさん、マスターは生きていますよっ! ここ! この扉の向こうにいますよ! 絶対安静だって言われていますけれど、大丈夫ですよ!」
 急いでそう教えると、おばさんは大きく口を開けた。
「あらー嘘じゃないのよね? 生きているの? おやまあ……」
 おばさんと一緒に来たマスターの家族もぽかんとした顔をしている。
「なんだ。お兄ちゃん、生きているって」
「葬式の準備は中止って電話しなくちゃ!」
「やっだー。兄ちゃんが入院したっていうから、滅多にないことだもの、てっきり死んだんだと思ったー」
 と口々に言い始めている。
 ええ?と私は驚いた。マスターのご家族ってば、それは早いわよ……!
 すると、警報器が鳴り響いたので驚いた。
「何!?」
 続いて、病室の中で轟音が響く。何かが打ち鳴らされている。
「まさか……マスター!?」
 ドアが開いた。ずるりと、サーベルレオモンの姿のマスターが顔だけ、ドアの外に押し出す。
「……勝手に殺すな……」
 絶対安静状態なのに無理に体を動かして体当たりを繰り返し、頑丈なオリまで破壊したマスターはそう一言言うと――力尽きてぐったりと目を閉じた!
「マスター! しっかりして下さい!」
「バカ息子がっ!?」
「きゃああっ、兄ちゃん!」
 その場はパニックになった。
 私の隣にいたお母さんが騒がないので、さすが私のお母さん!と思って見上げた。
「嘘っ、大変だわ! お母さん、しっかりして!」
 思わず私は声を上げた。お母さんは立ったまま気を失っていた。さすがにマスターの姿には驚いたみたい。
 緊急措置を取るために大勢の医師、看護婦さん達が来た。
 私のお母さんは廊下に椅子を用意され、そこにぐったりと座っている。
 私はお母さんに付き添いながら、マスターのあの姿のことをどう説明しようって頭を悩ませた。


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《ちょっと一言》
 樹莉の話、ようやく書けました。ずっと考えていた話で、とても難しいと思いました。樹莉が幸せになってくれればいいなぁと思っています。
 樹莉の家族の設定など、少しオフィシャル設定とは変えています。ご了承下さい。(弟のこと、特に。全く血の繋がらない義弟として書いています)

 読んでいただきありがとうございましたv

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