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カフェ『皐月堂』へようこそ(レナルキ他)
LOVE ME 前編 Side:METALPHANTOMON
(※表現が少し大人向けです。苦手な方はご遠慮下さい。謝)


 旅館の女将に謝りに行くために、俺はフロントへ向かった。御主人様がファントモンの失言により暴走して、旅館内の電気系統を壊してしまったからだ。電気に頼る通信系統も不通になってしまっただろう。
 ――今は内線電話も不通か……。兄上達が昼食の注文をした後で良かった。
 それに、昼間であることは幸いだ。夜に停電になれば、温泉目当ての泊り客から苦情が来るだろう。
 ――だから言うなと言ったのに……。
 当然だがエレベーターも止まっていた。
 ――仕方が無いな。
 俺は人間の姿だったので歩いた。
 御主人様はデジモンの姿で、滑るように空中を移動してついて来る。彼女はずっと怒っていたが無言だった。怒りのあまり、言葉にならないらしい。
 フロントのある一階では、従業員達が右往左往していた。
 女将は俺達に気付くなり、血相を変えて飛んできた。
「申し訳ございません!」
「いや……実に申し訳ないのだが……」
「ああっ、本当に申し訳ございません!」
 平謝りの女将に首を傾げる。
「いや、謝らねばならないのはこっちで……」
 と、俺は親指でくいっと己を示した。
「貴方が謝ることないじゃない! どうせ私が大人じゃないから悪いんですからっ! かばってもらわなくてもけっこうよ!」
 御主人様がそう言うので、
「そう言うな」
 俺は背後に視線を向ける。
「何よっ! 何が言いたいの?」
「原因は俺にあるだろう?」
「ええ、そうね! 貴方はいつだって大切なことは私に何も話してはくれないんですもの! 確かに私は貴方の条件を承諾したわ。『余計な詮索はしない』、と――」
 御主人様は鋭い視線を向ける。
「でも、これで何度目? まず、眼球データのこと。そして……本当はファンロンモンから、何らかの密旨をお受けしたのでしょう? デジコアの欠片の再生を依頼するだけでファンロンモンが自ら訪ねて来るはずがないもの。私がそれぐらい気付けないと思っているの? それを話してもらえないことだけでも私はとても辛いのに、それなのに……『消滅』の危険があった!? なぜ? どうしてそんな重大なことを私に話してくれないの?」
「……」
「私のことを『御主人様』だなんて……そういつも呼ぶくせに何も報告はしないの? 酷いとは思わないの? 言い返せるものならどうぞおっしゃいな!」
「ない。――隠し事が多くてすまない」
「謝れば私が納得すると? 馬鹿にしないで! 私が……私がどんなに情けなくて惨めな気持ちになるか、貴方には解らないでしょう! 酷い……酷いわ、貴方は……」
 御主人様が突然、涙声になったのでぎょっとした。ゆらりと、その美しい体から黒い炎のようなオーラが滲むように空気に流れ出す……!
「落ち着いてくれ。これ以上、暴走するな」
「しませんとも! 私は大人ですからねっ!」
 御主人様は両拳を握り締めて俯き、肩を震わせている。
「どうして話してくれないのっ!」
「そうだな……」
「『そうだな』? それしか言うことはないのっ!?」
 御主人様は俺を睨み付ける。
 ――ああ……まるで小さい子供が必死になっているように見える……。
 御主人様と初めて面と向かって話をした時の姿が脳裏を過ぎる。あの時の記憶が濃く残っているらしい。
 女将は驚いて俺達を交互に見つめていたが、すぐに他の泊まり客の好奇な視線を感じて
「お客様、よろしければ奥の間に……」
 と俺達を促した。
 そちらに俺達を案内すると、座布団を勧め、そしてすぐに茶を運ぼうとする女将を呼び止め、
「お構い無く。急ぎの話だ」
 と話しかけた。
 戸惑い顔の女将に座ってもらう。
 停電事故の原因を手短に説明すると、女将は開いた口が塞がらないという顔をした。
「左様でございますか……」
「迷惑をかけてすまない。復旧出来そうか?」
「ええ、急いでおります。夕方前には、恐らくは……」
「そうか、日が暮れる前には何とかなるのか?」
「稀にこういうこともございますので……」
 女将からそう聞き、ほっとした。修理の請求書はこちらに回してもらうよう話すと、恐縮したように女将は何度も頭を下げる。
 ――変だな? どうしてこんなに遠慮する? 迷惑な客だと叩き出されると思ったのだが?
 疑問に思った。御主人様が七大魔王という肩書きを持っているから?
 いつもならこういうことは乳母やがやるのだが、彼女が不在なら俺がするべきだろうと思い、まだ怒りの消えていない御主人様の視線を背中に感じながらも、無事に交渉を終えた。
 ――知られてしまった以上、御主人様には話すべきだろう。
 そう思った。俺がどうして『消滅』のことを黙っていたのかを……。
 御主人様を傷つけることになるかもしれない。それに……俺の存在を拒むかもしれない。それなら、ファントモンと『分離』している今だからこそ、話をするべきだろうと思う。
 廊下に出ると、
「話をしたいのだが」
 と声をかけた。
 御主人様は一瞬、とても驚いて、それからすぐにまた俺を睨み付けた。
「ええ、どうぞ。弁解ならいくらでも聞いてあげるわ。それなら外に行きましょう?」
 挑みかかるようにそう言われた。
「外に?」
「ええ、そうよ」
「そうだな。御主人様が言うように、外の方が話しやすいだろう」
 俺は玄関へ向かうことにした。ふと、御主人様がしっかりと左手に何かを持っていることに、今さらながら気付く。
「?」
「……!」
 俺の視線に気付き、御主人様はそれを急いで服の袂に隠す。
「何だ?」
「お財布……」
「財布?」
 御主人様は俺の視線を避けるように、
「話しながら……一緒に食事でもどうかしら、と思ったのよ……」
 と、小声で言った。
「俺と二人きりで?」
 そう訊ねると、御主人様はとたんに頬を赤らめた。
「メタルマメモンから借りたガイドブックに、あの……美味しいおそば屋があるって、そう……そうよ、そうなの。そう、書いてあって……」
 ――『手近な話し相手』以上に俺のことを考えるようになってくれたというわけか? それは光栄だ。大嫌いと言われていたが、ずいぶんとランクが上がったものだ。
 思わず、うっかりして笑んでしまった。
「何がおかしいの!」
「いやいや……笑ってしまってすまない」
「ええ、どうぞ! いくらでも笑うがいいわ。私らしくないと思うのでしょう!?」
「そう怒るな。美人が台無しだ」
「おだまりなさいっ!」
 御主人様の隣を通る時、御主人様と目が合った。睨み付ける彼女に、
「すまない。――愛しいと思ったからだ」
 と感じたことをそのまま言葉にした。そのまま通り過ぎるが、御主人様は何も言わない。
 ――どうやら、さらに怒らせたらしいな……。
 怒りで言い返すことも、追いかけてくることも、攻撃することも出来ないらしい。
 ――不思議なものだ。ずっとファントモンと共にいたのに、今は俺一人。御主人様と二人だけで話をする時が来るとは……。
 もっとも、ファントモンは俺が『外』に出ている時はいつも眠っていた。俺と御主人様が二人だけの時に何を話していたかは知らないはずだ。
 ――『家族』か……。
 ファントモンの言った言葉を思い出す。ファントモンはとても嬉しそうだった。
 ――それならファントモンは御主人様のことを母親のように感じていたのか? まさか、俺は父親か? 育てたのには違いないが、この世界に存在したのはファントモンの方が先なのになぁ……。
 御主人様も、ファントモンの言葉を聞いて嬉しそうだった。
 ――怒らずに嬉しいと思ったのか? それは……そうなってもいいと? 俺が相手でも? ファントモンがそう願うからか?
 俺は旅館の下駄を借り、履いた。
 ――今までと違う。これからは……。
 様々なことが変わっていくだろう。己も、周囲も。おそらくは……。
 ――俺は……どうしたらいいのだろうな……。御主人様の本心を聞かねばならないだろうが、俺にそれを言うだろうか? それを俺が訊ねることは許されないような気もするのだが……。俺の存在をそこまでと思ってくれているとは………………思え…な…………。
 ふっと、気が抜けていくような気がした。
 ――へ……ん…………だ…な…………。
 視界がぐらつく。
「待ってっ!」
 御主人様の声がした。
「待ってちょうだい! メタルファントモン――!」
 御主人様の声は、まるで悲鳴だった。
 ――ど…うし……た?
 そちらへ体を向けようとして、ぐらりと体が揺れた。
 ――俺…は……?
 自分の体ではないように感じた。再構築されたはずのデータが崩れそうだと気付く。
 ――何だ? まだ……データが…………安定してはいな……い……?
 滑るように一気に空中を飛び、俺の前に御主人様が現れた。彼女の肩に、とっさにつかまる。そうしなければ倒れていただろう。いや……倒れる前にデータ崩壊を起こしたかもしれない。
 ――こ…れは……まずい…な……。
「どうしたの? 具合が悪いの? しっかりして……」
 必死に俺に呼びかける御主人様の耳元で、
(どうやら……そのよう…だ、な……)
 と呟いた。声に力が入らず、囁き程度にしかならない。
「戻りましょう! 部屋にっ」
(いや……まずい……)
「どうしてっ?」
(皆に…心配…を……)
「え……でもっ!」
 温泉という場所がどういうところか知ったのなら、なおのこと。皆で和気あいあいとしているのに、俺が邪魔をするわけにはいかない。
「つかまっていて。ついてきなさい」
 突然、今の立ち眩みとは違う感覚に包まれた。
 ――御主人様?
 彼女が俺を、掻き抱くように抱きしめた。香りがした。彼女の衣から、香が……。



(何……?)
 俺は薄目を開けた。旅館の玄関先にいたはずなのに、全く違う場所にいた。
(……どこだ…ここは……?)
 薄目を開けて周囲を見回す。急に外に出たので、周囲が眩しく感じる。
 ――ああ、もしかして。
 記憶に少しだけ残っている。昨日、確か……ファントモンが泣いていた場所だ。あいつを何とか生き長らえさせたくて、なるべく自分の存在を押さえ込んでいた時に、泣き声を感じた。あの時に……。
 御主人様は俺ごと時空移動して、ここに連れてきたらしい。
「大丈夫? 私が解る? 苦しくないの?」
 御主人様は俺の顔を覗き込む。その麗しい顔は青ざめ、俺の身を案じている。
 ――本当に恐ろしい力を持っている。己だけではなく俺まで連れて来たのに、息さえ乱れていないとは……。
(面目無い……)
 痛みも苦しみも感じなかったから、己の体なのに気付けなかった。
 ――うっかり者ですまないな、御主人様。そう、心配するな……。
 彼女は俺の体を少し抱え直す。
「と……とにかく、どこかに座りなさい! ――そうだわ。足湯にでもお入りなさい。それでお腹にちょっと何か入れて……」
 ここに連れてきたのは、御主人様なりに考えた結果らしい。
(ご好意に……甘えようか……)
「そうしなさい」
 御主人様は俺を肩に背負うように抱える。
 突然現れた俺達に驚き、デジモン達が周囲に集まり遠巻きに眺めている。
 御主人様に言われたように足湯とやらに浸かり、しばらく休んでいた。御主人様がかいがいしくお茶を持ってきた。
 ようやく声を出せるぐらいには回復してきた。
「すまないな、手間をかける下僕で……」
 と、俺は言った。
「おだまりなさい! どうしてこんな時まで……おどけた言い方なんかして……」
 御主人様は泣きそうな顔をする。
「気付かなかったわ、私としたことが……。ルーチェモンの薬のためにファントモンがあれだけ苦しんだのに……ファントモンと同じ存在だった貴方が全く平気なわけがないのに……」
 御主人様は突然座り込み、俺の膝の上に顔を突っ伏してしまった。まるで泣き崩れるように……。
 ――御主人様!?
 まさか彼女がそんなに俺の身を案じるとは思わなかったので、俺は内心、動揺した。
 けれども御主人様はそのまま暴走せずに耐える。
 ――そうか。涙さえ毒を含むのかもしれないな……。
 泣くことも自由に出来ない身の御主人様は、涙の代わりに
「大嫌い……本当に嫌……。馬鹿にして……許せないわ……」
 と愚痴る。呪われそうだ。
「そう騒ぐな」
「ルーチェモン達と戦うかもしれない場合を想定していたから? 敵に後ろを見せないために……私達を守るために貴方は平気な顔をして……」
「そうして当然だろう」
「嫌よ! 私は守られるだけの女じゃないわっ!」
 ――ん?
 俺は眉をひそめた。
「俺はファントモンを守るために存在する。ファントモンの御主人様も守って当然だろう?」
「嫌なのっ!」
「……」
 どうしてなのか解らないが、どうやら御主人様はそれが気に入らないらしい。
 ――わけが解らん……。
 やがて、御主人様は立ち上がると、温泉玉子というものを持ってきた。
「どうぞ召し上がりなさい。栄養のあるものだから……」
「そうか。いただこう」
 俺は温泉玉子とやらを食べながら、どうすれば御主人様の機嫌が直るのか考え、まずは今まで黙っていた『消滅』のことを話そうと思った。
「美味かった。すまないな……」
 食べ終わったので、温泉玉子の殻を御主人様が片付けてくれた。
 戻ってきて俺の隣に座った彼女に、どこまで話していいのかは正直迷う。当たり障りなく、が一番いいのだろうが……。
「それで。話なのだが……」
 御主人様は首を横に振った。
「やっぱり聞きたくないわっ」
 ――どうしてそうなる?
 俺は溜息をついた。
「なぜだ?」
「なぜって……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、とは?」
「体の具合はどうなの? 本当に大丈夫なの?」
「御主人様には俺のデジコアの状態が解るのだろう?」
「さっきよりは回復しているわ……」
 御主人様は本当に、今度こそ泣きそうに顔を歪めた。そんな顔でも、とても美しいと思った。
「さっき? ああ、御主人様はそれを言おうとして、俺を呼び止めたのか……」
 御主人様は瞳を潤ませた。
「だって……急にあの時、気付いて……」
「すまないな、そんな顔をさせるつもりはなかったのだが……」
 俺はまた溜息をついた。
「溜息ばっかりついて! 呆れるのならいくらでもそうしなさい!」
「いや……」
 俺は御主人様を見つめた。
 綺麗な顔で御主人様は俺を睨む。こんなにどこもかしこも美しいのに、御主人様は今にも猛獣と化してしまいそうだ。
 ――これ以上怒らせないように、言葉は選ばないと……。
 俺は考えながら、ふと、それを楽しんでいる己に気付く。
「楽しいな……」
 呟くようにそう言った。
「楽しいですって?」
 御主人様がいぶかしむように俺に問いかける。
「御主人様に何をどう話せばいいのか……。それを考えるのは楽しい」
「何を馬鹿なことを言っているの……」
 御主人様は戸惑っているようだ。
「どうしたら聞いてくれる?」
「……解ったわ。ちゃんと聞くから、話して……」
 ようやく、御主人様はそう言った。
 俺は御主人様を見つめる。
「ファントモンは、生きるために手段を欲した。以前に話しただろう?」
「ええ……」
「俺はあいつにとって、あいつが出来ない『殺戮』を代わりに行うだけの存在だった。そうすることによって得られる食料があれば良かった。わずかで粗末なものばかりだったが、生きるためには無いよりましだった。あの当時は……。――だが、今は違う」
 御主人様の瞳が見開かれる。
「それじゃ……!」
 ――察しが良いな。利口な女だ……。
「今のファントモンは『殺戮』を行わなくても美味い食料が与えられ、何より頼ることが出来る御主人様達がいる。――『俺』はもう不要のはずで、いつ消滅してもおかしくなかった」
「いつ? そんなに前から危険があったの……?」
「ああ。それなのにファントモンは、俺の存在を維持しようとした。無理が過ぎれば具合も悪くなって当然だ。当初は俺も気付かなかったが、いくらなんでも眠る時間が長くなり過ぎていた上に、あの底知れぬ食欲だ。おかしいと思った。
 あいつが弱っていったのはそういう理由だ。御主人様にも心配をかけてしまってすまなかったな。許してくれないか?」
「そんな……! でも、貴方は……? 黙っていなくなるつもりだったの?」
「俺はファントモンが残ればいいと思っていた。そのつもりで『千里眼』を用意しようと思った。そのつもりで、俺は……」
 ――そうだ。そのつもりで……。俺は乳母やにあの時、言ったのだ……。
 俺はふと思い立ち、立ち上がった。
「メタルファントモン! 休んでいなくても大丈夫なの?」
 御主人様は驚いて俺を追うように立ち上がる。
「ああ。……少し歩くか?」
「え? でも……」
「大丈夫だ。御主人様には今の俺の体調がどうか、解るだろう?」
 そう問いかけると、御主人様は戸惑い顔のまま頷いた。
「デジコアの輝きは安定しているわ。でも、無理はしないで……」
「気をつける。だから……もう少し、時間をくれ」
「え……」
 俺はそっと身をわずかに屈め、御主人様の耳元近くで、
(俺達に興味を持っている者がいないところへ行こう)
 と囁いた。
 御主人様はようやく理解したようで、困ったような顔をした。
(昨日、そこのお饅頭屋の店主達からサインを頼まれたの。とても熱心に頼まれて、断りきれなくて……)
(人気者だなぁ!)
(そんなことないわ。他のデジモンなら解るけれど、私なんかのサインを欲しがるなんて……)
(そうか? 御主人様は魅力的だぞ? 見た目にも毒が過ぎる)
 御主人様は頬を赤らめる。
(からかわないで! 馬鹿っ!)
 立ち去る前に、
「世話になった。礼を言う」
 俺は足湯の世話係達に礼を言い、頭を下げた。
「突然具合が悪くなってしまってな……。何事かと心配をかけたようだな?」
 こっそりと俺達の様子をうかがっていた彼らは、顔を真っ赤にして頭を下げる。ついでに名物だという酒饅頭を買い求め、その場を後にした。
 ――御主人様に悪いうわさが立たないといいが……。
 彼らが俺達の話を誰かに話し、それがその先の誰に伝わるかは解らない。ゴシップ紙とやらの見出しは、そういう場合、どうなるのだろう? 俺の力が弱っていると思われては、御主人様の立場が悪くなるだろう……。
 それを危惧しながら俺は歩き出した。時々ふらつきそうになるが、どこで誰が見ているとも限らないから、そうならないように俺は気をつけた。
 歩きながら酒饅頭を食べ、それも助けになったのかもしれないが、だいぶ回復してきた。
「足湯は気持ち良いものだな。デジモンの時の姿では無理だが……」
 そう、わざと明るく冗談を言った。
 けれど御主人様は
「ええ……」
 と、ほんの少し笑顔を俺に向けただけだ。控えめに俺の後ろをついて来る。
 やがて川の近くに来た。朱塗りの橋がかかっている。川には温泉が流れているらしく、湯煙がうっすらと上がっている。
 ――そろそろ、兄上達の昼食も終わっているだろう。どこかで御主人様と食事を……とも思ったが、今は止めておこう。歩き回るのもそろそろ限界だろう……。
 仕方なく、このまま旅館へ戻ろうとした。
 御主人様の気配が遠のいたことに気づき、俺は立ち止まり、
「どうした?」
 振り返って声をかけた。
 橋の途中で御主人様は止まっていた。欄干に左手を沿えるように置き、御主人様は俺を見つめる。
「――それでいいと思っていたの?」
「何が?」
「私の傍にはファントモンが残され、貴方は消える。――それでも貴方はいいと思ったの? 本当に?」
 そう、彼女は真剣な眼差しで俺に問いかける。
「そのとおりだ。それでいいと思った」
 彼女の眼差しが震えるように揺れた。
「どうして……?」
 俺は思い出して、
「――これを渡しそびれていたが……」
 懐にずっと入れていた簪を取り出した。
「返そう。あの時は助かった。礼を言う機会を逃していたが……感謝する」
 御主人様は俺へ歩み寄り、簪を受け取る。その手が震えている。
「私は……」
 御主人様は唇を震わせた。手の平に乗せた簪を、そっと労わるように撫でる。
「私は貴方が消えるなんて……許さないわ……」
 その仕草とは違い、言葉は俺を呪いそうなほど凄みを帯びている。
「御主人様は優しいな。俺の心配は無用だぞ?」
 わざとからかうようにそう言った。
「アンタはっ!」
 牙を剥く御主人様に、俺は笑いかけた。
「そうそう。そういう感じがいい。ぜひそうしてくれ」
「え?」
「俺を怒鳴っている方が御主人様らしいぞ?」
 御主人様は顔を背ける。
「……からかわないで……。美人が台無しだとか、怒ればそれが似合うとか……貴方こそ、どっちなの?」
「不快か? すまない」
「そう思っていないでしょう? いつもそうね! さっきも……愛しい、とか……。酷い……もう、からかわないでちょうだい……」
「からかうつもりで言ってはいないが?」
「嘘よっ! ……嘘ばっかり……」
「御主人様には、どんなに何を言っても信じてもらえないだろうな……」
「信じるって……それなら、からかっていないの? そうなの?」
 御主人様は戸惑っているようだ。
「そうだな……正しくは、愛しいからからかいたくなる、だろうな……」
「また、そんなことを言って……!」
 御主人様は、これ以上聞きたくないという素振りを見せた。本当に、抱きしめたくなるほど愛しい。
「――御主人様は覚えているか?」
「何を?」
 俺は笑いを消し、真顔で、
「――羽のケガが治ったら、と以前に約束したことを覚えているか?」
 と訊ねた。
 御主人様は顔をこちらへ向けた。俺と目が合うと顔を赤らめた。
「もちろん……覚えているわ。あの、あれは……その……」
 しどろもどろに御主人様は言葉を探す。
「無理は言わない。あの場限りのことなら、それでいい。俺は大それた期待はしていないから、どうかあの約束は無かったことにしてくれ」
 御主人様はさらに耳まで赤く染める。
「違うのよ、そんなつもりではなくて……」
「ファントモンを怒らせて存在を否定されては『消滅』に繋がる。だから、せっかくの申し出だが、羽のケガなど無くても断るつもりだった。悪く思うな……」
 と、俺は告げた。
 御主人様は驚き、そして、
「そうだったの……」
 と、呟く。
「それなら、今は……? 貴方はどうなの? 私は……貴方がそれでいいのなら、別にかまわなくて……」
 そう言う己を恥じらいながら彼女は問いかける。
「それ以上、言うのはやめてくれないか?」
 俺は御主人様の言葉をさえぎる。
「メタルファントモン……!?」
「すまない。――やはり、断らせていただく……」
 俺は御主人様に背を向けた。
 ――今だけの相手になれるほど、簡単な気持ちでは無くなってしまった……。あーあ、もったいないことをしたなぁ……。
 心の中で、わざとそう茶化す。
 ――このままの関係でいた方がいいだろう。お互いに、な……。
「そんな……! 待ってちょうだい!」
 ――ん?
 背中に、御主人様の体温を感じたので驚いた。柔らかい温もり……。
「私のどこが不満なの!? 気に入らないところがあるのなら、おっしゃいな! そうじゃないと、私……私は……!」
 俺の背にしがみつき、それでも暴走しないよう御主人様は必死に感情を堪えている。
 ――何だ? そんなに男が欲しかったのか? 困った御主人様だな……。
 俺は首を横に振った。
「不満は無い。そんなことを俺が言ったことはないだろう?」
 背中から温もりが離れた。御主人様は俺を正面に見据えるように移動し、訴えるように声を荒げた。
「お願い、本当のことをおっしゃい! 本当は私のことなんか……恋愛の相手には思えないのでしょう? ねえ、どうして? 誰かに何か言われたのかしら? 乳母や? まさか、おじい様? ――それとも、もっと違う理由なの?」
 御主人様はそう言い、唇を震わせる。

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