[携帯モード] [URL送信]
レイルウェイは沈殿する
 朝から降り止まない雨が窓硝子を濡らしている。雨は好きだ。姦しい喧騒を打ち消すように、ひっそりと地を叩く音。鈍色の空は目に優しい。昼なのに明るくない。夜なのに暗くない。地面の彼方此方に出来る水溜りは鏡のような銀色。割れない鏡。
 描きかけのまま一向に進まないデザイン画と鉛筆を床に置く。立ち上がって背伸びをした。節々からばきばきと存外大きな音がして、凝り固まっていた体を自覚させた。
「あんたの絵を見ていると気が狂いそうだよ」
 呟きは反響せずに霧散した。連休一杯貸し切りを申請した広いアトリエ。現在この空間の主である牧は黙々と絵筆を動かしている。充満する絵具とテレビン油の匂い。美大に入ってからはそれにも慣れたとは言え酷いものだった。換気を怠った部屋に何日も籠って、牧は当たり前のように絵を描き続けている。シンナー中毒者宜しくテレビン油に中毒症状を起こしているのかもしれない。そう危惧させるには充分だった。
「牧」
 没頭しきっている背中に声は届かない。床に直接座り込み、一心不乱に大きな画板に向かっている。その色彩も筆の運びも集中力も何もかも、凡そ狂っていると言っても過言ではない。きっとこういうのを天才とか変態と呼ぶのだろう。芸術家には押し並べてそういう人間が多い。牧もその内の一人に違いなかった。
 牧の絵はゴッホほど大胆ではなく、エッシャーよりもシンプルで、若冲よりも曖昧だ。だけど一目でそれだと分かるような何かがあった。ピカソが彼自身のオリジナルであったように、何かに分類出来てしまっては駄目なのだろう。まあ、エッシャーも若冲も油彩ではないけれど。
 純粋な憧憬では、ない。格の違いを、核の違いを、まざまざと見せ付けられる。越えられない壁を突き付けられる。深く考えるのは苦手だ。けれど、牧がいるのは僕では到底踏み込めないような場所だということだけは分かっていた。それがどんな意味を孕むのかも知っていて、猶。
 雨と油絵独特の匂いが混ざり合って鼻をつく。頭の奥がぐらぐらと揺れる感覚。取り憑かれたように絵以外の一切を無視する彼女が怖かった。色もはっきりとは見えていないだろうに灯りを点けもしない。薄暗い部屋に浮かぶ輪郭は不明瞭で、ふと目を離したら絵に引き摺り込まれてしまう気がした。肌がぞわりと粟立った。
「牧」
 返事は無い。喉はからからに渇いている。上手く息が出来ない。ばくばくと鳴る心臓が五月蠅い。
「――牧!」
 肩を掴み、顔を強引に此方へ向かせる。以前より細くなっていたそれにぞっとした。茫洋とした虚ろな表情。据わった目がゆるりと瞬き、僕を捉える。のろのろと人間らしさが戻ってくる。じわり、と安堵が広がる。僕は大きく息を吐いた。牧は疲れとも呆れとも取れるような顔で、薄く開いた口から「あ」と声を漏らした。何かに気付いたというよりは、ちゃんと声が出ると確認するような。
「おとなし、くん」
「ま、き」
「……何」
「何、じゃない」
「……あー……何日経った?」
「四日」
「そう」
「っ、怖い」
「何が」
「あんただよ、他に何があるんだ! 食事も睡眠もしないでこんな所に籠りっきりなんて廃人じゃねぇか!」
「怒るなよ」
「誰の所為だと」
「はは」
 掴んでいた手を離すと、牧は自由になった腕を伸ばした。絵具の付いた指先に気付き、自分が着ている繋ぎに擦り付けて拭う。汚れていない手の甲で宥めるように僕の頬を撫でた。胡坐を掻いて天井を仰ぎ、ややあってぽつりと呟いた。
「……お腹空いた」
「そりゃそうだろうな」
「帰る」
「……」
「嘘。帰ろう、か」
「……まず手洗って来いよ。あと着替え」
「ええ、面倒臭いなあ」
 ぼやきながら隣室に消える牧を見送る。沢山の色でごちゃごちゃしているペーパーパレットを一纏めにする。部屋の電灯を点けると、一米近い大きなカンバスが照らし出される。そこに広がる色を見て、一瞬心臓が凍った。
 藍の夜空と、下方にそれを反射する銀色の水面と花畑。雨のように降り注ぐ白や黄の線は流星らしい。大きな星が暗闇に青く赤く燃えている。その中を走るSLのような黒い車体。鮮やかな花畑に彗星が落ちて、所々煤けたように黒ずんでいる。暗い水に沈む錆色。冷たく光る蒸気機関車は無機質に虹色の煙を吐き出して進む。
 綺麗な色ばかりを使っている筈なのに、どうしてこうも気持ちが悪くなる。
「題名はまだ決まってないけど。どうだい? 感想は」
 いつの間にか戻ってきた牧が、立ち尽くす僕の肩越しに絵を示す。
「……駄作」
「震えているくせに何を言う」
 帰ろうか、と手を引かれてアトリエを出る。洗ったばかりの手はほんのり湿っていて、そこから何かに感染していく錯覚がした。
 二人しかいない徒広い構内を歩く。雨はもう止んでいた。藍鼠の空に月は見えない。ぽつぽつと立つ街灯が頼り無げに光っている。ぼんやりとそれを遠目に見ていたら、「さっきの絵さ」と話し掛けてきた牧に反応が遅れてしまった。
「あ、え?」
「銀河鉄道のイメージだったんだけど、どうかな」
「ん……ああ、それでSL描いてたのか」
「そう。第一発見者の感想を聞いておきたくてね」
 死体を発見したみたいに言うなよ、と言おうとして、あの状態の牧じゃ強ち間違いとも言えなさそうだと思ってしまったので、結局何も突っ込まなかった。
 感想。
 感想なあ……。
 覚えず難しい顔をしてしまっていたらしい。牧が「何でもいいよ、第一印象でどう思ったとか」と薄く笑いながら助け舟を出してくれた。
瞼に焼き付いた絵を思い起こす。
「……失楽園」
「え?」
「使い物にならなくなった楽園を捨てて、また別の場所を探すユートピアン、みたいな」
 僕は詩人か。言っている内に気恥ずかしくなってきた。言葉は尻窄まりになりながら、隣の牧を伺う。暗くてもこの距離なら顔ぐらいは見える。
「失楽園……無何有郷……成程ね、そういう見方が出来るわけか。――面白い」
 本来の柔らかな表情は削げかけ、黒瞳がぎらりと鈍く光った。捕食者のそれだ。
「牧」
 僕は牧の華奢な手を強く引いた。低く鋭く名前を呼ぶと、牧ははっと我に返って僕を見た。それを睨むようにして見詰める。すると忽ちバツが悪そうな顔をした。
「……悪かったよ、暫くは絵のことは無しにする。流石に疲れたしね」
「約束だぜ?」
「善処するよ」
「おねーさーん、そう言って実際に守れた日本人はいないって知ってるかー?」
「実は私は純粋な日本人じゃなくてね。オランダ人の血が四分の一流れているのさ」
「それはらら先輩じゃねーか」
「ばれたか」
「ばれるわ。……まあいいけどさ。また引き籠りそうになったら四六時中監視して無理にでも飯食わせるから」
「あれ、今ちょっと怖いこと聞こえた気が」
「次に不眠不休で六十時間以上やってたら、問答無用で落として眠らせるから」
「可愛い後輩くんに脅されたー」
「……」
「……あ、ご免よ。大丈夫……とは言い切れないかも知れないが、ちゃんと努力するよ」
 反省した様子が無いのを怒っていると思ったらしい。黙りこくった僕に、牧は茶化すような態度を改めて言った。琴線に触れたのはそこではないけれど。まあそっちに関しても怒っていないわけじゃないから、いいとしよう。
「おう、頑張ってくれ。心配で仕方ねーから」
「ああ。迷惑かけるね」
「気にすんな。好きでやってるんだし」
「はは、格好良いなあ、少年」
「……もう少年じゃねえよ」
「いやあ、まだまだ高校生で通じるよ、その顔」
「うっせー、放っとけ」
 身長差を埋めるために背伸びをして、よしよしと子犬にするように頭を撫でられる。もう二十歳になる男にそんなことして楽しいのだろうか。素直に撫でられている僕も僕だが。
 惚れた弱み、という奴か。
 初めて会った時には好きになっていた。衝撃が走ったとか、そういうのではなく、ただすんなりと『僕はこいつが好きだ』と思った。それから三年経って高校を卒業した今でも、僕は牧が好きで、牧は僕を弟みたいに扱う。先輩後輩の立場から親密にはなったと思うが、そこから先には一歩も進めていない。
 無防備に向けられる笑顔が、好意が、嬉しくて腹立たしい。僕より年上のくせに。真剣なのは絵のことばかりで、自分のことは周りが心配するぐらい明けっ広げ。僕の入り込む余地なんて無い。そんなこと分かりきっているけれど。
 ねえ、牧。
 あんたはいつになったら僕を見てくれるんだろうね。
「牧」
「何だい」
「あんたは銀河鉄道みたいだな」
 あんたが停まってくれるような楽園には程遠い、廃れた小さな星の上、僕は独り追い掛けることも出来ずに、きらきら光る銀河鉄道を見送るのだ。ハロー。ハロー。渡り鳥、どうかその背に乗せてくれないか。
 異質な才覚を将来生きるための糧とする手段を、牧は持っている。仄暗い感情を丸ごと飲み込んで、真実自身の一部にしてしまっている。裏も表も絵の材料。僕の持っていないもの。僕だって彼女の引き立て役其の一に過ぎない。悔しい。口惜しい。妬み嫉むことが無かったわけじゃない。圧倒的な劣等感を抱かなかったわけじゃない。
 でもさ。
 何も知らずにあんたを好きだと言うよりも、ちゃんとあんたを知って好きだと言える方が、僕はいい。
「じゃあ君はブレーキだね」
「……は」
「君は、私の、楽園に降り立つためのブレーキ」
「まき」
「ねえ、音無くん」
 ――君が居なかったら、誰が私を地上に連れ戻すんだい?
 夜の色をした瞳が僕を射抜く。楽園に終焉が来たのは僕の方だったのかも知れない。「君は私の傍に居なよ」と言った牧は、嘘のように大人の顔をしていた。
 突出した才能を持つ者は、その一方で誰からも理解されない孤独を彷徨う。
 ――逃げるなら今だよ。
 そんな目で、そんな顔で、何てことを言うのだ。
 今更何を言われたってもう戻れない。戻る気なんて無い。だって、あんたの言葉はとっくに僕の心臓を侵食している。
 孰れ目の前から居なくなって、置いて行くのはあんただろうに。
 返事の代わりに繋いだ手を強く握り締めた。そうしてまた歩き出す。土瀝青に浮かぶ薄い影がゆらゆら揺れる。
 まだこの手が届く間は、せめて。



[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!