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074腹を割って(川)



配られた城岩の白地図を片手に、私は図書室を徘徊していた。
これを何かのテーマに基づいて色分けしてこいというのが、明後日までの地理の課題。あの先生の授業はわかりやすくて楽しいけれど、たまに小学生みたいな宿題が出るんだよね。

郷土誌のコーナーでしばらく背表紙と睨めっこしてから、私は無難に土地利用についてまとめることに決めた。
それらしいタイトルの本を、右手で本棚から抜き出して、左腕で抱えるように持つ。それを三度繰り返してから、最後の一冊を選別にかかる。
左から右に、下から上に視線を泳がせていった私の目に止まったそれは、上から二番目の棚にあった。

反射的に腕を伸ばしかけた私は、踵を浮かす前に一度動きを止めて思案する。
――届くだろうか。
しかし届かない場合、私は左腕に抱えた本を一度机に置きに行き、それから踏み台を取って来なければならないなあ。なんてことはないけれど、でもちょっと手間だなあ。

決めた。私はぐっと爪先に力を込めて、浮かせかけていた踵を一気に床から離す。ぱっと取ってしまえば、それで問題ないのだ。
左腕に抱える本を落とさないように気を配りながら、右手を伸ばし、ふらつく足元に力を込め直して更に伸ばし、もう少し、もう少しで目当ての本に爪がかかろうかというところで、私はぐらりとバランスを崩した。

「わっ」

喉の奥から自然に漏れた衝動の声。
しかしそれは、不意に背後から伸びてきた力強い腕に支えられ、その行き場を失ったために並ぶ背表紙に吸い込まれて、消えた。
一瞬遅れて、誰かが私を支えてくれたのだと理解した。
理解したが、それと同時になぜ、という疑問が頭に浮かんだ。こんな死角の郷土誌コーナー、滅多に人も来ないだろうに。

私の肩を支える腕、それを辿って視線を右に滑らせると、そこにはちょっと呆れたような顔をした川田くんがいた。

「わっ」

もう一度、私の喉から驚きの声が漏れる。今度は先程よりも、幾分か明瞭に。
私は体重を預けていた彼の腕からぴょこんと飛びのくように離れた。よりによって川田くんとは。彼の事だから、踏み台を取りに行くのを躊躇った私のものぐささも、きっとばれているに違いない。私は反射的にかあっと顔が熱くなるのを感じた。
彼の表情をちらと伺い見れば、そこにあったのは呆れたように私を見つめる瞳と、やれやれ、と言うかのような溜息。

私は押し寄せる羞恥と情けなさに思わず視線を下に逸らしつつ、
「あの、ありがとう」
と小さな声で礼を述べた。

だめだ、いたたまれない。
私はすたこらさっさとこの場から逃げ出そうとしたのだが、それは川田くんの声によって阻まれてしまった。

「苗字さん、」
と、彼の低い声が私の名前を呼んだ。
声量は小さくても腹の底にぐっと響く声。私は思わず足を止めて、彼の方を振り返る。
川田くんが、古い一冊の本をこちらに差し出していた。

「これでいいかい?」

それは、先程私が手を伸ばしていた本だった。
私は本から視線を上げて、彼の顔を真っ直ぐ見た。相変わらず呆れたような表情がそこにあったが、たぶんそれは、私が思うような"呆れ"ではないのではないかと、なんとなく思った。
私は思わず零れる笑いを隠さず、「うん、ありがとうっ」と声を弾ませた。
彼の左手から私の右手へ本が移る。想像していたよりも重かったそれに、私の右手はぐんと沈んだ。

それを見た彼はちょっと肩をすくませて、僅かに口角を持ち上げる。それから僅かに意地悪な笑みを浮かべて、こう言った。

「おねえちゃんはちょっとちっさいようだからな、ちゃんと踏み台使った方がいいぜ」

「そ、そんなに小さくないよ」
と返すと、彼はくつくつと笑って「そうかい、じゃ、お節介だったな」と言い、私に背を向けて本棚を物色し始めた。
日に焼けた色とりどりの背表紙の前でうごめくカッターシャツの鮮明な白が、なぜだか私の目を捉えて離さない。

私はその背中に、なんとなく気になっていたことを問い掛ける、
「ねえ、なんでこんなとこいたの?」

こんなつまらない本ばかりの一角、人なんて滅多にいないのに。
どうして川田くんはいたの?
どうして丁度よく私を助けてくれたの?

しばしの沈黙の後、彼はごく落ち着いた、或いは全く素っ気ないともとれるような無抑揚な声でこう言った。

「苗字さんと同じ理由だよ」

私と同じ?
一瞬首を捻った私は、しかしすぐに彼の言葉を理解した。
当たり前の理由だった、彼も私と同じく地理を選択していたのだ。同じ課題が出ているのだ。

「そっか、」
私は、彼が見ていないのに大きく大きく頷いた。
「そうだよね」
もう一度、自分を納得させるように大きく。

そしてその広い背中にもう一度「これ、ありがとね」と礼を述べて(川田くんは背中を向けたまま右手を小さく上げて応えてくれた)、私はその場を後にした。

右手で持っていたあの本を、左腕の本たちと合流させて、両腕で抱き抱えるように持ち直す。
机に向かって歩きながら、私は思った、あんな質問に、そしてその回答にも、大して意味なんてないのだろうな。
ちょっと意地悪な言葉、素っ気ないふうな声、そして、この本を差し出していた、私を支えてくれていた、あの腕。彼の全てが饒舌に、彼の優しさを物語っていたのだから。

私は本を抱える腕の力を少しだけ、強くした。
私もあんな優しい腕の持ち主になりたいなと、思った。



どうせ腹を割ってみても、そこにあるのは臓物ばかり

真実はそんなところにはないのだ



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