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070雨(川)



梅雨が明けたといっても、夜はまだ少し冷える。
Tシャツの上になにか羽織ってきてもよかったなと思いながら、彼は城岩の宅地を歩いていた。
ぽつんぽつんと明かりを落とす街灯を辿りながら、目的地もなく歩く。目の前を続いてゆく道は、章吾がかつて住んでいた神戸の街と比べるとはるかに暗いのだが、この一帯は城岩の中ではまだ明るい地域だった。とくにあの、彼が一年だけ通った中学校の裏門側に広がる田園地帯の暗さときたら、都会育ちの彼にはちょっとしたカルチャーショックだったことだろう。

ふと、彼が歩みを止める。

街灯の下に佇み右手側――小さな公園に、その視線を向けていた。
いくつかの遊具の向こう、水飲み場近くの木の根元に、誰かが立っている。なんとなく見覚えがある気がして目を凝らした彼は、しばしの後、それがクラスメイトの苗字名前であることに気付いた。
豊かな黒髪を背中に流し、梢を見上げるように首を反らしている。

しかし、何故彼女はこんな時間にこんな所にいるのだろう?
確かに寝るには少し早いが、遊び歩くには少し遅過ぎる。

一瞬逡巡した後、彼は公園に向けて足を踏み出した。
靴裏から伝わる感触が、舗装されたアスファルトから乾いた砂へ変わる。
ざっ、ざっ、と鳴る足音を隠すことなく名前に歩み寄ると、それに気付いたのか、彼女がぱっと背後を振り返った。そして目に入った人影の正体を見定めようと、暗闇にぐっと目を凝らす。

章吾はそんな彼女に僅かに苦笑してから(その一連の動作がまるでドラマのワンシーンのように鮮やかだったので)、「おねえちゃん、」と声をかけて、
はた、と冷静になった。つまり、何故自分は彼女に近付いたのか、その明確な理由が自分の中に存在しないことに気付いた。

しかし、流れる時間は止まらない。

彼の声と口調から、それが見知ったクラスメイトのものだと判断した彼女は、僅かにこもっていた肩の力を抜く。そして「あ、川田くん」とにこやかに笑った。

「どうしたの?こんな時間に」

こちらに歩み寄って来ながら、彼女が問う。ぴったりとしたジーパンに柔らかな色合いのパーカーを羽織ったラフな出で立ちの彼女が、薄い月明かりに照らされる。儚い月光のせいで退色してしまって、ほとんどモノクロに見える彼女は、本当にここにいるのか僅かに怪しい、そんな、どこか幻想的な雰囲気を帯びていた。

章吾はズボンのポケットから煙草を取り出しながら「なに、ちょっとした散歩ってやつだ」と言い、ゆっくりとした動作で火を点ける。

それを見ながら名前は「へー」と感心した様な相槌を打つ。
その声のトーンから、彼女の好奇心が頭をもたげつつあるのを感じ取った章吾は、次の質問が来ないうちに話題をすり替えてしまうことにした。

煙りを彼女のいない方へ吐き出してから、
「苗字さんこそ、」
と彼女に向き直る。

「女の子がこんな時間にひとりで、何をしてるんだ?」

「あー」と意味の無い音を発してから、彼女は少し照れたように笑う。
そして自分がつい先刻までいた場所に戻って再び梢を見上げた。

「昔ね、ここで秋也たちと蝉取りしたなーと思って」

そう言って彼女は右手を持ち上げ、幹に触れる。
枝葉を透かして落ちてくる月光が彼女の頬を白く染めてゆく。

不意にふっと細められた名前の目は、かつての木漏れ日を見ているのだろうか。
なんとなく口をつける気になれないワイルドセブンから、ゆるゆると灰色の煙が上り、消える。

「蝉は、いいよね」

それは肯定も否定も求めない、独り言のような響きだった。
彼女は続けた。

「7年も、なに考えてんだろうね」

7年も。
それは今年羽ばたく彼らが土の中で過ごした時間。
まだ10歳にもならなかった彼女が今、ここにいるために経てきた時間。

「……さあ、それは、」
彼はそこで一度言葉を切り、先程の彼女の言葉を頭の中で反芻する。
7年も、なに考えてんだろうね。
そして、続けた、
「蝉にしかわからんだろうな」

そして、煙草に口をつける。
ゆっくりと吐き出した煙の向こうで、彼女がくるりとこちらに顔を向けた。
灰色のベールの向こうで「確かにね」と言った彼女は、ちょっと困ったように笑っていた。

章吾は思った、きっと彼女にとって蝉の話は引き金に過ぎないのだろうと。
もっと本質的ななにかがその先にある筈だし、そもそも先程の回答ではこんな時間にひとりで公園にいる理由の説明は全くなされていない。意図的にこの話題を選んだに違いない。
その奥を探るべく、次の言葉を口にしかけて、

彼は気付いた。
自分の中の好奇心が、その頭をもたげはじめていることに。

――いかんな。

彼は煙草の煙で肺を隅まで満たす。
そして二人の間に壁を作るように、それを吐き出した。


もうじき、夏がくる。



蝉時雨の降る前に

透明な翅があれば



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