やさしいあくま・9



「GPSで居場所を探したらここだって久さんがね。年のせいか調べるのが遅れたそうで、連絡するより先に着いたのよ」
義姉は説明しながらも元就の方は見ず、すたすたと歩いてリビングへと向かう。元就は彼女の後ろから黙ってついていった。
久、というのは年配のハウスキーパー、つまりお手伝いさんであり、長く毛利家に務めている女性である。
幸松丸の鞄にGPS機能を持つキーホルダーがついており、久がそれで位置を特定して義姉へと伝えたらしい。
リビングのドアを開けると、机の上の折り紙を片付けて鞄にしまっている幸松丸が一人だけで座っていた。元親の姿が見えないのを確認し、元就は無言で安堵した。
「幸松丸、無事だったのね。……どうして勝手に遠くへ行ったりするの?ママも久さんも、どれだけ心配したと思っているの」
「ごめんなさい……」
幸松丸はしょんぼりと顔を伏せて謝った。義姉はヒステリックに叱ることはないが、冷たく淡々と言葉を詰めてくる。彼女の怒る様子を元就はとても苦手としていた。
己に向けられていなくとも、息が詰まるような気がするのだ。それは義姉自身を苦手としているからということもあるし、それ以上に……
「あ、あの、あまり叱らないであげてください……幸には我の方から、」
「私の息子よ。親のしつけに口を出さないでちょうだい」
思わず口をはさんだ元就に、義姉は冷たく言い返す。途端に体が震えるような恐怖を覚え、元就は素直に謝った。
「ママ、なりちゃんを怒らないで。僕もう勝手に来たりしないから……ごめんなさい」
二人の空気を感じ取ったのか、幸松丸は急いで母の元へ向かう。義姉はすぐに顔を緩め、怒ってなんてないわ、と返した。
「さあ、あまり長くいても迷惑になるし、そろそろ帰りましょう。久さんも心配して待ってるでしょうし」
義姉はそう言って幸松丸を玄関へと急かす。名残惜しげに元就を見る幸松丸に、元就は困ったように笑みを向けるしかなかった。
「先にお靴を履いていなさい。ママはおねえさんと少しお話するから」
背中を押しながら義姉はそう言い、幸松丸は不安そうに母を見つつも素直に言葉に従い廊下を歩いていった。
リビングに、義姉と二人きりになった。
「……綺麗にしているじゃない。高校生の一人暮らしだから、もっと散らかしているかとも思ってたけど」
義姉は笑みを浮かべて褒めるような言葉を口にする。だが、その笑みは口元にのみ浮かぶ張り付けられたものだった。
「義姉上にしていただいたことを思えば、そのようなことは……」
ぼそぼそと返す元就は顔を伏せて目を合わせようとしない。その態度に義姉の機嫌が更に傾いた。
「いいのよ、もっと自由にしたって。高校生だもの、少しぐらい羽目を外したって構わないわ。彼氏とかいないの?」
その言葉にぎくりとした元就だったが、それを押し隠して首を横に振る。
「そのような相手などおりませぬ……学生のうちは勉学こそ本文なれば」
「あら、真面目なこと。別に男の一人や二人、連れ込んでいたっていいのよ?誰も構いやしないわ」
義姉は鼻で笑いながらそんな言葉を返す。誰も構わないとは、誰もお前のことなど気にかけない、という意味だと元就も分かっていた。
義姉は自分と息子が暮らす毛利の家に、元就を戻したくないのだ。だからこそ高校生には過ぎるほどのマンションの一室を与え、ここで勝手に暮らせばいいと無言の命令を下した。
元就はそれを全て分かっている。自分の実家を追い出されて悲しくないはずがない。
だが、彼女には口答えする権利はない。
「いえ、我はそういうことは出来ぬ性質ですので」
手を握り締め、元就はそうとだけ返した。張り合いのない彼女に気が済んだのか、義姉はそう、とだけ返した。
「まぁ、下手に犯罪に手を出されても面倒だし、真面目に越したことは無いわ。こっちに余計な波はかぶせないでちょうだいね、私も自分と息子のことで手一杯なんだから」
露骨に言葉を浴びせ、義姉はリビングから廊下へと移動する。彼女の存在が離れたことで、元就はやっと息が出来るようになった気がした。
回りくどく棘を隠されるより、いっそ先程のようにはっきりと言ってくれた方がいい。感じ取れない棘の方がよほど恐ろしかった。
少し遅れて元就が玄関へと見送りに出ると、靴を履き終えた姉が幸松丸の手を取って玄関のドアを開けようとしているところだった。
「ばいばい、なりちゃん。今度、こっちのおうちにも遊びにきてね」
そう言って空いた手を振る幸松丸に、義姉はすぐさま制止をかける。
「幸、おねえさんは忙しいのよ。困らせるようなことを言っては駄目でしょう」
幸松丸はその言葉に驚いたように母を見上げ、そして次に窺うように元就を見る。
「……次の試験が終わったら、都合を考えてみよう。それまでは、な」
元就はやっと、それだけ答えられた。幸松丸は残念そうに顔を曇らせたが、義姉に手をひかれて玄関を後にしていく。
最後まで手を振ってくれる甥に、元就も無言で手を振り返す。ドアが締まっても、元就は暫く玄関に立ち尽くしていた。




「終わったみてえだな」
リビングに戻ると、既に部屋から出てきていた元親が悠然とソファに腰を下ろしていた。
元就は何も答えず、ふらふらと歩いてきてソファの空いたところに腰を下ろした。ぐったりと背を凭れさせる様子を見て、元親は逆に上半身を正す。
「なんか、嫌な感じの女だったなぁ。元就、よく平気でいられたな。俺が傍に居たら絶対言い返してたぜ」
「……聞こえていたのか」
「いや、見てた」
この部屋を己の領域としている元親には、見ようと思えばいない部屋の様子も見聞きすることが出来るのだ。
そんなことなど知らない元就は、彼の返しに疑問があったものの、そうか、と投げやりに答えただけだった。
「元就、あの女に怯えてただろ。今だってそうだ、怒りより恐怖や焦りが多い。今までに何があったんだよ」
元親は心配そうに尋ねる。元就はいつものように言葉を荒げるようなことはなく、虚ろに視線を反らしてぼんやりと返す。
「貴様にそれを言って何か変わるか」
「変わるさ。少なくとも元就は少し気が楽になる。……な、吐き出しちまえよ。溜め込んだままってのは、結構つらいもんだぜ」
優しく囁く元親に、元就は胡乱気な視線を向ける。
「我が悪いのだ。全て我が招いたことぞ。義姉上のあの態度も、今こうして一人でいる現状も、全てな」
それだけ言って、元就は目を閉じてしまう。これで全てだ、と態度で返してくる彼女に、元親は眉を顰める。
「……えい」
不意に彼の指が額に添えられ、元就は驚いて目を開けた。指はすぐに離れていったが、額には何やらじわりと暖かい感触が残っている。
「貴様、何をした」
「ちょっとだけ魔法。元就の口が緩くなるようなのをな。これで元就は喋りたくなってくるぜ、意思とは無関係にな」
にこにこと笑う元親は、そう言うと元就を更に抱き寄せ、自身の膝に彼女を乗せてしまう。
「さぁ言ってごらん。あの女、じゃなくて、義姉と何があった?」
言葉を誘うように元親は問いかける。暴れることも忘れ、元就は口ごもった。
だが、魔法をかけたと言われた通り、少しずつ言葉が喉の奥からせり上がってくる。
魔法なのだ、抗えない、仕方がない、そう言い訳し、元就は口を開いた。
「……我をここに置いたのは義姉だ。兄が亡くなり、少ししてから我に別居を持ちかけたのだ」
「義姉と折り合いが悪かったのか」
家族間のいざこさはこの世の常、そこに義理の家族も加われば一筋縄ではいかないものだ。
元親は知識として知っていてもそれを経験したことはないため、元就の悩みの度合いは少々計りかねていた。
「兄が存命していた頃は、上辺だけでも上手くやっていた。だが、我と義姉を繋ぐ兄がいなくなれば、それはすぐに崩壊した……義姉上が言い出さなければ、我の方から家を出ていたであろうな」
「苦手なのか、あの人が」
「……そうだな、苦手だ。義姉と向き合うのは怖い」
彼女らしからぬ気弱な声に、元親は労わるようにそっと元就の頭を撫でる。そのまま引き寄せて肩に凭れるように促したが、元就は抵抗しなかった。投げ出された手を見るに、素直というより自棄がゆえだと分かる。
元親はそれでも元就の頭を撫でてやり、先程窺った毛利の義姉の様子を思い出す。
「怖い、か……確かに雰囲気も冷たいし、言葉も皮肉交じりだし、あえて人を不快にさせてな。なーんであんなのが……」
「……ちがう」
元親の非難に、元就は首を横に振る。
「違う……義姉をそうさせたのは、我だ。我が、あのように義姉上を追いつめたのだ。義姉上が我を疎ましく思うのも当然なのだ……」
「……元就が、か?」
信じられない、と声に滲ませて元親が問い返す。元就はこくりと確かに頷いた。
「兄が……兄上が亡くなったとき、我は義姉を咎めたのだ。義姉は、兄の今際に間に合うことができなかった。我は、それを咎めたのだ」
『妻である貴方が何故、兄を一人で逝かせてしまったのですか!兄を愛しているなら、何が何でも間に合うべきだったのに!』
あの時泣きながら吐き出した言葉は、今も元就の胸の奥に突き刺さっている。そして、その言葉を聞いた義姉の表情も、ずっと脳裏に張り付いていた。
歪んだ義姉の表情は、間に合わなかったことへの絶望、夫を亡くした痛嘆、そして義妹からの叱責を受け止めた悲痛、全てがない交ぜとなっていた。
「今なら……いや、あの時だって本当は分かっていた。義姉上は息子を、幸松丸を迎えに行ってから病院へ向かうつもりでいたのだ。兄に息子の顔を見せるためにと、義姉とて必死だった……」
ぽつぽつと語る元就の言葉に、元親はただひたすら耳を傾けた。
「元就は悲しかったんだよ。たった一人の兄貴だろ、一人で看取ったから辛かったのさ。……悲しすぎて、気持ちが不安定だったんだ」
慰めるように元親がそう言うと、不意に元就は苦しげに体を強張らせ、呼吸を詰まらせた。
「……ちがう、違う!我は、我は悔しかったのだ。我から兄を奪った義姉が憎かった。兄の最後の言葉を奪った義姉に、嫉妬したのだ……!」
あのとき、兄は朦朧とした意識にうなされており、枕元で名を呼び縋る元就すら認識できていなかった。
そして、繋がれた心電図の波が途切れるその直前に、兄は弱弱しく口を開いた。それは傍にいる元就ではなく、ここにいない義姉を探す言葉だった。
元就は呆然とし、その直後に兄は逝ってしまった。傍の医師や看護師が慌ただしく動き回る様子すら、まるで遠い場所の出来事のようだった。
病室に、元就の存在は必要なかった。兄が求めていたのは妹ではなく、愛し合い子を為した妻だったのだ。
「本当は、義姉を初めて見たときから、ずっと気に入らなかった。我にとって兄は全て、全てだったのだ……その兄を奪うあの人が、憎かった……」
顔を隠した元就は、虚ろな声で呟く。目からは静かに涙が流れ続けるも、それを拭う気力すら内容だった。
「それでも、兄の選んだ人だからと、兄が幸せならばと、必死に自分に言い聞かせた。結婚式に出席して、もう兄を我から解放してあげよう、兄自身の幸せを祝福しようと、そう思っていたのに」
そして、元就は小さく自嘲するように笑った。それは笑うと言うにはあまりに弱弱しく、息を吐き出しただけに等しかったが。
「我は結局、兄離れできていなかったのだ。子供のまま大きくなって、兄の幸せを妬んでいたに過ぎなかった……」
「寂しかったのさ、それは。お前だけがそう考えるわけじゃない。人間はいつだって、目の前の幸せが憎くなるもんだ」
元親はそう言って優しく元就の背を撫でる。それは慰めではない、悪魔の視点から見た人間への正当な評価だった。
人は己の持つ幸せの価値を忘れ、他人の幸せを見ては比較して嫉妬し、相手を憎む。そうして結局は己の幸せを失い、失ってからその価値に気付いて泣き崩れるのだ。
長い寿命を殆ど一人で過ごす悪魔は、己の持つものと相手の持つものの価値の違いをちゃんと理解しているので、あまりそういう感情は持たない。
ただ、それは長年の知見で得る一種の悟りであるため、それを短命の人間に求めるのは無理があると元親は理解していた。
「確かに元就が義姉に言った言葉は酷いものだ。でも、それに一生縛られて責められ続けなきゃいけないなんて、誰にもそんなことを命じる権利なんかねえんだ」
そう言うと、今まで無気力だった元就がぐっと体を起こして元親を見下ろした。逃げようともせずにそこに居る元就は、涙に濡れる瞳で元親を見つめる。
「辛いこと、思い出させたな。無理に喋らせて悪かった……ごめん、元就」
抑えた声で謝り、元親は片手を持ち上げて元就の濡れた頬を拭う。
先程元親が言った、喋りたくなる魔法というのは、全くのでたらめだった。魔法など掛けておらず、あえて言うなら少しだけ魔力を込めて触れた程度であり、それに効果らしきものは何もない。
一種の暗示だった。魔法がかかっていると思えば、元就は口を開くだろうと読んでのことだった。元親の読み通り、元就は己のうちにため込んでいた冷たく暗い記憶を語ってくれた。
興味本位だったことは認める元親だったが、予想以上に重くて辛くて、不用意にしゃべらせたことを後悔した。元就の己を責める心の闇は深く、元親ですら気安く触れていいものではなかったのだ。
珍しくされるがままだった元就は、そこで不意に元親の手に己のものを重ねる。
「……何故、貴様は我に優しくする」
「うん?」
唐突な問いに、元親はきょとんとした顔をする。元就はやはり虚ろな目のままでじっと元親を見下ろしている。
「貴様は悪魔なのだろう。契約で我の傍にいるだけだ。傍にいるだけでいいなら、優しくする必要などない……何故そうまでする?何故我を甘やかす?」
いつものように詰問するわけでもなく、元就はただ淡々と言葉を繋ぐ。元親はすぐには口を開かなかったが、元就の頬を改めて掌で撫でた。
「何でって、そりゃあ俺が元就を好きだからさ」
「我は嫌な奴だ。肉親の幸せすら妬み、義理の家族も我を見放した。貴様にだって、いつも冷たくして、怒鳴り散らして、労わろうともせぬ。愛想を尽かしてもいいのだぞ」
「んー……こればっかりは、理屈じゃねえからなぁ」
困ったように笑って、元親は不意に体を傾ける。元就が声を上げる間もなく、彼女の体はソファに転がされて元親に覆い被さられてしまう。
「伝わらないなら、いっそ体で伝えようか?俺がどれだけ、元就のこと好きかって……」
獰猛な顔を笑みに隠して、元親が低く囁く。顔を近づけても、元就の表情は恐怖に歪むことは無い。
そうしたいのであればそうするがいい、と彼女は全身で訴えている。
「……なーんてな、冗談だよ」
ふっと顔を緩め、元親はすぐに体を起こした。明るくなった視界に元就が目を眩ませているうちに、元親はソファから立ち上がってしまった。
「焦らなくたって、ゆっくり伝えていくさ。元就が不安がることなんてない、俺はずっと元就のそばにいるよ」
優しく微笑んで、元親はソファから離れていく。キッチンへ向かうところを見るに、夕食の用意に取り掛かるのだろう。
元就は暫く動けなかった。たくさん吐き出して心が未だ不安定だったし、先程の情景の余韻が残って思考が働かない。
元親が覆い被さってきたとき、元就はほんの少しだけ期待していた。いっそ彼に無理にでも抱かれて、何もかも忘れてしまいたい。そう考えていたのだ。
彼が身を引いたのは、そんな自分の投げやりな考えを見抜いていたからなのかもしれない。
元就は暫く寝転がったままでいたが、泣いて腫れた目元をぬぐって体を起こす。着替えてくる、と一言言い残し、ふらふらしながら自室へと向かっていった。




次の日、元就はいつも通りの辛辣な態度に戻っていた。
昨日の出来事の余韻を一切残さず、いつも通り不機嫌そうな顔で玄関を出ていく。そんな彼女を、元親もまたいつも通りにこにこ笑って見送った。
いつもの二人の日常が戻ってきたのだ。今はそれだけで十分だった。





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いつもこういうどろどろした家族関係にしてしまって申し訳なく思っています。
読んでも特に楽しい部分ではないと思う…書いている私だけが満足しているという。





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