月が綺麗な夜でした。 冷たく澄んだ空気が張り詰めていて私はその均衡を崩さないように細く細く、息を吐き出しました。 私の目の前には大きな湖がありました。湖には薄らと氷が張っていて、その氷が月光を反射して眩く輝いていました。それはどこか荘厳な雰囲気を漂わせる光景でした。 先ほど吐き出した息を今度は長くゆっくり吸い込むと身体の中が清められていく感じがしました。それから細く小さく吐き出す息に旋律を乗せ私だけが知る唄を口ずさみ始めました。 しばらく歌っていると辺りはしんと静まり返り、音は私の唄声だけになりました。 いつもは寂しくなってそこで唄を止めるのですが、その日は違いました。 湖の反対岸から笛の音が聞こえてきたのです。 笛の音と私の唄の旋律はまったく異なっていました。にもかかわらず二つの音色は重なり合い絡み合い、まるで一つの曲のように響き渡りました。 唄が終わると演奏も終わり、奏者は一礼して去っていきました。一目姿を見ようと思っていた私が顔を上げたときには相手はいなくなっていました。 その後も不思議な交流は続きました。 私たちが逢えるのは湖に氷が張る寒い月夜だけでした。いつも私が唄を口ずさんでいると途中で笛の音が聞こえてきて、視線を向けると決まってあの人がいました。 けれどやっぱり声をかける前にその人は去っていってしまうのです。 歌っている間は、一緒に曲を奏でる嬉しさと離れてしまう悲しさが混在して、とても複雑な気持ちでした。 ある日ほんの出来心で湖の上を歩いてみようとしたことがありました。その日も湖には氷が張っていました。 そろそろと氷に足を乗せようとした瞬間、背後から声がかかりました。 「危ないですよ」 初めて自分以外の声を聞いた私は驚き慌ててしまいました。そのせいでバランスを崩し氷上の足に力が入りました。ピシリと氷にヒビが走る音がして、私は冷たい水中に落下するのを覚悟しました。 「だから危ないと言ったじゃないですか」 声は頭上から聞こえました。反射的に閉じていた瞼をゆるゆると開けて、上を向くと知らない顔が心配そうに私をのぞき込んでいました。 「だれ…ですか?」 からからに渇いた口でやっとそれだけ発することが出来ました。自分でも聞き取れるか危うい声でしたが、相手はちゃんと聞き取ってくれました。 「対岸から来た者です」 「ふえのひと?」 「はい」 にこやかな笑顔と共に返ってきたのは肯定の言葉でした。ずっと見たいと思っていた顔が目と鼻の先にあって、無意識に凝視していました。 目を引いたのは対岸からでもわかった蒼い髪と、その髪と同じ色の瞳でした。蒼い瞳は真冬の夜空のように深い色でずっと見ていると吸い込まれてしまいそうでした。 あまりに長い間私が見つめていたせいかその人は少しだけ眉根を寄せました。そこでやっと自分が不躾な態度を取っていたことに気づいて、慌てて目を逸らしました。 気まずい気持ちになった私はなにか言葉を紡ごうとしました。そして一番に浮かんだのはいつも対岸にいる彼がなぜ今日はこちらにいるのか、という想いでした。 深く考えることが苦手な私はそのまま想いを言葉にしました。 「どうしてここに?」 「暇乞いに来ました」 「いとまごい?」 少しだけ、彼の瞳に寂しさが映りました。けれどよく考えたら私の寂しさがそう見せていただけかもしれません。 初めて対面した日に別れを告げられて戸惑わずにはいられませんでした。どうして、とほとんど息だけで呟くと、彼は私をあやすようにやわらかく目を細めました。 「貴女が春で私が冬だからです」 ずっと対岸にいた理由がそれでわかりました。 季節は普通交わりません。だから、私と彼は湖の端と端でしか逢えなかったのです。 暇乞いはきっと、私に季節の交代を知らせるためのものでもあったのでしょう。 太陽が昇っている時間は日に日に長くなり、風は身に凍みるような冷たさを伴うことがなくなっていました。 それは冬が還る準備を始めて、春が孵る準備を始めている証でした。 「もうすぐ、貴女の管理する季節がやってきます」 「はい」 「私は明日から眠りに就きます」 「…はい」 「来年まで待っていてくれませんか?」 思いがけない言葉を聞いていつの間にか俯かせていた顔を上げていました。息が触れそうなほど近くで、彼が穏やかに微笑んでいました。 やや間を空けて頷きました。けれど少しだけ不安で私はある条件を出しました。 「わすれないって、やくそくして」 「約束します」 「ちかえる?」 「はい」 肯定した彼の目の前に小指を突き出しました。彼は少しだけ驚いて、それから自分の小指を私の小指にゆっくりと絡ませました。 指切りを終えたあと、私はいつものように唄を歌って彼はすぐ隣で笛を演奏しました。 それがこの歳の最後の逢瀬になりました。 春は無事孵り、優しい色に染まった世界が湖に映っています。湖が見渡せる木に腰掛けた私は対岸をじっと見つめてみました。 そこには誰もいるはずありませんでしたが、私には確かに蒼い彼が佇む姿が見えた気がしました。 おとぎ話 (春と冬が恋に落ちる、そんな不思議な御伽噺) |