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(がくぽ×ミク)


ちょうど化学準備室へ向かう途中だった。階段と廊下が交わる場所にその子は立っていた。私は階段から上ってきたところで驚いて足を止めた(なんせその子が切羽詰まった顔をしていたから)。
すきです。つきあってください、と一息に告白された。表情は驚きを装ったけれど、心の中ではまたか、などと不謹慎なことを考えていた。

「……ごめんなさい」

たっぷり躊躇ってみせてから断る。私は悪い子かもしれない。
相手は一瞬だけ眉間に皺を寄せた後、諦めた表情になった。断られたのに、どこか納得している顔だった。

「私には好きなひ…あ、お付き合いしている人がいるので、貴方の気持ちには応えられません」

「知ってます」

ならどうして告白しようと思ったの。訊こうと思ってやめた。
たとえ受け入れてもらえないと知っていても、伝えたい。伝えなければ自分が進めない。その気持ちが痛いほど解る私は、ただ目を伏せてもう一度謝った。


化学準備室には独特の臭いが漂っている。フラスコやビーカーには洗っても取れない年季の入った臭いが染みついているらしい。他にも化学薬品やら実験材料やらも個性的な臭いを放っている。
それらの臭いに混ざってもなお消えないコーヒーの匂い(それと、少し煙草の匂い)。私が化学準備室で一番好きな香りだ。

「プリント持ってきました」

「ご苦労さん」

奥の机に座っていた神威先生がちらりと私に目を遣る。すぐに視線を机の上のテストに移して渋い顔で赤ペンを走らせた(赤点だったのか)。
先生に構わずプリントを所定の棚に仕舞う。他のクラスの棚には全て同じプリントが入っている。私が一番最後だったようだ。

「相変わらずモテるな」

声がして神威先生の方を見るとコーヒーを片手に休憩中していた。そんな先生がにやりとも笑わず、発した声は授業で難しい化学式の説明をしている時と同じだった。平坦で掴み所のない話し方は聞き手を全く意識していない。

「聞いてたんですか」

「聞こえたんだ」

「一つ下の子でした」

「3組のやつだな」

「なんで知ってるんですか」

「お前が好きだって噂が出回ってたから」

話しながら神威先生の机の隣に移動する。椅子に座って向き合うのと神威先生が最後の台詞を言い終わるのは、ほぼ同時だった。さすがに驚いて目を見張ると神威先生は凄く呆れた顔をした。

「知らなかったのか」

「先生が知ってることに驚きました」

「知ってるに決まってるだろ」

「そんなに有名ですか?」

「恋敵の情報だから、だ」

阿呆め、とデコピンをされる。痛いと反射で言ったが、痛みより心臓が大きく跳ねたことに意識がいった。まだドキドキしているのを隠すために私はわざと大袈裟に拗ねてみせた。

“恋敵”なんて笑ってしまいたい。大の大人が高校生に向かって使うには些か大袈裟だ。本気で言ったことが解るから余計に笑いたい。にやにやと蕩けた笑みが浮かびそうになるのを必死で堪える。

「ちゃんと断りましたよ」

「知ってる」

「お付き合いしている人がいます、って」

ちょっと上目遣いで神威先生を見る。言ってよかったのかという不安を暗に滲ませながら。
言ってしまえ、と言ったのは神威先生だ。どうせバレやしないなんて。大体やましいことはしていない、とか…。確かに当人の私たちにとってはそうでも、世間は認めてくれない関係なのに。
うだうだと過去(たった数分前だけど)を振り返る私の額に再びデコピンが見舞われた。にやにや笑う神威先生と目が合う。

「満点。さすが優等生」

「茶化さないでください」

「なにかあったら守ってやるから不安がるな」

馬鹿ですか。余裕たっぷりに言われても安心出来ません。身を挺して守られたって嬉しくないですよ。
いっぱい冷たい言葉は浮かぶのに表情が緩んでいるから説得力はない。喜んでいるのを隠すために私は話題を転換した。

「私、十八になりましたよ」

「知ってる。おめでとう」

「ありがとうございます」

「三年前はまさか付き合うなんて思ってなかったな…」

「私じゃ不満ですか」

「いや。意外と満足してる」

「……手も出さないのに?」

声のトーンを落として真面目な顔で訊いてみる。神威先生は面食らった後、複雑な表情(かなり珍しい)をした。困っているようで、悩んでいるようで、呆れているようで……。

困らせたくて言った言葉だったけれど、神威先生がここまで困るとは思わなかった。
謝るタイミングを探していると、窓から風が入ってきて机上のプリントを床にばらまいていった。

神威先生が溜め息を吐いて窓を閉めに行く間に私がプリントを集める。あちこちに散らばったプリントを拾っていると目の前を白衣の裾が掠めていった。手伝ってくれるのかと思って顔を上げると、驚くほど近くに神威先生の顔があった。
目が合うより早く距離が縮まる。唇に柔らかい感触。

「…続きは二年後ぐらいだな」

ぼそっと呟いた神威先生の声はしっかり聞こえていた。聞こえるように呟いたのが丸分かりだった。



(あつくてたまらない)




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