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 学校でデッサンを教えてやって欲しいというのが、久しく再会した彼からの依頼だった。
 油と埃の入り雑じった独特の臭いと薄汚れた壁と床、数々の画材に囲まれたこの狭い空間が私の全てを発信する世界で一つのアトリエだった。ここを拠点に抽象画を主に描き出してからもう長い事経つが、その間私以外誰も立ち入らなかったこの場所にある日突然彼はやって来た。
 挨拶もそこそこに部屋に上がり込んだ彼は、しばらく興味を持った振りをして部屋中に転がっている私の絵を眺めていた。適当な一枚の絵をしばらく見つめてはまた隣の絵に、飽きてはまた隣へ。どうせ大した評価はしていないのだろうからさっさと用件を済ませて欲しい。
 しかし願いも虚しく彼にそのつもりは無いらしく、私は部屋の中央に置かれた丸椅子に座り込むとこの十数年で見る影も無く禿げ上がった彼の後頭部を諦めて見つめていた。
「売れるのかい?」
「いいえ。時々物好きが買って行く程度ですよ」
 振り返った彼はやはりな、と言うと呆れ顔で溜め息を吐いた。眼の前の小さなキャンバスの中には未完成なままの歪な世界が広がっていたが、どうせこれにもまともに買い手は付かないだろう。運が良ければそれこそ何処かの物好きが金を積むかもしれない。
「私は君には人物画が良いと、何度も」
 飽きる程に言ったろうと彼は呟いたが、私だってその言葉は飽きるくらい耳にしたのを覚えている。もう二十年近く前の話になるが、今でもあの頃の感覚は鮮明に思い出せる。
 彼は私の恩師と呼ぶべき存在だった。幼い頃から遊び感覚に絵を描き続けていた私が惰性の果てに辿り着いた美術学校の片隅で彼は教鞭を取っていた。専業画家として食い扶持を稼ぐつもりさえなかったその頃の私に、今の道を示唆したのは間違いなく彼だ。
 私は言葉こそ下手であったが必死に未熟な才能を持て余す学生達と向き合おうとする彼の姿に導かれるようにしてこのアトリエに辿り着いた。そこから先歩んで来た道は必ずしも正しいと言えるものではないだろうが後悔は特にしていない。
「抽象画が好きなんですよ」
 吐き捨てるように口にすると彼は私の背後からキャンバスを覗き込んで訝しげに顔を歪めた。
「そうも見えないが」
「気のせいでしょう」
「もう人物画は描かないのか?」
「抽象画家ですから」
「……そうか」
 声にこそ出さなかったが口唇は勿体無い、と動いていた。彼の丸い指がキャンバスを汚すように引かれた深紅の線を緩慢になぞって行く。まるで筆を使っているような動きだと思っていると、今にも剥がれ落ちそうな藍色の前でぴたりと止まった。
「食べて行くだけでも大変だろう。随分痩せたじゃないか」
「生きて絵をかけるならそれで十分ですよ」
「君は欲が無さ過ぎる。まだ若いのだからもっと貪欲に生きるべきだ」
 とうに七十を越えた彼にとっては四十を迎えようとするみすぼらしい中年でも若者と思えるらしい。随分と嗄れた彼の手と思っていた以上に年を重ねていた自分の手を見比べながら、彼の言う貪欲についてぼんやりと考えていた。
 私は自分の事を無欲だなんて思った事はないし、むしろ貪欲な方ではないかとさえ思っていた。欲の大きさに対する彼と私の認識の差かもしれないが、例え裕福とは呼べなくとも好きな絵を好きなように書いて好きなように暮らしている。人として生きる以上これよりも贅沢な暮らしは他にないだろう。
「何が言いたいんですか」
 率直に訪ねると彼ははぐらかすように眼を逸らした。
「私もそろそろ引退したい」
 油絵の具の匂いが妙に鼻についた。とうの昔に麻痺していたはずの感覚が身体にじんわりと染み込むように蘇って来る。穏やかな彼の表情を見ているとまるで学生時代に戻ったかのような錯覚を引き起こした。まるであの日の講義室のような、この道を決めたあの瞬間にも似た何かが確かに眼の前に存在している。
 彼はそっと私の方に手を置くと、あの頃よりも幾分か器用に笑って見せた。
「デッサンを教えてみないか」
「……はい?」
 空耳だろうか。彼は今確かにデッサンと言った。デッサンと言えば全ての基礎になるのだから誰に頼んでも不思議ではないのだが、今はもう専門で扱っていないはずの私にそれを依頼してくるというのも妙な話だ。きっと今の私はかつてない程に間抜けな顔をさらしているのだろうか、それを目の当たりにしてもなお彼は微笑んだまま首を傾げた。
「何度も言いますが今の私の専門は抽象画であって」
「君のデッサンに狂いは無かった」
 乾ききって水分を失った指先が私の作品を撫で上げて行く。私の絵は一体何を表したいのか理解に苦しいと酷評される事が多々あったが、むしろそう主張したいのは私の方だった。何を描けば良いのか、何を描きたいのか、当たり前だった衝動の片鱗さえ失ってしまった今の私は何の打算も無く筆を動かす事しか出来ないのだ。その点何を描いたのかと問われても解る人に解れば良いだなんて適当に誤魔化せる抽象画の上で生きていくのは非常に楽な選択だった。
 気付けば彼は狭いアトリエをぐるりと一周してした。やがて数並ぶ作品の中でも最も気に入らなかった小さな一枚の前で足を止めて、しばらくそれをじっと眺めていた。
「収入もなかなか良い、時間もある」
「しかし―――」
「もっと大きなキャンバスも買える。好きな絵が描きたいのだろう?」
 確かに私の手元には大きなキャンバスを好きなだけ買えるような資金は無い。それを思うと好きに生きる為の糧になるのではないかと思ったが、気が向かないのであれば断るのもまた好きに生きるという事ではないだろうか。
 彼は未だに例の絵に眼を向けている。あまりに気に入らないので売る気さえ失ってしまったそれは今では良いオブジェに成り下がっている。随分古い絵だがいつ頃の物なのかはしっかりと覚えていた。
「何故私を? 先生の教え子なら一線で活躍している人間は幾らでも」
「私は四十年デッサンを教えていたが」
 彼はその絵を手に取るとまだ猛々しい若さが顕著に表れている描線を指先で辿っていたが、やがて頂上でぴたりと止めた。
「君以上のものは後にも先にも見た事がない」
 彼のまだ若さを失っていない両の瞳が私の荒みきった眼を貫いた。
 あの頃―――確かにデッサンの講義は得意だったのだと思う。まだ何かを見失う前の私は無を掲げたキャンバスに筆を縦横無尽に走らせて、本当に好きなものを好きなように描いていた。
 何故私は失ってしまったのか、それは一体いつの事なのか、正体は一体何であるのか、答えを出せるものならそうしたい。まるで打ち砕かれた岩壁のように散ったそれは、もう二度と私の前に現れる事はないだろう。一体それを誰が何の為に壊してしまったのか。
 まるで答えを求めるように、気付けば私は首を縦に振っていた。







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