●出会ったあの頃
「どうしよう…」
雨の中の河原で、一人きり、傘をささずにうつむく少女が小さくつぶやいた。
年の頃は身長を考えれば小学生だったが涼しげな目元は少女を少し大人っぽく見せる。
そんな将来有望な少女がどんよりとした空よりも顔を曇らせたもの。それは腕の中でちいさく震える子犬。
「お母さんもお父さんもみんな…許してくれたらいいのに…」
そう悔しそうに悲しそうに涙声で拳を握った少女の上着は胸に抱いた子犬の泥で汚れていた。
このあたたかな温もりを胸に、ウキウキと玄関に足を踏み入れた矢先、『うちは旅館だからペットはダメ』と家族にぴしゃりと叱られ、一人で世話するんだから、と泣き叫びながら家を飛び出した。
しかし。走りながら徐々に冷静になる内に、自分の力だけでは世話をすることは不可能、という結論に行き着き、少女は最初に拾った河原で足を止めた。
―でも、この子忘れて、家になんか帰れない…帰るもんか―
広がる壁と暗闇に、目の前が滲んできた少女の肩を誰かが後ろから軽く叩き、傘を差し出してきた。
「ゆきこちゃん、どしたの?」
「あ…!え、と、…ちえ、ちゃん」
振り返った雪子の目の前に立つのは緑の傘に、ショートカットの髪、顔には絆創膏を張った活発そうな女の子。
静かに、おしとやかにと育てられた自分とは明らかに正反対、スポーツが得意で友達に囲まれている『里中千枝』というクラスメイトが『天城雪子』は少し苦手で、遠い存在だった。
「えっと、」
緊張の一呼吸のあと、雪子はぽつりと呟いた。
「この子犬…」
「お?…わ、かわいいっ!小さい〜、抱かせて抱かせてっ」
「う、うんっ」
千枝はびしょびしょに濡れて汚れた子犬を、ためらうことなく雪子から受け取り、胸に抱き寄せた。
「ねぇこの子、ゆきこちゃんが飼うの?」
「あっ…ううん。わたしの家、動物飼えない…旅館、だから」
目を伏せた雪子の視界の隅に、汚れた子犬のくりくりとしたつぶらな瞳がうつり、胸がつぶされそうになる思いだった。
「そうなんだ…」
沈んだ雪子に同調するように千枝の声もまた沈む。
「でも、置いていけなくて」
涙が滲んだ雪子の顔を、千枝は見つめ、唾を飲み込んで口を開いた。
「…よし、決めたっ」
「?」
「この子、あたしが飼う!お母さんにもお願いする!」
「でっでも」
「でもじゃないの!この子このまま放っておけないし、…ゆきこちゃんをひとりぼっちでここに放っておけないし」
はにかんで歯を見せた千枝は、最後にこう付け足した。
「よかったら明日からあたしんちに遊びに来て、一緒にお世話しない?」
・
・
「雪子ー、そんなもさもさした頭なんて撫でてないで早くうちに入れば?」
「うんー、でももうちょっとだけ」
「まぁ別にいいけど…どしたの?今日は一段と顔緩みまくっておるぞよ?」
ぷにぷにと頬をつついてきた千枝に、雪子は眩しそうな笑みで返した。
「この子を千枝が拾ってきた頃のことを思い出して」
「ああー…!こいつがあたしと雪子が仲良くなったきっかけだもんねぇ」
よしよし、とすっかり子犬の頃の面影を失った、メタボ犬の肉付きの良い背中を撫でて笑う千枝の肩に雪子は頭を預けた。
「うん。王子様と出会えた、キューピッド犬なんだから」
END
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