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∞陰陽道探究∞
平安京と陰陽道2
それにたいして陰陽寮の
天文博士であった
安倍晴明の階級は五位…


平安朝の基本法である
律令では一位を最高位と
して十数位までの階級が
定められてました。

そのなかで五位以上は、
雲の上人とよばれてました

天皇の住む清涼殿に
のぼることを許された
身分にありました……。

つまり晴明はれっきと
した高級官僚だった
わけであります。

晴明は[左京、右京の

左京の二条から四条の
あたりに(一町)ほどの
広大な宅地を支給され、
寝殿造の豪邸を
かまえていたはずです。

※京阪本線で京都市内を
めぐると、左京の二条と
四条の土地が見えてきます

三条駅→四条駅→五条駅
→七条駅と、北から南に
くだるにつれて数字が
増えていくだけの、この
シンプルなネーミングは
平安京の当時の名称を
そのまま用いてますから


たとえば栄華をきわめた
藤原氏の邸宅も左京の
三条にありました…!

平安初期に太政大臣に
まで上り詰めた藤原良房
(よしふさ)によって
建てられた邸宅は、
東三条殿と呼ばれてた。


東三条殿は東西一町、
南北二町の敷地を占める
大邸宅でした。


一町は約109メートル
だからその壮大さは、
現代の大臣クラスの邸宅
とはくらべものになら
ないかもしれません。


平安貴族の家はすべて
広大な庭のなかに棟を
並べた寝殿造
(しんでんづくり)
でした。

東三条殿の場合も壮麗な
主殿を中心にして
三棟の後殿、両翼の脇殿
が渡殿(わたりどの)と
呼ばれる屋根つきの渡り
廊下でつながれた、
典型的な寝殿造です。


文字では、いささか
説明が難しく思い浮べる
のもたいへんだと思う

つまり、簡単には
5LDKとか6LDK
とかいう規模の殿舎が
ちょとした公園並みの
敷地に五つも六つも
ならんでいたわけです。

さらに…主殿の前に
広がる庭には中島を
浮かべた池がありました。
中島には朱塗りの
架け橋がかかり池には
舟遊び用の小舟が
浮かんでた。

そのように左京の二条
から四条までのエリア
には小さめの宮城の
ような豪邸が軒を連ねて
ひしめきあってました。

晴明は左京の二条
から四条のあたりに一町
ほどの広大な宅地を支給
され寝殿造の豪邸を
かまえていたはずです。




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