幻臭‖脳味噌に張り付いた記憶#(魚の耳様提出)
どろり、とあの匂いがした。
否、匂いにどろりと云う表現は似つかわしく無いのかもしれない。
だが、僕には其の表現しか見付つけることが出来なかった。
甘ったるい熟れすぎた柑橘類のような、鼻腔の奥に張り付いて、何時までも凝る匂い。
しかし此の臭(にお)いは、何処にも無いのだ。
他人は全く感知しない。
否、正しくは、本当に「何処にも無い」のだ。
無いものを感知することは出来ない。
此の臭いは僕の記憶の中にある、匂いなのだ。
だからこそ、其れはどろりと深く脳に浸食する。
幻臭
「幻臭」
「げん…なんだい?」
「幻の臭いと書いて、げんしゅう。幻嗅とも云うな。」
彼は麗らかな陽射しに鬱陶しそうに眼を眇ながら、唐突にそう言った。
「なんだい、其れ」
「対象となるものが無いのに、異臭を感じる異常知覚───お前の症状と合致する病名。」
彼は窓の外に眼を向けながら、すらすらと言ってのけた。
「他人を病気扱いしないでくれるか」
「正常なやつでも約10%は幻覚を体感する。残りの90%は病気だけどな。」
「励ましてんのか突き落としてるのか全く解らないんだが」
「別に。何にせよ…幻臭は記憶と繋がりがあることが多いからな。」
そう言って、彼は漸く僕を見た。
「柑橘類、腐敗───さて、何の匂いかね。」
彼の眉が器用に片方だけ吊り上げられ、僕は渋面を作ってそっぽ向いた。
「さぁね。」
僕は素っ気なくそう言ったが、本当は臭いの正体を善く知っている。
(憶えてる。空ばかり青くて、噎せ返るような熱を孕んだ───彼の夏の日の臭いだ。)
強い陽射しの中、部屋の中心に鎮座した人影。
部屋に充満しているのは甘ったるい様な───あの臭いだ。
「■■■」
僕は其の人間の代名詞を告げる。
しかし其れは動かない。
其の人間の服は人間から分泌された体液でじっとりと湿っており、僕は僅かに顔を顰めた。
「■■■」
相変わらず反応は無い。
熟れすぎた柑橘類のような匂いは、人影に近付くにつれ濃くなり───
「───おい、大丈夫か」
僕は弾かれたように顔を上げた。
「あ…、あぁ……白昼夢を見てた。」
僕は乾いた笑い声を漏らして、顔に手を当てて強張った表現を隠した。
(アレは───死体の臭いだ)
甘ったるいあの臭い。
海馬の奥底に眠っていた、日常をぶち壊す悪夢。
腐臭は或一定の条件下では、甘く熟れすぎた果物の様な臭いがするのだ。
(幸か不幸か、僕は其の臭いに中って仕舞った訳だ)
僕は突然の白昼夢に何と言い訳しようか考えていると、「聞かねぇよ」と彼は短く告げた。
「!」
僕は驚いて彼の方を見ると、彼は聞かねぇともう一度繰り返した。
「幻臭にまで現れてくる記憶だ。如何せ録なモンじゃねぇだろうし。」
彼はバツ悪そうに項を掻いた。
「と言うか、追及して悪かった。その、解ってたのにな。」
彼はそう言って、窓の外に視線を戻した。
嗚呼、多分彼にはおおよその検討がついてしまっているのだろう。
彼は僕の、───僕の母さんが腐乱死体で発見されたことを知って居るのだから。
其れでも、彼は何も言わないし、聞かない。
「…そう云うヤツだよ、君は」
「ふん…、良い意味で捉えておこう。」
僕は暖かい陽射しに少しだけ眼を細める。
(あ…)
暖められた空気の中に僅か、あの甘い───幻臭を感じた。
end
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