梅馨‖英霊と少年#
雨が好きだった。
水はコンクリートを打ち、僕は雨の海を游ぐ魚に成るのだ。
「雨だね」
彼はなんて事の無いように言った。
「嫌いですか?」
彼は傘も差さずに空を見上げている。
「厭かと聴かれたら、何とも答え難い」
「また、如何して」
僕は傘をくるくると回して水を飛ばす。
「僕らが初めて此處で出逢つた時も雨だつた」
「嗚呼、憶えて居ますよ」
彼は雨の中傘も差さずに、空を見上げていたのだ。
濡れますよと僕が声をかけると、彼は驚いたように眠そうな眼を開いた。
「嗚呼、否、全く氣が附かなくて…」
「はぁ」
気が付かない、ものなのだろうか。
雨粒は細かいが断続的に地表に降り注いでいる。
彼は僕のいぶかしげな表情を見て上を指さした。
「梅を、視てひたのです」
「梅?」
見上げてみると、確かに愛らしい梅の蕾がふっくらと膨れていた。
「本当だ、もうすぐ咲きそうですね」
「えゝ、恃ち遠しひ」
「梅が御好きなのですか?」
彼は少し躊躇って、曖昧に頷いた。
「其れも有るのですが───梅が咲く頃に、恃ち人が來るのです」
「待ち人、ですか」
えぇ、と微笑った彼の青白い横顔がほんのりと桜色に染まり、彼の好い人で有ると云うことが察せられた。
「今年は来ますかね」
「來ると、善のですが」
「きっと来ますよ。」
僕の言葉に彼は帽子の鍔を軽く掴み、微笑った。
でも───僕は知っている。
彼の待ち人はもう二度と現れる事はないのだと。
「でも、若し今年も来なかったら如何します?」
「來るまで、俺はずっと恃ちます。」
「ずっと?」
「えゝ。梅が朽ちても、ずっと、です。」
柔らかい彼の笑顔に、僕は切ないような気分になった。
「良いなぁ、そう云うの」
「?」
「いえ、何でもありません。」
僕は雨の中、ちっとも濡れない彼のカーキ色の軍服の背を見詰めた。
「傘、要りません?」
「壱つの傘を御借りする譯にはいきません。」
「じゃあ、一緒に入りましょう」
彼は其れならと僕の横に初めて立った。
彼の身体からは、体温を感じなかった。
其れでも、彼は此処にいる。
霧雨は太陽を薄く透かし始めた。
「や、戲へですね」
「そばえ?」
「太陽が出ているのに、雨が降る天氣の亊ですよ。戲れと畫ひて戲えと讀みます。」
「へぇ、綺麗な言葉ですね。」
戯れ、なんて。
僕は彼がするように空を見上げた。
吸い込んだ雨の匂いは、湿り気を帯びて僕の鼻腔を擽った。
僕は、彼にそっと寄り添った。
僕の好きな雨の匂いは、きっと此の眠そうな眼をした英霊の匂いなのだろう。
そう思うと晴れたら消えてしまう儚い彼の匂いを、何だか酷く切なくて、愛しく感じた。
(嗚呼、雨が降り続けば僕らは永遠になれるのに)
end
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