依存性≠必要性‖心的外傷 佐弁
「義母様(かあさま)義母様、」
色素の薄い、短い髪がふわりと風に揺れる。
「何かしら?」
艶やかな黒髪を流した女は振り返る。
「弁丸は何処に行くのですか?」
小さな手で義母の手を掴もうと伸ばすが、届かずに空を掻く。
「信玄様のいらっしゃる、甲斐へ行くのですよ。」
「甲斐…でございますか?」
「ええ、そうよ」
「父上…兄上は…」
「勿論独りで行くのですよ」
にっこりと笑う義母。
「貴方は真田の為に人質になるのですから」
「───そんな、弁丸は、」
幼い弁丸は上手く理解出来ずにただ小さく首を振った。
「ああ弁丸、可哀想な弁丸。でも駄目なのよ、貴方が行くしかないの。」
「何故、ですか…、義母様」
義母はそっと弁丸の頬を包み、耳元で優しく囁いた。
「お前がいらない子だからよ」
依存性≠必要性
弁丸は大きな目を更に見開いて、呆然と立ち尽くした。
「連れて行きなさい」
そんな弁丸を一瞥して、冷たく言い放ち踵を反した。
弁丸は微動だにせず、されるがままに引き摺られていった。
「かあ…さま…」
小さく繰り返し呟く言葉は、愛されたい意の言葉か───
(可哀想に)
(真田の次男坊?正室のお子じゃあないとか)
(だろうな、身体中痣だらけだぜ)
(昌幸様は?)
(知らないだろうよ。上手く着物の陰に隠れてる。)
(恐ろしいな)
(挙げ句甲斐に人質だろう?)
(何とも…報われんなぁ)
(仕方無いのさ、女は怖いねぇ)
(怖い怖い)
籠が揺れた。
ハッと顔を上げれば、小窓から見える変わり行く景色。
自力で戻れる距離ではない事が直ぐに解った。
(…弁丸はいらないのですか?いらないのですか?教えて下され───)
「かぁ…さま…」
絞り出す様にして出た声は、酷く皺嗄れていた。
(───強くなろう、父上の様に、兄上の様に強くあればきっと、義母様も弁丸を誉めて下さる)
一握の希望。
(死ぬわけにはいかぬ)
真田が為に、と小さな膝を抱えて、暫しの眠りについた。
***
甲斐に入ってから数日、頑固だが明るく、賢い子を信玄公らは手厚く歓迎した。
しかし、弁丸の心中を知る者は居なかった。
(弁丸が『良い子』でなくなったら、きっと殺されてしまう。もっと、強くならねば)
真っ直ぐな心を酷く傷付けながら、弁丸は耐えていた。
そのうち、世話役にと忍が与えられた。
暗い沼を映したように暗い眼。
其れを隠す様にして流れる赤い髪。
「弁丸様」
「佐助!」
抑揚のない声も気に入っていた。
しかし、突き放されれば突き放されるほど、棄てられる恐怖がついてまわる。
(嫌だ、弁丸は…───)
しかし、其れが爆発した明くる日の大泣きから、佐助は少しずつ本当に笑う様になった。
「弁丸様、」
「なんだ?」
「どこか、痛みますか?」
「いや、痛まぬが?」
「…無理を、しないで下さいよ?」
少し眉を潜めて一歩後ろに控える。
「佐助が言うか」
ふふ、と笑うと
「俺は良いんです」
と短く言った。
「何故だ?」
「忍は代えのきくものですから」
弁丸は忍の考えは理解出来なかった。
だが、実力が有るからこそ言える台詞に強い言葉は掛けられなかった。
「…佐助は一人だ」
「其れは、そうですけど。価値の差ですよ。」
(俺に価値などない)
出掛かった言葉を飲み込んで、口をつぐんだ。
其れを敏感に感じ取った佐助は、少し視線を泳がせた。
「っと…弁丸様にとっては如何か解りませんが……俺に弁丸様は必要ですから」
「………、真か?」
くるりと振り向いて、真剣な顔で佐助を見た。
「ええ、まぁ…」
「本当に、本当か?」
ぎゅ、と着物の裾を掴んだ。
「……本当です、よ」
言い慣れて居ないのか、少し戸惑う様に顔を反らした。
「佐助、弁丸を見よ」
厳しい声色で名を呼び、両手でそっと頬を包んで顔を向けた。
「はい」
真っ直ぐ目を合わせると、忍の眼は何時も淀んで裡を隠す。
「佐助は弁丸の忍だ」
「はい」
「佐助は弁丸を離すな」
「はい」
「佐助は…───っ」
く、と唇噛んで言葉を切った。
「佐助は、弁丸を必要としてくれ……ッ!」
「弁丸様…」
震える小さな身体を、慣れない手付きで佐助は撫でた。
「俺は、弁丸様が居なくちゃ何も出来ませんよ。」
弁丸様、と名前を呼ぶと、弁丸は小さく微笑んだ。
「佐助、……」
「少し休まれたら如何です?」
「そうしよう…すまぬな」
「いいえ」
ずるずると崩れる身体を支え、膝に凭れさせる。
膝に頭を乗せ、弁丸は目を閉じた。
(手を伸ばして触れられる人が居る。其れだけで───)
互いに依存。
渇望する必要性。
(愛して欲しいの?)
(捨てられたくないの)
(嗚呼如何か必要として!)
end
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