時間が奪ったもの
コールが切れてから、時計の長針がひとつ隣の数字に差しかかったころ。高崎ほど感覚が鋭くなくとも、まず軍人ですらなくとも聞き取れるくらいの大胆な足音が近づいてきて、病室の前でびたりと止まった。
直後、扉にわずかな隙間が生まれて四本の指が生えてくる。持ち主はそのまま勢いよく開こうとしたが、病室の扉はゆっくり開閉できるよう、突然閉まらないようやや重めにつくられていた。おおげさなまでの肩呼吸をそのままに、開ききれずに戻ってきた扉に押しつぶされながらも、園崎はどうにかこうにか顔を上げる。
「おまえ……っ」
真っ先に目を引いたのはもちろん、ベッドの上で体を起こしている朝倉の姿だ。彼は瞳を丸めて園崎を見ていたが、やがて申し訳なさそうに視線を逸らす。
懐かしんで久しい色を目の当たりにすると、園崎はへの字に曲げた眉の間に隆起を作り、整然とした歯列を強く噛み合わせた。安堵や疑問、いろいろが入り混じった複雑な気持ちを必死に解そう、解そうと頭が働いている。しかしその表情は、妻と愛人の情事に鉢合わせたそれ。
扉を肩まで使って押し開き、ついに園崎は病室に踏み入った。
香坂軍医療部隊の診察室は、例外なく医療棟の一階に勢ぞろいしている。コールを受けとったあのメランコリーから園崎に連絡が通り、彼がここまで上がってくるのにかかる時間を考えてみると、どれだけ必死で駆けてきたのかがよくわかる。整えられた空調のもとで、程よい運動をした園崎の額には、季節外れの汗がうっすらと滲んでいた。
「おまえっ、なあ……!」
大股で近づくなりベッドに飛びついてきた園崎に、朝倉はぎょっとしてのけぞった。普段は冷静で理知的な治癒師が、声を荒げて勢いよく乗り出してきたことに圧倒される。髪と同じ灰色の睫毛に縁取られた目が見開かれるのをよそに、園崎はまず朝倉の顔を見た。色よし、充血なし、目の焦点は合っている。かさついた唇はやむを得ないとして、第一印象は良好だった。次は問診だ。
「体は!」
「えっ、あ。まあ」
朝倉は、そのあまりにおざなりで雑な問いかけに戸惑ったのではない。らしくないなと思っただけだ。
「なんともないです。普通というか、いつも通りというか、強いて言うなら喉が渇いたかなってくらいで……」
「……水は用意させてる。飲んだらお前、検査だ、検査。レントゲン……は、いいか。それより中身だ。血液と、魔力偏差と……」
指折り数えていた園崎は、そこでなぜか唐突に言葉を切った。
その手で愛する人を撃ち殺した映画の主人公のような顔をして、朝倉のほうを振り返る。なんの脈絡もなく意識を向けられた朝倉は、静かに首を傾げていた。園崎が中途半端に折った関節と、物言いたげたな顔を交互に見やり、それでも続きが語られないのでおそるおそる問いかける。
「何か……」
「…………」
「先生?」
「……いや、俺はばかだ」
あれもこれもと検査を数えていた手を、園崎はまっさらに解放した。それをひらりひらりと振ってみせると、朝倉の足元に座っていた高崎の厚い肩に肘を乗せる。迷惑そうに身をよじる高崎を無視し、朝倉へささやかな笑顔を向けてこう言った。
「腹は減ってるか」
「少し」
「なら、まずは飯だ……おまえの栄養状態は正直まったく問題ないんだけどな、まあ、何日も食ってないことには変わりない。温かいスープがいいな。すぐ用意させる」
「どうしたんです、急に。検査は」
「ガキは余計な事気にすんなよ。とにかく食え。話はそれからだ」
聞きたいことは山ほどあるんだ、とつぶやいて、園崎は高崎の肩を支えにするのをやめた。姿勢を正して立って、白衣のポケットに両手を押し込み、ふうと一息ついて背を向ける。
「また来る。高崎、そいつ見とけよ」
「言われるまでもねェ」
「ふん、だろうな……じゃあな、朝倉」
「ん、はい。先生」
顔が見えずとも、園崎が小さく笑ったのがわかった。
◆
園崎が言った通り、食事はすぐに届けられた。
控えめにノックをして、失礼します、と入ってきた男の声には聞き覚えがある。ナースコールをとった男だ。片手にトレイを持って静かに病室に入ってくると、高崎と目が合ったのかわずかに体をこわばらせる。しかし一度唾を飲んで落ち着いた様子で、二人のそばへ歩いてきた。
高崎が黙ってベッドの端から立ち上がり、壁際へと移動する。それを見た男は意外な気遣いに一瞬ばかり硬直したのち、ありがとうございます、とつぶやいた。
朝倉の足元を覆うようしてあった可動式の机にトレイを乗せると、ころころと引いてくる。
「起こせますか。手伝いましょうか」
「ん、多分……いける。大丈夫」
ゆっくりと上体を起こすと、男はもう少し朝倉の近くにテーブルを寄せる。
底の深い器の半分ほどまで、やんわり湯気を吐く濁ったスープが注がれている。そこに薄く切った玉ねぎがいくつか浮いていた。鶏と塩の香りがする。トレイには他にスプーンがひとつ。
「どうぞ。人肌には冷ましてありますから、ゆっくり召しあがってください」
「……どうも」
男は朝倉にひとつ礼をして、高崎にも同じようにして、慎ましく病室を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかっても、朝倉はスプーンを握らない。
「……今回だけな。特別だ」
「……は? 何言ってんですか……」
高崎が再び朝倉のベッドの端を陣取る。ただし今度は横向きに座って、体を朝倉に向けていた。間近でじっと凝視され、離れてくださいと言いかけた朝倉は居心地悪そうに口ごもる。
その間に高崎は手を伸ばし、一つしかないスプーンをかっさらった。彼の手に収まると、大きめのスプーンも小さじに見える。朝倉が口を挟む前に、高崎はそれをスープに沈めた。
そして、すくい上げる。乗り損ねた玉ねぎのかけらがぽちゃんと落ちた。
「ん」
「は?」
それを当然のように向けられて、朝倉は心の底からわけがわからないと声を出した。
高崎は不満げに目を細め、匙をずいと突き出す。
「は、じゃねえだろ。口開けろや」
「……やですけど」
「ならはっきり言ってやる。握力が戻ってねえな、これっぽっちもまともに扱えねえくらい」
「…………」
「それとも犬みてえに舐めてすするか。それはそれで見物だ」
「大将は性格が悪いんですね」
「手前ほどじゃねえよ」
「……まあ、いいですよ」
「…………」
この二人の口論―主に朝倉が何かを拒むときの争いは、もう何度か軽口を言い合って、高崎が正論でじわじわ逃げ道を塞いでようやっと追いつめるのが常だった。
だから朝倉が目を閉じて餌を待つ雛鳥のように口を開いたとき、高崎は静止し、黙した。その気配を感じて、朝倉はしたり顔で目を開く。
「何ですか。そっちが言い出したんですよ」
「……やけに素直じゃねえか」
「ま。腹減ってますし。いい具合に冷ましてくれてるみたいなんで」
我慢できない、といったふうに口の端を持ち上げる朝倉は、両手を高崎に見えるように膝の上に置いた。右手の人差し指を上向けて高崎を指し、二度。軽く曲げる。
うまく機能しない指を、わざわざ挑発のためだけに鞭打って動かしたのだった。
今日だけで一体いくつ、高崎の貴重な顔を見たことか。眠っていた、らしい時間を取り戻そうとでもいうのだろうか。朝倉はふっと笑い、自ら高崎に顔を寄せた。
「いただきます」
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