WestendCompany.
逃げ出す
喉の奥から血の味が登って来た。
それでも止まる訳にはいかない。せめてあの明り、多分山小屋だろう。あそこに入るまでは。
追っ手を振り切れたかどうかも分からず、彼女は一心に森の中を走った。
ばん、と乱暴に扉を開ける。
疲れ切った身体を閉じた扉に預け、彼女は床にへたり込んだ。
先程まで降っていた雨のせいで、彼女は上から下まで濡れ鼠だった。ぬかるみに何度か足を取られて泥まみれでもある。
酷く惨めな気分で息を整えようとしていると、小屋の奥から落ち着いた声がした。
「大丈夫ですか?」
その女性は簡素なベンチに腰掛けていた。茶色い揃いのパンツにベスト、焦げ茶だと思ったのは、どうやら濡れているかららしい。藍色のキャスケットを被り、ベストの下の白いシャツは、張り付いた肌の色を透かしている。
濡れて重そうな長い黒髪を揺らして、女性は彼女に近付いた。
もう一度、同じ問いを繰り返す。
「大丈夫ですか?」
「…ぁ、」
何か答えようとして、彼女は激しく咳込んだ。喉の粘膜が乾き切って張り付いているらしい。
涙が浮かぶほど咳込んで、彼女は仕上げとばかりに盛大なくしゃみをした。次の瞬間には真っ赤になる。
女性は彼女をストーブの方へ連れて行った。
小屋の中心にはストーブが据えられていた。本来は冬用なのだろうそれは、雨で冷え切った彼女を暖かい空気で包んだ。
ほぅ、と息を吐く。
「後でここの持ち主にお礼を言いに行かなきゃいけませんね」
床濡らしちゃったしストーブ勝手に使っちゃったし、と女性は苦笑する。
「すみません。流石にタオルまではないみたいで、体拭いたりはできないんですけど」
「…いえ、ありがとうございます」
本当に申し訳なさそうに言う女性に、彼女はどうにか頬の筋肉を持ち上げて見せた。
――窓が耳障りな音を立てて割れた。それとほぼ同時、彼女の髪を掠めて風が吹き過ぎる。
それが何であるか認識して、彼女は悲鳴を上げた。
頭を抱えて身を縮めた彼女を奇跡的に捕らえず、鉛弾を含んだ風が窓を割って侵入する。
相手が一人きりなのは分かっている。
だがそれを補って余りある程、命を狙われる状況は彼女の精神に負担をかけた。
幼子のように蹲って泣きじゃくる彼女の横で、女性がすっと立ち上がった。
酷く清らかな風が吹いた気がした。ぱさり、軽い音を立てて、彼女の足元に女性の帽子が落ちる。
女性が呟いた。
「……ずぶ濡れのままでいてくれてよかった。そこにあるのが水なら、あたしが止められる」
いつの間に止んだ風と女性の言葉に、彼女はそっと隣りを見上げた。
女性の周りには冷たく澄んだ風が吹き、ゆらゆらと浮かぶ髪は深海の碧に揺れていた。片手を窓の外に向けた彼女の、耳がある筈の場所には薄青色の鰭(ひれ)。
女性は窓から目を逸らさずに言った。
「行って下さい。できるだけ留めておきます」
そう言った女性の瞳が深い碧であることを彼女の瞳が捕らえた。
彼女の脳が正常に働いたのはここまでだった。
…だってひとには耐えられない。
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