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4 時間を止めて、未来に別れを



最近は習慣になりつつある、二週に一度の眼鏡の男との小さなお茶会に、敏樹は今日も足を運んでいた。
片手には、星形のクッキーに小さなベリータルト、そしてミルクをたっぷりいれたアッサムティの入った紙袋を持って、少し長い階段を上がる。大分慣れたもので、息もそんなに上がらなくなった。日常における適度な運動というものの必要性を改めて実感していたりする。
最後の三段を軽やかに上りきり、敏樹はふぅと息を吐いた。次いで吸い込んだ酸素は、身体を駆け巡る旅に出る。
そうしてやっと落ち着いて、敏樹は曇りガラスになっている、外と内を隔てる扉に手をかけた。見た目よりずっと軽い扉は、長年使われていなかったせいか動きが鈍く、開けるときに抵抗がある。ギィと軋む音は、まるで敏樹の侵入を阻むかのように大きく鳴った。音が鳴らないようにするにはコツがあるのだ。

―――――あれ?

目の前にあった異変を、敏樹はすぐには理解できなかった。だが、間の抜けた声と共に馬鹿げた問いを口にしなかっただけ敏樹はまだ平静を保てていたと思う。
そこに悠々と立っていたのは、見知った眼鏡の男ではなかった。
しかしそれは決して可笑しな現象ではない。飽くまで此処は公共の場だ。敏樹と男だけの秘密の場所でもなんでもなかったからだ。
だが、何と無く面白くないような気がした。まるで秘密基地の場所を他人に暴かれてしまった子どものような感情が一瞬顔を覗かせる。それは直ぐに警戒に変わった。子どもならば癇癪を起こすところを、敏樹は威嚇に置き換える。どちらにせよ、子供っぽく褒められたものではない。
男は漆黒の髪と眼をしていた。混濁した黒ではなく、純粋な黒だ。そしてそれは敏樹に少しの安堵を与えた。危ない男ではない、と判断する。勘だ。だが、八割方間違ってはいないだろうと敏樹は考える。
どうしようか、待とうか。敏樹は紙袋を持ち直し、所在無さげに窓の外に視線を移す。成る程、こんな事態は初めてで、些か混乱している自分がいることを敏樹は正確に認知した。

「――アイツは、来ない」

番号も知らない相手にかけるのではなく、ただ手持ち無沙汰になって取り出した携帯を見て、黒髪の男が言う。敏樹は驚きに顔を上げて、眼鏡の男の背よりも若干低い男を見た。
男は整った容姿をしていた。アイツ、というのが眼鏡の男を指すならば、年は近いのだろう。しかし大分下に見える。きっと男が童顔なのだ。

「…貴方はメッセンジャー?」
「何で私がアイツなんかのために」
「なら、」
「腐れ縁だ」

きっぱりと言い切った男を、敏樹はまじまじと見詰める。最早警戒はない。あったのは、好奇心だった、と思う。
あの男といい、この男といい、どうしてこうも人を惹き付ける何かを持っているのだろうか。
そのカリスマ性は、きっと良い意味でも悪い意味でも両方に目立つんだろう。あの蒼い瞳の男のように。
――眼前の男について、敏樹は一つだけ心当たりがあった。キーワードは「童顔」「腐れ縁」「カリスマ性」だ。

「もしかして、同期の上司?」
「は?」
「あの人の親友さんでしょ?初めまして。お噂は兼がね」

言うと、男は苦虫を噛み潰したような表情をした。

「あぁ、今日という偶然を神様に感謝しなくちゃなりませんかね」

一度お逢いしてみたかったんです、という敏樹に、男は更に顔を歪めた。

「神など、いるものか」

男は吐き捨てるように言う。
あぁ、男もきっと戦争経験者に違いない。男は燦然たる地獄絵図を見たことがあるのだ。敏樹の知らない未知の世界。

「…居ないなんてことは、ないんじゃないですかね」

控え目に反論した敏樹に、男は視線を移す。その瞳に嫌悪はない。

「そういえば、ジャポネには八百万の神がいるんだったな。キリスト教は違うし、アッラーに至っては唯一の絶対神だ」
「うーん、でも、雨には雨の、火には火の、酒には酒のカミサマがいるって考える方が効率は良いと思いますけど」
「効率の問題なのか」

敏樹は曖昧に笑った。

「物だって百年経てば神になるんですよ」
「九十九神」

男は興味深そうに小さく頷く。

「あの概念は面白い。アニミズムな物の考え方だ」
「唯一神に相反する汎神論ですからね、ヘタすりゃ刺されますよ」
「全ては神、神は全て。…付喪神は元々はジャポネの勿体無い精神からきているのかもしれないな。だがその精神は素晴らしい。この世の全ては等価交換だ。無からは何も生まれない」
「この世は有限であると?」

男は頷いた。

「何かを代償にしないと新たなものは得られない。歴史の中において時にそれは顕著になる」
「成る程」

敏樹はそう言って、携帯を小さなテーブルに置いた。セラミックの透明な円テーブルの横には、足の長い円椅子が二脚置いてある。一つは敏樹が座っている。もう一つを、敏樹は男に勧めた。自分のものではないが、声を掛けるのが妥当な気がしたのだ。

「あの人が来るのだとばかり思っていたから、あなたの口に合うかは解りませんが…、もし時間が許すなら、おやつでも如何です?」

敏樹は紙袋から、クラフトカップと紙皿を取り出す。そしてテーブルの上に並べていった。
眼鏡の男なら紅茶に紙コップでも文句は言わなそうだが、この男を前にすると何故だかきちんとした一対のティカップで出さなければいけない気にさせられる。コーヒーなら気にしないのに。

「父と子と精霊の御名において」
「私はキリスト教ではないよ」
「じゃあ、信教をテーマにして卒業研究?詳しいですよね」
「そんな知識、今はパソコンで調べれば幾らでも出てくる。興味深いのはそれに伴う人間の思想に、附随する人間と神の価値であり、中身だ」
「悪人と聖人について…とかですか?」

敏樹が首を傾げると、男は小さく笑った。

「そんなこといったら、性善説と性悪説の違いも論じなければならなくなるぞ」
「…孟子と荀子?、それともキリスト教繋がりで原罪説?」
「生来の腐敗説でもいい」
「肉と霊…てやつですか。つまりは、教育でしょう?起源でも良い」
「というと?」
「農耕民族か狩猟民族か」
「環境因子と言うことか」
「どっちかって言えば、俺は両因子派なんですけどね」

敏樹はくつくつと苦笑した。考えれば考えるほど路は狭くなっていく気がした。

「遺伝子のルーツを辿って、彼らが何をして生き延びて子孫を創ってきたのか知ったとしても、どちみち俺は此処にいてこうやって生きてるわけですし」

敏樹は星形のクッキーを一つ摘まむ。そして口の中に放り込んだ。

「私は未だに彼のアドレスも職業も知らないし、あなたがどうしてここに居るのかも知らないんですよ。私にどうして構うのか、それが善意なのか悪意なのかも分からず毎週こうやって手土産を持って足を運ぶんです。もしかしたら凄く滑稽なことかも知れないけど私にはそれが解らない。知らぬが仏という言葉があるように、人が知らなくても良い領域というものは有ると思うんです」
「それが、禁忌か」
「さぁ?」

敏樹は解答をすっぱりと放棄した。

「禁忌だなんて…結局は人間が決めた領域でしょう?私は神が存在するかも解りませんからね」

にこりと笑って、敏樹は少し冷めてしまったミルクティに口をつけた。それでもミルクティは美味しい。それは敏樹の中の事実だ。それが男に当てはまるかは解らない。男には男の視界があり思考がある。だから宗教心理は多々あるのだ。

「居ても居なくても、結局神は人間の信仰対象に成りうるものです。何故なら、形の見えないものだからこそ人の心の拠り所になり、奇跡という曖昧なものにすがることができる」

敏樹は未だに立ったままの男を見上げた。仕立ての良いスーツには、皺の一つも見えない。見付けられない。

「神でなくても良い、英雄でも何でも」

そこに救いが見出だせるなら。
表面上笑って、敏樹はもう一度男にイスを勧めた。男は漸く背凭れに手を置いたが、座ろうとはしない。

「お前もか?」

斬るような声に、敏樹は困ったように眉を下げた。何も言わない。ただ男を見返す。
男は暫くして短く息を吐いた。それは静かな攻防戦に見切りをつけた合図だった。

「解った、お前の中に神はいない」
「じゃあ、何が居ました?」
「何も」

男は小さく笑って、椅子に腰掛ける。

「お前の中は混沌としていて、なのに空っぽだ。何もない」

敏樹も、つられて笑った。

「俺の中に居るのは、きっと空っぽで歪んだ俺の脱け殻なんでしょう」














時間を止めて、未来に別れを
そうやって何度も繰り返す
その度に大きく肥大して、私は生きるのだ


2009年6月9日 22:02








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