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ロストグローリア



そこは学生寮の二階だった。煉瓦造りの古めかしい建物のわりには新しい階段の踊り場にある扉を開けば、非常階段に続く白い短い通路がある。非常口の前にはガラス張りになった喫煙所があるが、そこで喫煙する人間を見たことが、敏樹はなかった。ちょっとした穴場だったのだ。
元々此処は士官学校の廃校で、最近でこそボランティアの子ども教室やらシルバーのためのパソコン教室、フラワ・アレンジメントなどが開催される提供所とされているが、敏樹が此処に初めて足を踏み入れたときは無人で、人の気配など微塵もない、本当に静かな空間だった。だから、「よぅ、青年」と後ろから声をかけられたときには敏樹は飛び上がらんばかりに驚いた。比喩ではなく。
張り裂けそうなほど大きく動く心臓を宥めながら振り返ると、喫煙所の中に男が立っているのが見えた。黒髪を後ろに撫で付けたようなオールバックにスクエア型の眼鏡をかけている、無精、というにはきちんと整えられた髭を生やした人懐こい笑みを浮かべた男だった。
ざっと上から下まで視線を移して、敏樹は小さく首を傾げた。覚えのない顔だ。話しかけられる理由も思い浮かばない。
そんな敏樹を見詰めて、男は苦笑した。笑われる理由もわからず、敏樹は口を引き結ぶ。

「ああ、そんな嫌そうな顔をするもんじゃないよ」
「何処かでお会いしたことが?」

無かったはずだ。拒絶的な響きに男は口元を歪めた。笑うのを堪えているようだ。敏樹も口元を歪めた。面白くなかった。

「お前さん、他人に、興味ないのか?」
「そんなことはありません。人間の心理は複雑怪奇だ。すぐに理解の範疇を超える」
「それは放棄ではなく?」
「ええ、興味です」

まるで用意していたような間髪入れない敏樹の応えに、男は笑みを深くする。その笑みが気に入らなくて、敏樹は思わず渋面を作った。

「興味を持つことは小さな事かも知れないが、多大なるものの第一歩だぞ」
「だから…。急に、何です」
「すっげぇ、つまらなそうな顔してたから」

クスクスと笑う男は、本心が、というよりも本性が掴めなかった。煙に巻かれているような、という表現がぴったりだと思う。

「そう怒るな」

男が更に笑みを深くする。自分は存外、解りやすい性格をしているらしい。

「――この国は、平和呆けしすぎなんですよ。馬鹿馬鹿しい議論を、延々と。時間の無駄だ」
「平和呆け、ねぇ。…お前さん、戦争を知らないだろう?」
「……・・えぇ」

一拍置いたのは、それがどういう意味なのかと考えたからだ。
言葉なら知っている。その悲惨さも、どうやって終結したのかも、敏樹は知っていた。
それでも反発しなかったのは、男の瞳があまりにもまっすぐに敏樹を捕らえていたからだ。若萌木色の瞳が光に当たり、更に明度が増す。

「戦争は、怖いぞ」

男の声は静かで、あまりにも静かで、敏樹の背は知らずの内に伸びていた。表情の失せた一瞬に、敏樹は戦慄する。人がこんな顔をすることができることを、敏樹は今の今まで知らなかった。知らずに居られた方が、幸せだったのではないだろうか。ああ、そうだ。敏樹は本物を知らない。
男はまるで計算されたかのような完璧な角度で口元で弧を描く。そして首を傾けた。どうした、とでもいう風な態度に、敏樹は舌打ちをしたい気分になって、辛うじて押し留める。ここで平静を欠いてしまったら、ますます自分を見失ってしまう気がした。飽くまでも主観的な自身を、だが。

「戦争に行く前にな、帰ってきてしたいことをたくさん考えるんだ」
「死にに行くのに?」

敏樹は驚いたような声を上げた。それに男はぎゅっと眉を寄せた。怒りの表情ではなく、どちらかと言えば哀愁を帯びている。どこか達観したような、そんな雰囲気さえ醸し出していた。
「そうじゃない」男は首を振る。

「戦争なんてのに行くには、覚悟がいる」
「そうでしょうね」
「死にに行く覚悟じゃないぞ?生きる覚悟だ」

男の声は震えていなかった。その眼は遠くを見ていたが、しっかりとしていた。何故かそのことに敏樹は安堵する。

「何を捨てても、生き抜く覚悟だ。あの闇に打ち勝つ決意だ」

男は敏樹から眼を逸らさずにいる。だから、敏樹もありったけの誠意を込めて男を見返した。
男の瞳は人形の瞳の硝子玉にも似ていたが、その光は無機物には宿せない程に強い。
敏樹は小さく感嘆の息を洩らした。光が強いほど、その裏にある闇も濃いのだ。

「誰かの幸せを願うことは、顔も知らない誰かの不幸を願うことと同じだってことですか、ミスタ、」

そこまで言ってから、敏樹はまだ男の名前さえ知らないことに気付いた。











ロストグローリア
(それでも私は生きたかったのだ)



title:楽日
男のイメージはヒューズ。
如月と敏樹の話を書いてたら何だか敏樹を見失いそうになったので書いてみた(笑)









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あきゅろす。
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