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世界の崩れ逝く音


父さんは、何時も仕事で家に居なかった。
母さんも、何時も家に居なかった。

私の母は、何時も父が出かけて暫く絶つと出かける用意をする。
金縁の外出用の眼鏡をかけ、化粧をし、綺麗とは言い難い趣味の悪い柄の服を身につけて、如何にもな高そうなバッグを持って、「それじゃあ良い子にお勉強をして待っているのよ」なんて言って、私には一万円を三枚ほど握らせて扉に手をかける。そうしたらもう振り返らない。私がどんな表情をしているかなんて、興味がないのだ。
私の父はT大卒業で大手と言われる企業に勤めている。私の母も、S大を卒業し、そこそこ大きな会社に就職後、暫くして寿退社した。相手はもちろん私の父だ。そのせいか、二人は―特に、母の方は、私の成績には煩い。九十点台は当たり前で、八十点台をとろうものなら、とてつもない剣幕で私を叱った。どうして出来ないの、遊んでいたの、きっと勉強時間が足りないからね。そうして私の自由の時間は削られて、全てが勉強の時間に充てられた。成績が下がる度に家庭教師は代えられ、塾にも通わせられた。そのくせ、百点をとっても一度も褒めてもらえることはなかった。彼らにとってそれは当たり前でしかなかったのだ。
百点の度に読み上げられる名前も、やる気のない拍手も、私にとっては最早どうでもいいものだった。教師はいつも私を褒めた。そしてクラスを見渡して、私のようになりなさいという。そうする度に私がクラスから孤立していくのを、彼は見抜くことが出来ない。
私は今日も手にした一万円三枚を、机の引き出しにしまった。もう幾ら貯まっただろう。外に出て遊ぶ時間もないから、出前を取ったときくらいしか金の使い道が無いのだ。でも、最近はインターネットで通販をすることを覚えた。なかなかに面白い、これは発見だ。
私は窓を開ける代わりに携帯を開いた。私の家の隣には、不破という家族が住んでいる。それはそれは、幸せを絵に描いたような家族で、私は自分の部屋の窓を開けるのが嫌いだった。何故なら、ちょうど私の部屋の前が不破の子どもの部屋だったからだ。
一度だけ窓越しに彼の部屋を見たことがある。態とではなく、不可抗力だ。そして彼の部屋は、私の部屋とは大違いな、暖かそうな部屋だった。
私の部屋には高い勉強机に分厚い参考書に、最新型のパソコンに、小さなソファとベットが所狭しと並べてある。だが、彼の部屋はどうだ。壁のコルクボードには家族や友達の写真が貼られ、本棚には色々なジャンルの本が並び、その中には分厚い参考書の代わりに家族のアルバムが並べられていた。別途サイドにはぬいぐるみが並べられ、英語の発音ではないCDがかかっていた。
初めてその部屋を覗いてしまったとき、私は泣いた。家族の絆というものが羨ましくて、どうして自分がそれを得られないのか不思議で悔しくて、もう窓など開けるものかと誓ったものだ。
母は私に不破の息子のようになりなさい、という。私はそれを聞く度に、じゃあ不破の両親のようになれ、と思う。
偶々なのだ。その授業参観の日、偶々不破が難しい問題を解けたから、それを教師が褒めたから、だからだ。普段は私の方が成績は良いのに、母は不破をすっかり気に入ってしまった。何かにつけて彼のように成りなさい、という。一体あいつの何を知っているというんだ。その前に、私の何かを、母は知ってるのだろうか。
誰もいない空っぽな、澱むほどの空気さえ流れていない家の中で、私は必死に両親の温かいはずの手を思い出そうとした。あの手は私を抱き締め、頭を撫でてくれたはずだ。なのに何故、どうして私はそれを思い出せないのだろう。
クリスマスの日にサンタクロースは私のところに来なかったし、誕生日なんて私が生まれた日でしかなかった。そもそも私の誕生日というものを両親が覚えているのかも解らないくらい、何時もと変わらない一日を過ごすだけだ。その日だって私が手に入れたのは、大きなワンホールケーキなどではなく、大きなクラッカーの音でもなく、一万円を、きっかり三枚だけ。私からしてみれば、そんなものはただの紙でしかなかった。面と向かってでなくとも良かった、メールでも電話でも手紙でも、ただ一言だけ、生まれてきてくれてありがとう、と。
そんな言葉はとっくの昔に諦めたはずだった。彼が、その日、クラスで話しているのを聞かなければ、友達に手作りのバースディ・カードを見せびらかしたりなんかしていなければ…!
私は捨てたはずの感情が胸の内で渦巻くのを感じた。頭に血が上って、真っ白になるほどに嫉妬した。
どうして私はあいつじゃないんだろう。どうしてあいつの両親は私の両親と違うんだろう。何がいけなかったのか、私がいけなかったのか。泣いて叫んで縋れば父は、母はもっと私を顧みてくれただろうか。今からでも遅くないだろうか。私はどうすればあいつみたいになれるのだろうか、どうすれば愛してもらえるんだろうか。
百点をとってもリレーで一番になっても最優秀成績をとって表彰されたって私は彼らの関心をひくことが出来なかった。どんなに頑張ったって、私は彼らの中の優先事項ではなかったのだ。
私は思わず持っていたコップをフローリングに叩き付けた。床は凹み、マグカップは粉々に飛び散った。私が、あいつになれればよかったのか。じんわりと視界が滲んだけれど、涙は決して頬を伝ったりはしなかった。これからの人生を悲観してしまうには私はあまりに幼かったし、全てを諦めてしまうにはまだ何も知らなすぎた。いや、だからこそ私は自分にも自分の家族にも見切りがつけられなかったのかも知れない。私はきっと優柔不断だったのだ。

その日もいつもと同じ一日が終わるはずだった。ただ日常と違かったのは、家に帰ったとき、父が家にいたということだ。そして、母も。だが、それが良いことかと言えば、違うだろうことは簡単に予測できた。
父は椅子に座って俯き頭を抱えていたし、その横で母は床に座り込んで父の足を揺さぶっていた。その顔は幾筋もの涙で濡れていた。私はリビングの扉を少しだけ開け、中の様子を窺っていた。リビングはまるで舞台上で、私は幕間から悲劇か喜劇の進行を見守り、自分の出番を窺っているようだった。そうだ、私はこの光景が茶番じみていると思ってしまったのだ。
私はゆっくりと瞬いてみたが、目の前の光景はちっとも変わったりしなかった。ただ、何かを感じたのか、母が私の方を振り返った。その瞳は見開かれていて、私にはその瞳孔さえも開かれているように感じられた。

「三郎……!!」

私はその気迫よりも、母が私の名前を覚えていたことに驚いてしまった。

「なぁに、母さん」
「お父さんがね、お父さんが、会社をクビになってしまったの」

リストラされたのか――。
私はフラフラと立ち上がり、私の両腕を掴む母の指の強さに威圧されながらも、私より低い母の頭を見下ろしていた。
この不況の波に、とうとうこの家も呑まれてしまったか。
私はショックだった。勉強、勉強、勉強。勉強が出来るからって、何だ。私は友達の一人もいないし、リストラされるときは勉強が出来るからって関係ないじゃないか。

「見返してやって!」
「何を?」
「もっと良い学校に入って、もっと良い会社に入って、世間を見返してやるのよ!」

世間を見返す?私はとうとう呆れてしまった。何て世間知らずの母なのだろう。世の中は母が思っているほどに温情溢れる世界じゃない。私たち家族のちっぽけな事情なんかに、誰も関心を持ったりしないのだ。
私はヒステリックな母の叫び声を聞きながら、冷えた頭でそんな事を考えていた。

「母さん」

私は母を呼んだ。

「母さん、」

私が欲しかったのはそんなヒステリックな声じゃなく、そんな痛い指じゃない。壱万円札でもなく成績に関する置き手紙でも無かったんだよ。
私が欲しかったのは。

「ちっともわかってないじゃないか」

不破の子どものように髪を伸ばした。緩いウェーブをかけた。少し明るい茶色に染めた。ネットで覚えた技術を使って、メイクもした、笑みも研究した。だけど。だけど結局、母さんは俺を見てくれなかった。

「母さん、私は」

もう、もう良いよ。もう夢なんか見ない。母さんは俺を見ない。私は諦めることを、自分に許した。

「私は母さんの玩具じゃないんだ」

操り人形の糸は、切れてしまったんだよ。










ここまでだと救いがない(笑)
書けたら頑張って続きをあげます。



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あきゅろす。
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