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アネモネが咲くとき



すきだというには、私には勇気がなさすぎた。
愛していると伝えるには、私の立場は脆すぎた。
少なくとも、私はそう思い込んでいた。

ある人を前にすると、半助の心は体を離れる。ふわふわと、風船が空に浮いてしまうような、そんな錯覚すらする。兎に角落ち着かなくて、何の意図もないだろう一挙一動に過剰反応してしまう自分が憎たらしい。
はぁ、と吐いた溜め息は思いの外長く宙に留まって、更に半助を落胆させた。こんなことすら自分の思い通りにいかない。

「朝から鬱陶しいですね」

バッサリと切りかかられ、半助はビクリと肩を揺らした。慌てて振り返れば、スラリとした体型の立花仙蔵が仁王立ちしている。肩にかかった長く綺麗な髪を払うその表情は苛立たしげだ。
半助は反射的におはよう、と挨拶をする。しかし仙蔵から返事はない。

「まったく、そんなところにぼうっと突っ立っているなんて、通行の邪魔です。次いでに、そんなしみったれた顔はお止めなさい、朝から気分が悪い」

随分な物言いに、半助は苦笑する。彼は何時も直球でものを言う。半助はそれが時折羨ましい。
そう、例えるならば、空を飛び回る鳥を羨むような子供の気分なのかも知れない。

「酷いなぁ」
「欠片も思っていないくせに何を仰有います」
「私だって傷付くよ」
「傷付いたような錯覚に陥っているだけです」

切って捨てた仙蔵は、半助を追い越して歩いていってしまう。それを視界の隅で捉えて、半助は小走りでその後を追う。

「こんなにも痛いのに」
「痛いと思い込んでいるだけです、病は気からと言うでしょう」
「そんなことないよ。私は何時だって真剣に」

そこまで言って、半助は口をつぐんだ。仙蔵が真っ直ぐに半助を睨み付けている。そんな瞳で見られる理由が解らなくて、半助は眉を寄せ、やがて瞳を伏せる。すると、仙蔵は、ほら、と言った。

「簡単に理由(こたえ)を教えてもらえるなんて甘い考えを持っているから、あなたは何時も逃げ腰だ」

太陽を雲が覆い隠し、仙蔵の顔には複雑な陰影が落ちている。
仙蔵の言葉は、誘導ミサイルのように半助の心を的確に追う。
破壊するか、しないのか。それは仙蔵が決めるのではない。しかし、捨てるのか拾うのかを決めるのは確かに半助だった。

「ギリギリ手の届かない範囲に居て、ウジウジと思い悩んで、嘸かし自分が可愛いことでしょうよ」
「君だって、安全圏を確保しているじゃないか」

凡そ教師が生徒に投げる言葉ではないと解ったが、もう回収することは出来ない。仙蔵は一瞬だけ顔を強張らせた。
しかし半助が瞬きをしたその間にはもう、その葛藤を内に押し込めたか昇華したかしたようだった。何時もの、涼しげでありながら、何処か苛立たしげな表情。

「――正直、私はあなたが羨ましい。それほど近くにいながら何を恐れます。近すぎると恐れるのですか!」
「近すぎるから怖いのではない、決して交わらない感情のはずなのに、ふとした瞬間重なってしまうのが怖いのだ」
「惚気ですか」

吐き捨てるように言って、仙蔵は半助を睨め付け、そして長く息を吐いた。
妬ましげな視線は、粘るようなものではなく、どちらかといえば物理的な重力を伴うような、重くのし掛かって来るようなものだった。

「口で伝えなければならぬものが在ることをご存知でしょうに」
「胸の内に止めておかなければならないことが在ることを知っているだろうに」
「伝えずに心に溜めるだけ溜めてどうします。伝わらない言葉に如何程の価値が有りましょうか」

ムキになって半助と向き合う仙蔵に、半助は眉を下げた。
鳥は、自由なのではない、ただ必死なのだ。

「溢れた言葉はどうします、溜めて腐らせて、それでも己に還るなんてことはない。それは私が一番解っている!」
「……立花、」

あぁ、と半助は思う。こういう言い方をしたら仙蔵は嫌がるかも知れないが、半助と仙蔵は同じなのだ。
同じなのに、違うところが多すぎて同じにはとても見えない。それでも、同じなのだ。
半助は仙蔵の口許を見る。一文字に引き結ばれた唇は、決意を表したように頑なで美しい。

「…叶わなくても、かい。伝えることで相手を傷付けても、君は」
「伝えます」

いつの間にか、目の前には学校の門があった。
立花は歩調を緩めて半助の隣に立つ。その視線は、ひたと前に向けられていた。
おはよう、と聞き慣れた声が耳に届く。無意識に拾ってしまうようになった声だ。間違いようがない、フェンス越しにたっているのは、半助の想い人だ。入ってくる生徒たちに笑顔で対応している。そんなことが、いとおしい。

「伝えますとも。それで傷付くとしても、何もしないで悶々と過ごすよりもよっぽど良い。私にも、相手にも」

おはようございます、と挨拶をしながら門を抜けた隈の酷い潮江文次郎を認めて、仙蔵は一度足を止めた。それから、駆け出す。

「あなたはやはり自分が傷付くのが怖いだけだ。私はあなたを見ていると苛々する」

仙蔵の背を見送って、半助は仙蔵の言葉を反芻した。自分が傷付くのが怖いだけ、か。結局はそうなのかも知れない。
あの人は優しい人だから、きっと半助の為にたくさん悩んで、もしかしたら流されてくれてしまうかも知れない。しかしそのあと、いつか捨てられる日がやって来るのが怖いのだ。与えられるであろう幸せよりも、失う恐怖が先にたって、半助は動き出せないでいる。
情けないなぁ、と半助は小さく呟いた。仙蔵が腹をたてるのも解る気がする。
半助はきゅうと唇を噛むと、真っ直ぐ前を見て歩き出した。程無くして、半助を見付けた伝蔵が笑みを浮かべて挨拶を述べる。

「おはようございます、山田先生」

にこり、といい人のする笑みを浮かべて、半助は伝蔵の隣に立った。遠くに、校舎に入ろうとしている仙蔵と文次郎の姿が見える。
半助は拳を握り、唇を濡らした。伝蔵を見て、躊躇う口を無理矢理抉じ開ける。

「…山田、先生」
「なんです?」

屈託ない笑みだ。慈しむような、瞳。

「――…今日も、良い天気ですねぇ」
「おお、そうですな。まったく、その通りで」

どうしても言えない自分に一番腹をたてているのは半助自身だ。飲み込んだ言葉は分解することなく腹の底に重く沈殿していく。
背に当てられた手があたたかい。心がほどけるような気がして、半助はゆっくりと瞬いた。じわりと滲んだ視界に、気付かないふりをした。










*
(何時も何かを誤魔化しながら生きている)
(もう、疲れたんだよって、誰に言えるわけでもなく)
(また繰り返して)


唇を噛むのは(うちの)半助の癖。うちの片想い組(笑
仙蔵は伝えることが出来るけど、凄く勇気がいるし、タイミングもあるし、結局は半助と同じで言えない人。








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あきゅろす。
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