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或る人の虚無




わたしには、わからないのです。

男は確かにそういったのだ。
何が解らないというのだ、とワシはいう。
そうしたら、あなたが、せかいが、ひいてはじぶんが、と。
彼はまるで陽炎のようにゆらりと、水鏡のように不透明に、嗤った。
解らないのか、自分が。問いかけると、男はええ、とうなずいた。

わからないのです、じぶんが。
じぶんがわからないのであなたのこともせかいのことも、なぁんにも、りかいできない。

それは知ると言うことをしていないからではないのか。
いいえ、と男は首を横に振る。

けむりをつかむようにてごたえがなく、どのいろにもそまりそうなほどむしょくとうめいなのです。
なのにほんとうはどのいろにもそまらないほどつよくいろがついている。
せかいとはそういうものなのでしょうか。

それはお前ががそうだからか?その応えは、ない。
お前が知ることを恐れているからではないのか。
少し口調を荒げたワシを、男はただ見つめていた。
みつめるというほどには感情がない瞳は、まるで孔だ。
ぽっかりと黒い孔が開いていて、それを見つめているのはワシの方ではないのか。

わたしは、と男が口を開いた。
ぽかりと孔が増えた。
時折見える赤が、印象的だ。

わたしはたしかにしることをおそれているかもしれません。
どうしたってわたしののぞんだとおりにこのよのなかはうごいてくれないんだもの。
でも、あなただって。

急に手を掴まれて、驚いて視線をずらせば、そこには男の手があっただけだった。
深い暗闇に引きずり込まれそうになったのだと伝えたら男はどんな表情をするだろうか。

あなただって、わたしにつたえることをおそれているではありませんか。

男の孔が深くなったような気がして視線を戻せば、ぽっかりと孔が開いていたはずの場所には、眼球が二つ、あった。
それはまっすぐにワシを見て、まるで責めるように細められている。
若造が、と悪態をついた。

ワシが、何を恐れる必要がある。
それに男は目を丸く見開き、次いでけらけらと声を立てて笑った。
不快になりその手を払えば、しょ気た様に肩を落とす。

おそれているではありませんか。

縋り付くような瞳だったらどれほどよかっただろう。
しかし男の瞳はどこか勝気で、諦念の溢れた漆黒の闇を湛えていた。
その瞳はどういうわけかワシを焦らせる。
嫌な汗が背筋を伝う。

「あなたは、私に死刑判決をくだすのを恐れているのです」

にこりと男は笑った。ワシは男の名を音にすることができなかった。
男はいつの間にか、確かに其処にいるのに、其処には居ない存在になっていた。









或る人の虚無(伝+半)
前にオリジナルで書いたのをサルベージ。



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