薔薇が赤く染まるまで
何処となく漂う違和感に辟易したように溜息を吐いた。探るような注意深いものではないがそれとなく視線を廻らせて見てもその正体は掴めないまま、結局己の周りには違和感が付き纏ったままだ。何なのだろう、意識しないように努めれば努めるほどそちらに気をとられて何も手につかなくなってしまう。それほど大層なものではないはずなのに、そんなものに気をとられる自分が嫌だった。
大きく溜息を吐いて、体を伸ばす。結局坂本はそれに"無気力"と名をつけた。名をつけてしまえば、何てことはない。ただ己のやる気のなさに、また辟易することになっただけだった。
「スランプ?」
急にはっきりと感じとれるようになった気配と重なって聞こえた声に、坂本はゆっくりと顔を上げた。
開け放たれた窓から身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んでいたのは、フランシスだ。
癖のある少し長めのブロンドが光に曝されて白く光る。悪戯に、によによとフランシスが笑えば、窓から侵入した風が机に無造作に広げられたプリントを宙に舞わせる。坂本は大きく息を吐いた。
「そうなのかね」
「…何だよテンション低いな」
「スランプだからね―」
はあ、とこれ見よがしに溜め息を吐けば、フランシスは器用に片眉を上げてみせた。坂本はその整った容姿を眺めながら、黙ってればモテるだろうに、と失礼なことを思う。
「溜め息の元凶はどうしたよ?お兄さん、あの子が居ると思ったからお前のところに来たんだよ?
これじゃ"骨折り損のくたびれ儲け"じゃないか」
「覚えたての言葉を使いたがるなんて子どもみたいだ」
「煩い」
ムッとしたような表情に、坂本は漸く仏頂面を解いて淡く微笑んだ。それだけの行為なのに、部屋に張りつめていた空気が和らぐのが解り、フランシスも知らずの内に肩に入れていた力を抜く。
此処は開かれたカフェ・レストランであり、あの狭く白く濁った空気の澱む坂本の研究室ではない。しかし今、確かに此処は坂本のテリトリーだった。静かだが重く、滞った空気が此処に足を運ぶことを躊躇わせる。はっきりとしない遠回しの拒絶が、このカフェを取り巻いているのだ。
まったく迷惑なことである。
「笑ってろよ、アンタはただでさえ近より難いんだから」
「大きなお世話だ変態教師」
ツンとそっぽを向いた坂本が彼の教え子に似ている気がして、フランシスは苦笑した。
そして思い出したことを頭に、そういえば、と続ける。
「タキヤシャちゃんは踊ってくれないのかねぇ」
「またその話か」
嫌そうに顔を歪めて、坂本はイスの背もたれにもたれかかる。研究室のイスと違い、バネのきいていない木のイスは、オシャレだが背中が痛い。デザインよりも実用性だな、とひっそりと思う。
まぁ、美しいにこしたことはないのだが。
「本人に言ってくれ」
「だって聞く耳持たないんだもん。お兄さん困っちゃう」
だからさ、お前が伝えてくれよ。寧ろ踊るよう頼んでよ、とフランシスが請うが、坂本は良い顔をしない。元々、間違いを正す以外の無理強いは嫌いなのだ。中間に立つことだって、得意なわけではない。ただ、何故かそうされる場合が多いが。
「茂くんか、アルフレッドに頼めば早いんじゃないか?」
妥協案をだせば、フランシスはブンブンと頭を横に振る。即却下されて、良い気はしないが、次の言葉に納得せざるを得なかった。
「見返りに何を請求されることか!!それに絶っっ対お前も巻き込まれるぞ!!!」
それはごめんだ。強く思う。ただでさえ今やらなければならないことが多いのだ。これ以上、しかも不必要な厄介事を抱え込む余裕はない。
「パキータ、ねぇ」
坂本は何時か何処かで誰かから聞いた内容を思い出そうと瞼を閉じた。
確か、舞台はフランス、ナポレオンの時代の話であったはずだ。軍将校に一目惚れをした、田舎娘の身分を気にした、ハッピーエンドの、主人公パキータの恋の物語。
「過去の栄光に浸るなよ」
「そんなんじゃねぇけど、いいじゃん。
華やかな時代の泥々した、慎ましい、それでいて幸せな話」
見たいんだよ。フランシスは優しく微笑む。
「演技でも、人の幸せそうな顔は、いい。
それを見て、また幸せになれる人が居るからな」
坂本は何も言わずに、ただ視線を飛んでしまい床に落ちた書類に向けた。思案するような、そんな表情をし、結局何も言わずにまたフランシスに視線を戻す。
フランシスは微笑んだまま、小さなランチボックスを坂本に差し出した。甘いが、良い香りに、思わず手を伸ばす。
「タキヤシャちゃんにあげようと思ったんだけど、お前にやるよ。
俺が作ったんだから味は大丈夫、しかもお前でも食べられるから」
によによと独特の笑い顔で、フランシスはウインクした。そのノリは細目の男を彷彿させる。
挟まれたくないな、とどこか遠くで思う。
「…メルシー」
「違う違う、Merci。はい、続けて、Merci Beaucoup.」
「………Je vous remercie.」
丁寧に礼を返せば、可愛くないヤツ、と返される。可愛いと言われるよりはマシだな、と冷静に判断して、坂本は断りもなくランチボックスを開ける。中にはマフィンと、様々な形のクッキーが入っていた。顔に似合わず可愛らしいモノを作るものだな。ハート型のクッキーを摘まみ持ち上げる。窓の向こうに、もうフランシスはいなかった。
「ありがと、な」
口に入れたクッキーはほろ苦く、同時に甘い。
別に餌付けされたわけではないが、一度くらいは交渉してやってもいいかも知れないな。
ぼんやりと浮かぶ雲を眺めながら、坂本はもう一つクッキーを口に放り込んだ。