小説
世界でなにより××しい(後)



 当時に比べれば容色に老いが加わったけれど、その玲瓏な声はいつまでも美しいままだ。
 全面が魔石で造られた規格外の術式の間は薄暗いが、直に差し込む黎明の光が満ちるだろう。
 ヴィオレの謳う呪歌は朗々と響き、術式に明るくないグレンであっても魔力が動いているのを感じる。
 マシェリは先程カフスピアスを外され、いまは眠るように瞼を閉ざして大切に置かれている。
 もう、あの少女人形が以前のように話し、動くことはないのだ。
 グレンは懐かしい記憶を思い起こす。
 この世界には存在しない迷宮、その深層で見つけたのはいい歳をして四つん這いで泣きじゃくる男。
 常識外れの「魔法使い」はグレンの隣へぴたりと当て嵌まり、相棒と互いに認め、許し合った。
 ヴィオレの呪歌に聴き入り、閉ざしそうになる瞼をグレンはこじ開ける。
 歌い続け、謳い続ける毎に、いいや、そうでなくても。この数年はヴィオレにとって常に苦痛があっただろう。毎日、毎秒、魔力に己を焼かれて、ふとすれば肉体が崩壊しそうになるのを保ち続けていたことをグレンは知っている。
 この強情で矜持高い相棒は意地でも平気なように振る舞っていたけれど、グレンの渡した欠片も甘くないチョコレートを甘いと言ってしまったのは油断ではなく自分になら知られても構わないと思う部分があったからだろう。グレンは自惚れとはちらりとも考えない。
 魔力に反応してか、濃い紫の目が明滅している様をグレンは美しいと思う。
 そうだ。
 ひとよりも欠けた美しさへの機微。グレンが思い浮かべる、納得できる、理解のいく美しさというものはヴィオレの姿に多く重なったのだ。
 寿命を蝕むことになろうとも愛しい女の生きる世界を護るために、その生涯を迷うことなく駆け抜けた男。
 訪れる足音に耳をそばだてながら怯えず、限界を前にして狂乱せず、見せたのは相棒への謝意だった。
 この世界へ来る直前に、ヴィオレはグレンへ告げていたのだ。
 ――私はそなたより先に逝くぞ。
 前提だ。
 いまこの瞬間は前提だ。
 それなのに、ヴィオレは詫びるのだ。
 これからヴィオレがグレンへ預けるものは軟な双肩では潰れるほどに重いだろう。それでも、と望むことをヴィオレは詫びる。
 謝罪と懇願の音に、まったく別の感情を乗せながら。

「それでいい」

 ヴィオレが望み、あらむ限り伸ばした手をグレンは掴む。

「それだからいい」

 唯一無二、隣を歩く男が全身全霊で己の人生を望むのなら、グレンは差し出そう。
 いいや、そも相棒と許し合った瞬間から、互いは己の半分も同然だったのだ。尚更に、グレンの受諾は当然であった。
 いつの間にか金色の光が彼方より注がれ、空はさあ、と音を立てて朝を迎え始める。
 薄絹脱いだように、昨日から今日が生まれた。
 ヴィオレの呪歌が止む。

「……そなたでも、左様な顔をするのだな」
「どんな顔だよ」
「言えば、機嫌を損ねかねぬ故にやめておこう」

 微笑するヴィオレを見て、グレンは一秒に満たない時間瞼を閉ざす。あれほど抵抗していた瞼はあっさりと視界を遮り、しかし再び開けばもとのように現実を映し出すことに躊躇しない。
 眩しい朝日に満ちる部屋は魔石が魔力を増幅させている影響かきらきらと光が散っているように見えるが、グレンの前に立つヴィオレの輪郭が光に溶け始めているのは錯覚でもなんでもないのだろう。

「そなたが後悔などしておらぬのは承知だが……この世界はそなたにとって好いものであっただろうか」
「ああ」
「……それは、重畳ぞ」

 ヴィオレの手が伸びて温度のない手のひらがグレンの両頬を包み、近くから濃い紫の目が深い緑の目を覗き込む。

「グレン……私の主人を守ってくれ。強く、靭やかで、情が深い不器用な……大切な、たいせつな主人なのだ」

 頬を包む片方の手に、グレンは自分の手を重ねる。
 グレンの体温さえ、もうヴィオレには届いていないだろうけれど、構わずグレンは握り締めた。

「ああ、分かった」

 ヴィオレの睫毛が震える。

「もう一つだけ、まけてくれぬか」
「図々しい野郎だな、早く言え」
「わらえよ」
「あ?」

 朝日のなかに輪郭を溶かしながらヴィオレこそがわらった。
 全て、なにもかも、自身の人生で大切なありったけをグレンへと託すヴィオレは、少しの寂寥も感じていないかのようにわらっている。

「わらえよ、グレン。最後ぞ、これきりぞ。もう、次を望めぬのだから、わらえよ」

 目元をなぞったヴィオレの親指に、グレンは「わらえ」という望みの裏にある言葉へ気づいた。
 グレンの足元で鳴るごく小さな音は、ヴィオレと違ってそのまま痕跡を残し続ける。

「……お前があの世界に来て、俺の隣に在ったこと、俺が最後までお前の隣に在ること、そのことが俺は――」


 きっと、なによりも誇らしかった。


「わたしのあいぼう」

 その言葉は今まで聴いたどの呪歌よりも妙なる調べとなって、グレンの鼓膜を叩く。
 ほんの僅か踵を浮かせたヴィオレの唇が左目へと寄せられ、グレンは閉じたくもない瞼を閉じた。
 温度のない手とは違い、その唇のなんと熱いことだろう。
 足元に広がる魔法陣、一斉に発動する術式によって魔力が爆ぜる。
 ゆるりゆるりと左目から自身のなかへ何かが溶け込んでいくのをグレンは受け止め続けた。
 握り締めた片手が徐々に朧気になっても、無意識に抱き寄せた体が痩躯を包む裾引き外套を残して感触薄くなっても、グレンは抵抗も制止も何一つしないまま受け入れる。
 熱は増し、酷い頭痛と血管を引き裂きながら何かが全身に巡っているような感覚に目眩がするけれど、それよりもグレンは手の中にある感触だけに集中した。

「うめき声くらい上げぬか、ばかめ」
「そんなもん誰が上げるか、ばかが」

 小さな笑い声一つ、左目の熱が消える。
 痛みを無視して開いた瞼、濃い紫の目が弓なりになるのを見た。
 手の中の感触が消える。
 ばさりと音を立て、グレンの腕に裾引き外套が引っかかった。
 足元に落ちるのは二つ重なる星のカフスピアス。
 耳で聞く世界は静かで、魔力で感じる世界は騒々しい。
 グレンは無言で鏡のように反射する一部の壁に近づき、己の顔を覗き込んだ。
 相棒の望みに遅れて、グレンはわらう。

「じゃ、行くか――相棒」

 グレンはカフスピアスを拾い、無造作に耳朶へ穴を穿ちながら扉へ足を向ける。
 途中、少女人形を回収して部屋を出るグレンは一度も振り返らない。
 振り返らなくては見えないものなど、自身の後ろに過ぎ去るものなど――
「消え」「失せた」ものなど、在りはしないのだから。

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あきゅろす。
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