小説
世界でなにより××しい(前)〈GV〉
・帰還後



 足音は既に聞こえていた。
 術式に頼らなくてはならなくなった味覚や、体感温度。
 動き方、動かし方に気を遣わなければ肉体という器から零れそうになる魔力をヴィオレは素知らぬ顔で保ち続けたけれど、ふと限界を感じたのだ。
 その朝はとても鮮やかな色に満ちていて、風の音色さえ機嫌の良い歌声であるかのように聴こえる。
 ヴィオレの心は早朝の湖面よりも尚静かだ。
 最善を尽くせたと断言するのは難しいが、出来得る限りの精一杯は常に果たした。
 既に懐かしさ帯びる記憶となった異世界転移、彼の世界より連れ帰った弟子は素晴らしく育ち、魔術師としても一人の女性としても立って歩く力を手にしている。彼女の騎士もまた、ヒトモドキとなりはしたがその弊害を退ける術は既に編み出し、弟子へと引き継がせているので問題ない。困難あれども、ふたりは手に手を取り合って乗り越えることができるだろう。
 ヴィオレが責任を負うべきこどもはもう十分に手を離れたのだ。
 微笑みながらヴィオレは着替えを済ませる。
 窮屈さなど忘れた詰襟の服の上、羽織るのはメイドが広げる年齢に相応しく当時と若干の意匠を変えた裾引き外套。登城せず、また外出の予定もないため別のものを用意しようとしたメイドに、ヴィオレは敢えてこれを持ってくるように言った。
 扇状に広がる裾を捌きながら歩き、ヴィオレは皇宮の見えるバルコニーへ出る。
 やはり空は青々としていて、どこまでも高い。眩いのに色はくっきりとしていて、遠くの皇宮もはっきりと見ることができた。

「グレンを呼んでくれ」

 振り向かぬまま控えていた使用人に一言命じ、ヴィオレは皇宮を真っ直ぐ見つめ続ける。
 彼処に御座すはいと尊き御方。泰平勝ち取った皇帝と、皇帝を支えた麗しの皇后。

「陛下」

 愛しい貴女、至上の主。
 幾千幾万の星のよう、いつまでも傍へ在りたかった。

「貴女の明日が約束されているのなら、私には何一つ憂うものなど有りはしないのです」

「魔法使いを騎士に持つ」皇后でなくなったとき、彼女へ降りかかるかもしれない災厄の一切を許せない。
 己がいれば防げる全てが、己がいないせいで起きるなどあってはならない。

「故に――そなたにねだろうと思うのだ、グレン」

 振り返ったヴィオレの前には気配もなくやってきたグレンが立っている。
 年齢を重ねても角の取れた丸みなどまるで現れなかったグレンの面は相変わらず厳しく、ヴィオレはよく「頑固爺の顔ぞ」と揶揄したものだ。その度に、グレンは「頑固なのはてめえだろうが」と呆れたのだけれど。
 突然呼ばれたグレンは渡してある転移方陣を使ったのだろう。普段であれば急ぎとも告げなかった呼び出しにグレンはそこまでしない。
 この世界で接した誰よりもヴィオレの機微に敏いグレンは、この数年間の間になにを見て、今日という日になにを察したのか。
 ヴィオレを見つめるグレンは厳しくも凪いだ緑の目をしていた。

「あれから二十年も経ったが、そなたへなんでも願えるという話は有効か?」
「聞くまでもねえだろ」
「そうよな」

 よかった、と呟きヴィオレはバルコニーから室内で戻る。並ぶようにグレンも続いた。
 グレンが見ている前で、ヴィオレは特に隠す様子もなく幾つもの重要な書類を作り、次々と執事や使用人に託していく。
 呼んだくせに数時間も放置するヴィオレをグレンは咎めず、常よりも饒舌なマシェリへ時折相槌を打ちながら集中作業の伴によく摘んでいたチョコレートを用意もしない彼を見つめ続けていた。

「――ああ、ようやく一段落ぞ」

 ヴィオレがほうと息を吐いたのは青空がすっかり群青に染まり、星と月が輝きだした頃。
 椅子に座ったまま一度も立ち上がらなかったグレンへ苦笑を向けて一転、ヴィオレは真顔になった。

「許せ」
「ああ」
「……許してくれ」
「ああ」

 何をとも問わず、グレンは頷く。
 繰り返される言葉に一切の否定も拒否もしないグレンに、ヴィオレの顔がくしゃりと歪んだ。

「赦してくれ……っ」

 膝から崩れ落ちそうになるヴィオレを、グレンは石像のように変わらぬ姿勢のまま座っていた椅子から立ち上がり、全盛期とまるで遜色のない力強い腕で以って支える。
 あまりにも軽かった。
 グレンでなくとも、幼い少女であっても容易く支えられるほどに、ヴィオレの体は軽かった。
 ぱたり、ぱたりと音を立てて落ちた涙が、染みこむ間もなく魔力に溶けて消えていく。
 グレンは軋むほどに奥歯を噛み締めそうになる顎をそれこそ渾身の力を以って解き、握りしめそうになる拳から力を抜いた。

「分かってる」

 腹の底から絞り出されたグレンの声に、ヴィオレは顔を歪める。伝う涙はとうとう顎から落ちた瞬間に溶けるようになった。

「分かってる、全部。なにもかも、だ。お前はしたいようにすりゃいい。それに俺が必要なら、幾らでも言えばいい。『ゆるせ』って言うなら幾らでも頷いてやる。それでいい、そういうお前が――いい」

 肯定はせずとも許容する。それはどこまでも、伸びた腕が届く限り、腕が伸ばされ望まれる限り。
 グレンがそうあってくれる男だと、ヴィオレは知っていた。
 二十年より前から、このずるいやりとりが来ることを分かっていた。
 回避をできずに迎えたとき、けれどヴィオレの中には謝意に勝る感情がある。
 自身を支えるグレンの腕へ添えたヴィオレの手からは温度が失われ、熱くも冷たくもない。
 はあ、と呼気の震えを一つの呼吸で正し、ヴィオレは手をひと振りして沈黙して椅子の上に掛けていたマシェリを引き寄せ、転移術式を発動させた。
 ぱたり、ぱたりと器から溢れる魔力が増えていく。
 決壊は間近であった。

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