小説
遠くまで響けよ歌声〈GV〉
・ヴィオレ没後
「――グレン」
城下を歩いていたグレンが自身を呼ばう声に振り返れば、すっかりと美しい女に育ったイルミナが外套の振り袖を揺らしながら駆けてきた。淑女として窘められる行動を彼女が好んで心許す相手の前で隠さないのは知っているが、グレンは若干眉を寄せてイルミナの行動を視線で咎める。
立ち止まっていたグレンに追いついたイルミナは誤魔化すように頬にかかった銀髪を耳にかけた。師匠と同じ仕草をすれば、その貝殻のような耳に花の形をしたカフスイヤリングが揺れる。
「こちらに帰っていたなら寄ってくれればいいと何度も言っているのに」
歩みを再開したグレンに並びながらイルミナはつん、と唇を尖らせた。
「別に用はねえからな。城にいりゃ会うこともあるだろ」
「城で会うのではゆっくり話もできないでしょう。それに、私はもう少しのあいだ登城できないのだから」
グレンはフェリシテの護衛として、あるいは国防のために。
イルミナはダブルペンタグラムの弟子として、現役最優の魔術師として。
それぞれの立場、役目を負っている最中では交わす言葉も短いものにしかならない。
それでグレンは一向に構わないのだが、幼い頃から知るイルミナにとってはそうではないのだ。まして、グレンはこの世界に二人しかいないイルミナの同郷でもある。
歳を重ねても変わらないグレンの乾いた対人意識にため息をひとつ、イルミナは表情を変えてグレンに移動を促した。
断るのは簡単だが、薄紫の目の強い輝きにグレンは口を噤み、グレンがついてくることを疑わないイルミナの背中を追いかける。
「……先日、ようやくお師匠の呪歌を一部だけ耳に覚えられたのじゃ」
イルミナに連れてこられたのは、カスタニエの城下を一望できる小高い丘。青い草花がさやさやと風に揺られるのに合わせ、イルミナの銀髪も舞っている。
その髪をそっと押さえながら、イルミナは懐かしい口調で言った。
呪歌は固有魔力を言語化し、固有魔力の波に合わせた音に乗せたものだ。
他者にその言語は聴き取れず、音色を口ずさんでも他者の固有魔力として動かすことはできない。
イルミナの耳が覚えたというのは、正確には呪歌ではなく、呪歌と同じ調べを持つただの歌である。それだけでもとんでもないことなのだけれど。
「妾はお師匠のように多彩に呪歌を操ることはできなんだし、ましてやお師匠の呪歌を再現など不可能とは承知だけれど、それでも覚えていて……音を口にすることができた」
呼吸をひとつ。
グレンの耳から薄れることを知らない声とはまるで違う女の声が、同じではないけれど、よく似ている、聴けば知っていると言える歌を唄う。
その歌、呪歌は本来もっと長いものだけれど、一部と言っていたのは本当のようでイルミナの声は一節のみを唄って終わった。
「この部分を唄う……謳うお師匠は幸せそうで、誇らしそうであった」
イルミナへ呪歌の講義をしたときに用いられた歌だから、彼女は師匠がどんな思いを込めて謳っているのか、その表情から汲みとることができた。
だから、知りたいと思う。
薄紫の目が、緑と濃い紫を見上げる。
「のう、グレン。この歌は、なんと謳っているのじゃ?」
他者には決して聞き取ることのできない呪歌。
グレンはもう、ヴィオレがなにを謳っていたのか、どう歌っているのか、全て理解している。
自分のなかに流れ、巡る魔力が音になり、言葉になり、グレンへ語るのだ。
「――あなたの生きる今日を護ること、それが私の喜び」
貴女の生きる今日を護ること
それが私の喜び
貴女の微笑む明日へ繋ぐこと
それが私の願い
魔法使いダブルペンタグラムは守護、防御をこそ最大の得手としていた。
かつてカスタニエ国土を墜ちる星より守り抜いたという絶対防御魔法を支えるために用いられた呪歌は、唯々、彼が愛するひとへの幸いを謳っている。
血管に高圧電流流され、頭のなか、内臓の一つひとつが繰り返し爆ぜ続けるような他に絶無の苦悶のなか、彼はひたすらに謳い続けた。
死ぬと思われていた。
ダブルペンタグラムは、そこで使い潰されると目されていた。
けれど、主は当然のように命じ、騎士は誇らしそうに死地へ向かったのだ。
それこそが喜びで、願いだったから。
「そうか……のう、グレン」
イルミナは丘からよく見える白亜の城を真っ直ぐに見つめ、ぽつ、とどこか恐れを滲ませながら囁く。
「寂しくは、ないか?」
グレンは横目でイルミナを見下ろす。
唯一無二、隣を歩くもの。
もう、並ぶ姿は見えない。
そして、そのひとが最初から最期まで気にかけたのは至上に掲げた主人。
グレンは鼻で笑った。
「俺の知るあいつは……いや、ヴィオレフォンセっていう人間は、あの女至上主義で、あの女に関するものが何一つ欠けてもあいつになり得ない。あいつが最期の最後まであいつだったことに喜びはしても、そんな薄ら寒い感情は湧かねえよ。
俺はその瞬間を全部覚えてる。言葉も、表情も、感触が解けていく秒単位まで、全部覚えてる」
なによりも――
「俺はあいつを失くしていない」
横を見ても誰もいない。
けれど、グレン・ヴァーミリオンは最後までヴィオレフォンセ・ニュイブランシュ=エタンセルの隣に存在し、今も視線をやった鏡に映る濃い紫は、緑の隣へ常に在る。
その場所を許し合ったのは、当たり前に並び合ったのは、過去にも未来にもただお互いが一人。誰かが入れ替わることは、永遠にあり得ない。
時間に流されまいと抗うこともせず、過去にしがみついて停滞することもなく、グレンはヴィオレと並んで前へ歩き続ける。
「で、あるか……安心したのじゃ。グレンが自棄になったらジルベルの胃に穴が空くからの。
のう、皇后陛下の騎士志願に目の上のたんこぶ扱いされておるが大丈夫か?」
「俺はあの女の私的な護衛だからな、騎士云々はお門違いだ」
「なれば、お認めにならないだろうが皇后陛下に新しい騎士が認められても、グレンは構わないと言えるのか」
グレンは凶悪に哂い、イルミナに背を向ける。揺れた二重五芒星のカフスピアスが星の瞬きのように光った。
「『騎士』の代わりにあの女を守ってる護衛が必要ないくらい強けりゃな」
「あんま体冷やすなよ」と言いおいて去っていくグレンの背中を見送り、イルミナはくすくすと鈴を転がすように笑う。
「お師匠の場所を誰かに渡す気など、欠片もないではないか」
イルミナは最後に城を見て、自らも帰ろうと体の向きを変えようとする。だが、それより早く聞こえたのは自らを呼ばい、心配に上擦る声。
丘を上って来る黒髪が見えればすぐに顔も覗き、イルミナは大きく手を振って自らの居場所を知らせた。
「リム!」
自らも駆け寄ろうとしたイルミナなどお見通しなのだろう、張り上げた声が制止を促す。
大人しく従ったイルミナの前にリムがたどり着くのはあっという間で、大して呼吸を乱してもいないのに彼は大げさに息を吐き出した。
「姿が見えないから心配した……」
「見えなくても、何処にいるかは分かるじゃない」
「それでもだ……今日は風もあったし」
「だから、ほら。ちゃんと装備よ。お師匠の手も加わっているから雪山にも行けるのを知っているでしょう?」
「そういうことじゃなくて……ああ、いいや。無事なら、それでいいんだ」
薄紅の目に安堵を滲ませたリムにすっぽりと腕のなかへ抱きしめられ、イルミナは笑いながら宥めるようにリムの後ろへ回した手でとんとんと広い背中を叩く。優しい仕草は心音と同じ速さで繰り返される。
「もう暫くの間だけでも大人しくしていてほしい。今は普通の体じゃないんだから……」
「大げさね、病気じゃないのに」
「……男には分からないから、余計に心配なんだよ」
くふ、と漏れる笑いをかみ殺し、イルミナは顔を上げた。
「ごめんなさい。不調になれば診ることができるけど、リムの心臓を壊したくないから大人しくしているわ」
「そうしてくれ、ください」
「はあい。ふふふ! ねえ、リム。帰ろう。私たちの家に、帰ろう」
リムはようやく表情を緩め、イルミナの手をとって歩き出す。
その歩調はゆっくりと、丘を下る道ではイルミナを始終気遣いながら。
いつの間にかゆっくりと傾く夕陽に背中を照らされ、イルミナは前に伸びた影を見て目を細める。
もう少し、もう暫くしたら。
この二つの影の間にもうひとつ加わるのだ。
そうしたら、とイルミナは後ろを振り返る。
(グレン、そなたもきちんと抱いてあげてくれ)
師匠ならば、ヴィオレならば喜び、そうしてくれたはずなのだから。
「前を向かないと危ない」
「リムがいるから、大丈夫だわ」
「……当然だ」
照れてぶっきらぼうな物言いになり、それを気にした様子で窺ってくるリムにイルミナは名前そのままに眩い笑みを向ける。
安心したようにリムも表情を緩め、イルミナの手を先ほどよりも若干強く握り返した。
この暫く後、かつて皇后より魔法使いダブルペンタグラムへ下賜され、没後奉還された少女人形がダブルペンタグラムの弟子へ再び下賜されることになる。
――銀の髪とローズパールの目を持つ少女人形は、そのときの慶事にまるで誂えたかのようであった。
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