小説
されどと続けて



 響の事情からすれば、奇跡的に深刻な事態は避けられた。
 今にも倒れそうな顔で駆けつけた昌太郎に、響が運ばれた先の院長である鳴海は態々応対し、説明してくれた。

「俺が、俺がもっと色々考えてればよかったんです。すみません、ほんとうに、申し訳ありませんでした」

 涙を流しながら頭を下げる昌太郎に、鳴海は幾分心労を覗かせた顔を横に振った。

「なにもかも自分のせい、なんていうのはね、世界が自分中心で動いてるって言っているようなものだよ。そんな自己中心的な考えは棄てなさい」
「でも……」
「あの子のじじいとしてきみに何かを要求するとしたら、それはあの子の傍にいてやってくれ。これに限る。
 ようやく退院できたっていうのに、また暫く入院なんてあんまりだろう……」

 身内である鳴海のほうが辛いだろうに、昌太郎を責める事もせずにそう言われ、昌太郎は唇を噛んで頷いた。

「ほんとうに、きみの所為ではないんだよ」

 響の病室を教えた鳴海は、駆け出したいのを堪えて早足で向かう昌太郎の背に、苦笑いした。



 寝ている可能性も考慮して、ノックをせずそっとドアを開いた昌太郎は、ベッドに起き上がってぼんやりと窓の外を眺める響に安堵の息を落とした。
 開いたドアをいまさらにノックすれば、振り向いた響がうれしそうな顔をする。

「会長、来てくださったんですね」
「ああ……具合は?」
「脳震盪起こして、あとは打撲でしょうか」

「病院搬送は大げさですよね」と響は言うが、そんなことないと昌太郎は首を振る。
 思った以上に元気そうな様子に安心しながら、昌太郎はベッド脇の椅子に腰掛けた。

「会長、学園の方は……」
「……大体やること終わった頃に知らせが来たからな」
「そうですか。よかった、お仕事の邪魔にならなくて」

 ほっとした顔の響に、昌太郎は引っ込んだ涙がまた滲むのを堪える。自分は決して泣き虫ではなかったはずなのに、響や鳴海の前では泣いてばかりのような気がしてならない。

「大体の話は風紀がまとめて、それを聞いた」
「はい」
「ごめんな」
「……なぜ?」
「あいつが俺に執着してたの分かってたはずなのに、俺はなんにも考えてなかった……」

 なんでも自分のせいとするのはやめろ。
 鳴海はそう言ってくれたが、昌太郎は自分を責めずにはいられない。
 自分がもっと周囲に目を向けて、物事を考えて……そもそも、自分が響と接触しようなどと考えなければ、響はこんな目に合わなかったのではないか。
 今回のことはほんとうに奇跡だ。階段から落ちて、脳震盪は起こしたものの、打撲以外に後遺症などはない。運が悪ければ、そのまま死んでいたかもしれなかったのに。
 昌太郎は怖かった。
 響が死んでしまうかもしれないという恐怖に、今だって体が震えそうになっている。
 まだまだ響のことは知らないことだらけで、これから知っていきたいと思い、一緒にいたいと思い、見せたいものや話したいことだってたくさんあるのだ。それが、全て亡くしてしまうかもしれなかった。
 それくらいならば、自分と関わらずとも生きてくれていた方が何万倍もいい。

「……会長、自分を責めず、後悔もしない。そう、お願いしたはずですよ」
「……無理だ……」
「僕は生きています。生きている限りは、会長のお傍にいたいんです……。
 会長がいらないと仰るなら、すぐにでも消えますが、そうでないならお願いです。お傍に置いてください」

 ひんやりと冷たい手が、昌太郎の頬に伸ばされた。
 ひたり、と頬に這わされた手に昌太郎は無意識に擦り寄り、そのまま自分の手を重ねる。

「ごめんな」
「会長……」
「ごめん、ほんとうにごめん、お前のことが好きだ。どうしてか分からないくらい好きで、好きなんだよ」

 自分が響をいらないと言うことなどありえない。
 いっそ、響からいらないと言ってくれれば、馬鹿な自分から響を遠ざけられるのに、これ以上、響が傷つくことなどないのに、響は自分から来てしまう。
 それが泣きたくなるくらい悲しくて、うれしい。
 昌太郎は頬から体温がうつった響の手をそっと口元に持ってきて、その指先に小さく口付けた。

「頼む。もう、こんなことは絶対に起こさないから、俺の傍にいてくれ」

 響と同じ懇願を返す昌太郎に、一瞬だけ響は目をぼんやりさせたが、次いでその美貌を極上の笑顔で飾った。
 どの美術館に行ったとしても得られないであろう感動すら覚えるそれを前に、昌太郎はこの場に「鳴々」がないことを惜しんだ。
 第一印象は辛夷、常は紅葉、満開の笑顔には咲き誇る薔薇が相応しい絶世の佳人が、昌太郎の腕のなかにそっとその身体を預けた。

「愛しています」

 口付けにじんと痺れる指を絡めながら、響は昌太郎の耳元に囁き、昌太郎は真っ赤になった顔を響きの肩に埋める。
 ぎゅっと絡めた手まで熱い気がして、体温の低い響にはすぐに分かってしまうだろうと、それも恥ずかしくて熱が冷めない。

「お前、それは反則だ……!」

 くぐもった昌太郎の声に、響が声を出さずに笑っているのが小刻みの揺れで分かった。

「たぶん、ずっと、言いたかったんです」

 懐かしむような声色に、昌太郎は改めて自分と響の想い続けた時間の差を知る。
 こればかりは、きっと埋まることがない。
 ならば、昌太郎はそれを補って余りあるものを響に捧げようと決める。

「俺も、愛している」

 誰よりなによりいつまでもなにがあっても。
 響は昌太郎の言葉に鼻の奥がツンとしたのを感じたが、細く息を吐き出すことで涙が流れることを堪えた。

 この言葉を聞いて、流したい涙ではなかったので。


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あきゅろす。
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