小説
同じ視野、違う目線(前)
・客とバイト



 天才と持て囃されることは齢五歳にして飽きた。
 求められるままに才能を発揮して、手を打って喜ぶ周囲にまるで猿回しの猿のようだと自覚してからやってられなくなったのだ。
 適度に適当にほどほどに。
 逆恨みされるほどの差を見せつけず、やっかみを受けるほどに相手へ合わせず、苛立ちを買わない程度にはてきぱきと。
 流されているようでいてその実どこまでも自分が思い描いた通りの速度で生きる日々のなかでも、久々津千里の才能は腐らないし錆びることもない。ただ、発揮されないまま他者の目に触れないところまで埋もれていくだけだ。
 そうして神童と謳われた過去など親さえ忘れた頃、千里は個人経営の喫茶店でバイトをしていた。
 せっせと真面目に働き、ときに不真面目な息抜きを密かに行い、店長が新メニューに悩めば気づかれないならそれまでの足がかりを何気なく零したり、客の好みを全て覚えてそれとなく飲食物に一手間加えたりと他者に知られぬところでちまちま才能の一部を放流させている。
 目立って役には立たないが、いてくれると少し便利という職場での立場は千里が望んだものだ。たまに「あんたは気が利くねえ」と常連客が千里の働きに気づくことがあり、千里は「そうでもないっすよ」と若者らしい砕けた態度で謙遜してみせる。
 彼も、そんな常連客の一人だった。
 いつも一人、曜日も時間帯もばらばらな日に現れる男はいつも一人で、どんなに席が空いていようとカウンター席を選んでいる。千里や他の店員が「広いお席が空いていますが」と伺っても首を振るので、以降千里は男にテーブル席を勧めない。
 男はいつでもスーツを着ていた。
 千里が喫茶店に勤めて二年半というバイトにしては長い期間のなか、男が喫茶店へやってくるようになって大体一年半。男はいつもスーツを着ている。暑い日も、寒い日も、生地を変えシャツを変え小物を変えてずっとスーツだ。
 見るからに上等なスーツはしかし、千里の知るどのブランドのものでもない。十中八九、ブランドとして名前を売りださず、世に知られていない職人によるカスタムメイドだと千里は考える。ブランド名というのはある種の安心材料だ。一定の信頼が約束されているからこそ人びとは求めるし、信頼に胡座をかいて質を落とせば凋落する。広く門戸を開かず、自分の手に負える範囲で最高の仕事を続ける職人は大変貴重だ。得てして己の仕事に自信と誇りを持っている職人は才能の安売りをしないため、気に入らないと思われればけんもほろろな対応をされる。一年半の間、男が着ていたスーツの数も種類も少なくない。豊かな懐を持っていることは明白だ。
 そんな男はカウンター席につくといつも書類仕事を始める。こういう客は珈琲一杯で長く居座るので店から嫌われるのだが、男は弁えたもので、仕事をしながらも注文したものを消費し、お代わりもせっせと行う。味わっていないわけではないことは、メニューを行き来する視線が迷ったように揺れ、前の注文とは違うものを選ぶことで伝わる。
 男は良いお客さんだった。
 そう思っているのは売上にほくほくする店側だけではない。
 線の細い男は志村立美の描く美人画のように目元がきりりとした美男で、埋もれた南天を透かす雪のように肌が白い。
 仕事に没頭していても背筋をしゃんとして、背もたれなどないカウンター席であっても男の背中がまっすぐに伸びているのが一目瞭然。僅かに俯かせた顔で書類に向かい、頬に落ちる睫毛の影を羨んだ女性客は一人ふたりの話ではない。この美しい男見たさに常連となった客もいるほどだ。
 店のカウンター内外から歓迎される男と千里が、注文伺いと挨拶以外の言葉を交わしたのは冬へ移りかける秋のこと。
 紅葉した落ち葉が濡れそぼる雨の日に、男は後ろへ流した黒髪とスーツの肩を湿らせて喫茶店へとやってきた。
 客の来店を真っ先に気づいたのは千里で、定番の「いらっしゃいませ」を言おうとした口は「タオルをお持ちします」に変わる。

「いえ、大したことありませんから。お店も湿らせない程度だと思いますし」
「大難は小難、小難は無難に。大したことないならタオル一つで何にもないに変わるっすよ」

 そのほうがお得でしょ、なんて茶化し、千里は男をカウンターへ促してからタオルを取りに行った。幸いにも店内は混んでいなかったので男曰くの大したことのない事柄にも向かうことができる。
 店長にざっと事情を話せば千里が予測していた通り「すぐに持って行きなさい」とタオルを三枚も四枚も寄越したので、畳んだままの三枚をカウンターテーブルに、一枚を広げて男に差し出した。

「足りないようでしたらこっちもどうぞ」
「ありがとうございます、ご親切痛み入ります」

 男が自然と音にする言葉に、千里は喫茶店のバイトへ寄越すには丁寧だなと思う。まして、千里はわざと少し崩した言葉遣いをしていたのだ。相手がその程度なら自分もこの程度で応じればいいだろうと考える人間は多い。
 男は育ちそのものが良いのだろう。
 それがどうして飛び抜けて売りにできるものがあるわけでもない喫茶店に通っているのか、男にとって都合のいい立地にでもあるのかと考えてしまうのは探りたいからではない。千里はなにかと考え事をやめることができない性分なのだ。しかし、考えに没頭したとしても体は器用に別のことをこなし、考え事とは別にそのことも把握している。今も、千里は男の人となりを考えながらスタッフルームから持ってきたハンガーを見せ、男に上着を掛けないかと提案していた。

「丁度カウンターの端ですからテーブルにかけておけば他のひとには見えませんし、そばにあれば安心だと思うんすけど」
「なにからなにまでありがとうございます」

 背の高い男の上着はテーブル席であれば床に擦れただろうが、カウンター席であればそういうこともない。
 恐縮したような苦笑で礼を述べる男に笑い返し、千里はハンガーに男の使わなかったタオルを被せてから男が差し出した上着を掛ける。
 カウンターテーブルにハンガーを下げた千里は顔を上げ、男がしげしげと自分を見ていることに驚いた。

「なにか?」
「いえ、失礼致しました。随分と丁寧な方だと思ったのです」

 それはあんたの口調や物腰だろうとは返さず、千里はハンガーのことかと視線をカウンターテーブルの下に向ける。態々タオルを使うことまで気を回す店員は多くないかもしれない。

「このほうがさっさと乾きますし」

 どうということもないことだ、と千里は笑いながら軽薄に手を振って「ご注文が決まったらどうぞ」の言葉を差し出し、カウンターの向こうへと戻る。
 帰り際にも千里へ丁寧な礼を述べた男が、来店する度に千里へひと声かけるようになったのはこれが切欠だ。
 雨の日の件から次に来店したとき「先日はありがとうございました」と言って男は店員全員で食べられる菓子を持ってきた。千里にだけ用意するのではないところに気遣いを感じ、礼を重ねる男に千里は「いやいや、気にしないでください」と返す。
 それからは短い挨拶をされる以外、以前と変わらぬ様子に戻り、千里も男も日々を過ごした。

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