小説
白夜先輩と菊春くん(前)
・後輩視点で先輩のこと



 屋上へ続く階段の途中、踊り場の窓を背中にそのひとはいる。
 手製のカバーをつけた本を持つのは骨の形がやや目立つ手。背中を丸めず、僅かに首を俯けて本の世界へ向けられていた眼差しが前触れなく上がった。

「やあ、菊春くん」

 文字を入れ替えてからかわれることのある名前も、彼に呼ばれると妙に文学的な響きを持ち、菊春は一瞬後まで聞き入ってしまい反応が遅れるのが常だった。

「今日は、なんの本を読んでいるんですか?」

 穏やかな顔が笑う。

「今日はね――」

 話す内容をしっかり聞きたくて、菊春は階段に足をかける。一歩々々近づく度、菊春の鼓動は病にかかってしまったように忙しなくなる。不機嫌そうと言われることの多い顔は赤くなっていないだろうか。菊春は心配だった。
 彼がおや、というようにまばたきをする。

「顔が赤いね、菊春くん」
「……日差しのせいです」

 舌打ちしたいのを我慢して、彼の向こうにある窓へ目を向ける。
 誤魔化せただろうか。敏いひとだけれど、同時にこちらに悟らせるひとではないから菊春には分からない。
 案の定、彼は「そう?」と首を傾げてみせた。



 うだるような夏の日、年々夏を実感する気温になるのは早くなり、夏休みにも遠いこの時期では冷房は稼働していなかった。少しでも涼を取りたくて、菊春は昼休みに教室を出て階段へ向かう。薄暗い階段は心持ち気温が低いような気がしたけれど、僅かに遠くなった分教室や廊下からの声が煩わしく感じる。
 それらから離れたくて階段を踏みしめていると、とうとう屋上手前まで来てしまった。
 しかも、そこには先客がいる。
 踊り場の窓の横に立っている彼は本を読んでいた。猫っ毛だろうか、ふわりとした色素の薄い髪は恐らく地毛だ。
 こんなにも近くに人間がいるというのに、どうしたことだろう。まるで霞のように彼の気配は静かで騒音からかけ離れた位置にいる。むしろ、菊春の存在のほうが気配煩いのではないかと心配になるほどで、その心配は当たっていたのか唐突に彼が顔を上げた。

「やあ、後輩くんかな?」
「……あなたが、三年生なら」
「じゃあ、後輩くんだ」

 ひとつ上の学年の彼を、菊春は知らない。勿論、先輩を全て知っているなんて思わないけれど、彼のように雰囲気のあるひとならば注目されてもおかしくないと思ったのだ。

「その手にあるのは昼食かい? 教室は暑いからね、他の場所を探す気持ちはよく分かる。でもこれ以上上へ行くと逆に暑いよ」

 饒舌で、愛想のいいひとなのだろうか。初めて会ったひとなのに、菊春は意外に思う。

「先輩は……」

 昼食を摂ったのだろうか。彼の手には本以外ない。昼休み始まってすぐに菊春はここへ来たから、食べ終わったというのなら余程の早食いだ。
 彼はにっこりと笑う。

「もうすぐ来る予定だよ」
「来る?」

 なんのことかと思っていると、下から階段を駆け上がってくる音がした。
 どんどん迫る足音はどこかの階で止まることなく、こちらへ向かってきて、やがて足音の主は姿を見せる。

「チバ……っ、おら、よ!」
「お疲れ様」

 一気に階段を上って菊春に目を向ける余裕もないのか、菊春よりもチバと呼ばれた彼よりも体格のいい恐らく三年生はぜいぜいと息を荒げながら購買の袋を彼へ突き出した。

「お前、教室にいろよ」
「だって、あそこ暑いでしょう」

 ぶつぶつと恐らく文句を言う三年生に、彼は「そんなに言うなら」となんてことのないよう切り出す。三年生がぎくり、と震えた。

「こんな貸しを作らなくて済むよう自習に励んだらいいんじゃないかしら。それとも、ぼくがノートを貸すのをやめようか」
「すんませんでした」
「納得したなら教室へお帰り。ご飯を食べる時間がなくなるよ」
「ういっす」

 踵を返す三年生が初めて菊春に気付き目を丸くさせたけど、にっと笑うと片手を上げただけで階段を下りていく。
 いまのやりとりから察するに、彼は勉強が危うい三年生にノートを貸すことで昼食を手に入れたのだ。
 案外、普通。
 普通のことなのに、どうしてか彼の手の中にある購買の袋も本と入れ替えるように取り出されたいちごジャムとマーガリンの挟まったコッペパンも、きらきらと輝いてみえる。

「あの」
「うん?」
「此処で、食べてもいいですか」

 ぺりり、と袋を開けて、コッペパンを少しだけ取り出した彼は笑顔で頷く。

「どうぞ、ごゆっくり」

 菊春は何処に座ろうか悩んだけれど、日差しが当たらない位置は必然的に彼のそばになった。「失礼します」と一言、近寄っても彼は不快な顔をしない。
 菊春は自身の昼食である弁当を取り出す。
 傷まないようにカリカリ梅を刻んだものが混ぜられたご飯は、この先きっと何度も目にするだろう。

「いいね、お弁当」
「え?」

 不意に彼が話しかけてきて、菊春はびっくりする。

「ぼくもね、普段はお弁当なんだよ。でも、勉強を教える代わりに昼食を奢ってもらうって……ちょっとやってみたい定番だろう?」

 機会があったから乗ってみた。
 くすくす笑う彼はお茶目なひとだ。

「楽しそう、ですね」

 なんと言っていいか分からず、結局菊春の口は気の利いた言葉ひとつひねり出せない。ありきたりなのか、いっそ相応しくないのかも分からない言葉に彼は「うん、こういうのもいいね」と言う。
 その横顔がとてもきれいに見えて、菊春は無意識に訊ねた。

「先輩の、お名前はなんですか?」

 まばたきを二回。
 彼は胸ポケットから洒落た万年筆と手帳を取り出して、手帳の一頁にさらさらと万年筆を走らせる。
 そっと差し出された手帳には「千羽白夜」と書かれている。

「せん……ちば、びゃくや先輩?」

 漫画に出てきそうな名前だと思った菊春に向かって、彼は首を振りながら「白夜」の部分に指を置く。

「この字は本来『はくや』と読むんだよ。だから、ぼくの名前もはくや。千羽白夜だよ」

 後輩くんの名前は? と問い返され、菊春も名乗った。
 確かめるように白夜が繰り返したとき、菊春は自分の名前が上等なものになったかのように感じる。

「樹菊春……――よろしく、菊春くん」

 蝉も地面から出ない、暑い日のことだった。

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あきゅろす。
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