小説
四話



 急であっても日々生徒の皆様方のために粉骨砕身、誠心誠意身を尽くす風紀委員長の肩書きにかかれば外出届など病院の面会簿よりもよっぽど薄っぺらい。
 興元持ちで素敵なレストランのディナーを楽しみ、直史はさてどう切り出そうかと考えながらペリエを飲む。
 正面にはひどく上機嫌な様子の興元が微笑みながら直史を見つめており、踏み込んだ会話もしやすいテーブルの位置上給仕が去ったのを見計らえば口を開くのは易い。

「あー……四枝?」
「興元と呼べよ」

 興元、興元ね、と口の中で繰り返し、いざ音にして呼びかければ変化は劇的。
 顔面偏差値の高い学園の中で目を肥やした面食いの直史をして尚惚れ惚れするような男前の顔面が、さっとばら色に染まったのだ。微笑がはにかみ笑顔に変わり、直史の目の前にいる興元は一瞬でFクラスのいつ爆発するとも知れぬ不発弾から恋するひとりの若者になる。

「……なんだ?」

 名前を呼んだだけでこれだけの変化を見せた興元に驚き言葉を失った直史へ、興元は続きを促した。
 直史は急激な喉の渇きを覚え、少し待て、と手のひらを興元へ向けてからペリエを一気に飲み干す。気の利く給仕係は視線で制した。

「興元、は……あー、なんだ……何故、俺を王子様とかいうおおよそ一般男子高生へ使うには問題……引っ掛かりのある呼称を選んだんだね?」

 理由もなく禁じても反発があることは百も承知。できればあまり突きたくないのだが、そうせざるを得ない状況であると己に言い聞かせた直史は問いかける。

「そうだな。別に王子様でなくともよかった」
「なら、なんで王子様にしたんですかねえ……」
「ヒーローって呼ぶと、不特定多数のためにあるみたいだろ?」

 王子様以外の候補はヒーローだったらしい。
 興元のなかでは一体どういった過程を経てそれらの呼称が浮かんだのだろうか。直史には計り知ることの出来ないなにか未知なるものが働いているのかもしれない。
 幸いというべきか、不幸と嘆くべきか、興元は自己完結して終わらせずに説明する意思があるようで、自身の中で整理しているのか言葉を選ぶように落とした視線を揺らしながらゆっくりと続ける。

「まず、俺は中等部の中頃から成長期で一気にガタイがよくなった。それ以前はインドア派で結構ひょろかったんだがな」
「ちょっと想像できませんね」
「後でアルバム見せ合いっこしようぜ。で、だ。俺に纏わる噂は当時からあったが、名前に関連付けられはしてもいざ『四枝興元』はどいつか、という話になると初対面の奴は俺と結びつかない。クラスの奴らも時々忘れてただろうな。通りかかったひょろいのってだけで『ジャンプしろよ』の合言葉はよく聞いたもんだ」
「ちょっと理解できませんね」
「名前出せばその瞬間は逃げられるだろうが、それは一時的なもんだと分かっていた。そういう奴らは段々考えるようになるはずだ。どんなに実家が物騒でも、いや、だからこそ手懐ければ便利だってな。狡猾になった奴らはなんでもやる。だったら、時々の災難を我慢したほうがいいんじゃねえかって思ってたよ」

 直史は複雑な顔になる。
 いま目の前にいる興元があまりにも鮮明だから想像が及ばないのだろう、堪えることを選んだ彼というのは違和感があった。
 しかし、興元は言葉にしないが、当時の彼は体格に内面も引き摺られる部分があったのかもしれない。そうでなくとも、細身の人間が反抗したところでその後を思えば身が竦んでもおかしくない。
 ジャンプしろと言われてチワワのように震える興元など、やはり直史には想像できないのだが。

「で、こっからが本題か? 塵も積もればってやつで段々鬱屈してたときにな、王子様が助けてくれた」
「……はイ?」

 直史の声が裏返る。
 実家がヤクザらしい、というものを元にした興元の噂は古くからあるけれど、興元がなにかをした、という噂は高等部に上がるのを前後して浮上していたはずだと長いこと風紀委員会に籍を置いている直史は思い出す。それ以前の興元に関する記憶など、それこそ噂しかない。本人と直接やり取りしたなどと、直史にはさっぱり分からない話であった。
 王子様などという呼称を用いる辺り、やはり電波と呼ばれる類かと直史はぐっと唇を結ぶ。

「……言っただろ? 俺はいまと大分体格が違ったんだ。あのときは名乗ることもしなかったし、俺と結びついてねえだろうよ」

 暫定電波は寛容であった。これが斜め後ろに捻れて踏み込んでいれば肉料理に使用したナイフで顔面狙われていたかもしれない。仕事の早い給仕はフラグを折っておいてくれたが。

「あのときもボランティアを強制されそうになっていたんだが、いきなり目の前にいたのが吹っ飛んでな。もう二人いたが、そいつらも吹っ飛んでな。なにがあったと呆然としてたら『おい、このボール空気抜けてんじゃんよー。全然跳ねねえんだけど。おら、跳べ』と言いながら更に蹴り上げる奴がいてな」
「やめてください」

 間違いなく己が言いそうな台詞、そしてやりそうな行動である。さも相手がボール役を務めないのが悪いとばかりに不満顔をする自身がまざまざと直史の脳裏に浮かぶ。
 しかし、やっていることは人助けだ。人助けのはずなのだ、と喉の奥が詰まるような気持ちで直史は興元に続きを促した。
 よほど当時の記憶が良いものであるのか、興元は表情を輝かせてきゅっと拳を握る。

「『ボールがいつの間に人間の社会に混じれる気になったんですかねえ』と言いながら一頻りカツアゲ野郎どもをボコったあと、ようやく振り向いたそいつは言ったんだ。
『自分より弱い奴はみんなボールだと思えば怖くねえよ?』ってな。そのときの笑顔は思い出すだけで心臓が破裂しそうだし、そのときの言葉は真実だった。ひょろいから難しかった抵抗も鍛えればどうってことはねえ。周囲が全部ボールに見えるの目指して、実際にサッカーボールにしてやって、ガタイもよくなっちまえばすごく過ごしやすくなった」

 直史は両手で顔を覆う。
 ざわりざわりと過去が這い寄ってきた。

「……つまり、なんだ。興元が噂だけの人間じゃなくなったのは……」
「王子様のおかげだ。お前が俺を助けてくれたのを切欠に、俺は虐げられる哀れないち生徒から脱不良のカモを果たしてFクラスの連中にさえ逆らうなと言われるほどの成長を遂げるというシンデレラストーリーを歩いてきた」

 ありがとうの言葉が直史の肩にずどんと伸し掛かる。

「立派なシンデレラになって王子様と幸せになる機会を、ずっと待っていたぜ」

 顔を覆いっぱなしの直史の手を剥がし、興元は大切なものを包むように握る。
 興元の手は日々不良と肉体言語による対話に臨む直史よりも固く、少しだけ大きい。それが、興元曰くシンデレラストーリーの賜物であるというのなら、シンデレラの相手役に自分がスポットライトを当てられているというのなら、そんな童話は自分が――
 自身に降りかかる責任の重圧を粉砕するべく興元を睨もうとした直史は、その目をただまあるく見開いた。

「助けてくれたときから、時々見かける姿から、ずっとお前だけを好きになり続けた」

 緊張しているのか上ずった声と、眩しそうに細められて潤んだ目。嬉しそうに笑っているのに、泣きそうに下がった眉。
 どれもこれも、直史の知る四枝興元には存在しない。

「……俺の王子様、あなたが好きです」

 両手で握りしめられた直史の手に、興元はこつ、と額をぶつける。
 興元の顔は見えない。興元はもう何も言わない。
 興元の手は、無性に熱かった。
 相変わらず興元の顔は見えない。見えなくて助かった、と直史は思う。
 自分は興元を好きになる。
 そんな確信を抱いた瞬間の顔なんて、直史は見られたくなかったのだ。

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あきゅろす。
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