小説
十話



 報告を聞いたイルミナは、リムとふたりきりとなった部屋で愛らしい顔をむっすりと顰める。僅かに尖った唇に苦笑するリムだが、自身も聞いた内容を思い返せば眉間に皺が寄った。

「渦炎が監視に気付かぬとは思えぬが……それは妾の買い被りであったと思うか?」
「いえ、俺もそうは思いませんよ」
「で、あるか。なれば、何故奴らはああもいつも通りなのだ。気づいていないふりというわけでもあるまい」

 現在探らせているGVの動向はあまりにも変わったところがない。いや、密偵ですらついていくのに苦労する魔物の生息地にも気軽に向かうのは変わっていないとはいわないが。
 迷宮は入ったところで待ち伏せされている可能性があるため今のところ出てくるのを待つのみだが、相手の出方を窺うためにも一度敢えて捕まるべきかともイルミナは考える。

「そもそもじゃ……監視に気づきながら風呂屋? 武器どころか防具もない完全なる無防備を晒すとは、いっそ挑発でもしておるのか」

 手元の扇子を揺らしたイルミナはぱちん、と音を立てて扇子を閉じる。
 じり、とイルミナのなかで苛立ちの気配が燻ったのを感じて、リムはイルミナの好む茶を淹れ始める。騎士である彼の仕事ではないが、イルミナの世話をすることはリムにとって吝かではない。許されるなら、本来それを行うべきひとの仕事を取り上げてしまうことになっても構わないほどだ。
 閉じた扇子を手のひらにとん、とん、と軽く打ちながらイルミナは虚空を睨み、それからため息を吐く。

「彼奴らは貴族街の店で装備を整えておるのであったな」
「まさか、受取日に向かうなんて仰いませんよね」
「妾はそこまで愚かではないよ」

 ヴィオレが何者であるか、イルミナのことをなにか知っているのか、それを調べているのにどうしてイルミナ自身がヴィオレと接触しに行くというのか。もし、ヴィオレが企みあるのであれば危険にもほどがある。
 リム自身、イルミナがそんな浅慮を晒すとは思っていない。
 茶をテーブルに置いて、リムはイルミナの前に膝を突き尊き主を仰ぎ見る。
 薄紫の目は僅かな憂鬱に陰っていて、歳相応に分別がなく、背負うものなき身分でなければ違った輝きをもっていたはずだとリムは唇を噛む。
 そうであれば、自身と出会うこともなかったのだろうが、リムはイルミナが幸せであるのなら自身の不幸も嘆きもどうでもよかった。

「貴女はただ、俺に下知されればいい。貴女の望みは俺が叶えます」

 リムの真摯な言葉にイルミナは年齢にそぐわぬ老成した笑みを見せる。
 この騎士に命じれば、ほんとうにどんなことも実行しようとすることをイルミナは知っている。
 泣いて駄々をこねずとも、たった一言でいい。その一言で破滅が約束された束の間の幸福を得られる。
 イルミナは分かっていた。
 だからこそ、イルミナはリムの主人として分別を備えて理知的であることで己を律しなくてはならない。それを苦痛とも枷とも思わない。リムがイルミナの幸いを願うように、イルミナとてリムの幸いとリムの主として相応しき己を願っているのだ。
 願うからこそ、確信している。

「リム・ファーンよ。そなたは嘘つきよな」
「……イルミナ様、もう少し空気を読んでくださいませんかねえ」

 今の雰囲気でその言葉はいただけないとため息を吐くリムの頭を、イルミナの小さな手がてむてむと撫でる。自身とは正反対ともいえる黒髪がイルミナは好きだ。それに、普段はどうしても見上げて手が届かないので、リムの頭を見下ろして撫でられるというのは気分がいい。

「ふふふ、リム・ファーンよ……そなたは絶対に妾の言葉に従わぬときがくるよ」

 その瞬間がイルミナという個人にとって、どれほど幸福なことか。
 それを退けた瞬間がリムにとって、どれほど耐え難い悲痛であることか。
 己の忠節損なうようなことを言うイルミナにリムが一瞬目元を歪めるが、反射でそんなことはないのだと言い返すほど彼は浅薄でも主の聡明さを敬愛していないわけでもなかった。

「主、ひとついいですか」
「なんぞ」

 イルミナはリムの頭から手を離し、行儀よく膝の上で重ねる。
 幼くとも気高い淑女。
 青き血をその身に巡らせ、王家の重い鎖で縛り付けられた哀れなこども。

「『そのとき』の俺は、貴女に失望される存在ですか」

 薄紫の目をまあるくさせてから、イルミナの唇がほころんだ。
 くすくすと笑う声は小鳥が歌うようで、愛らしい容姿と相俟って歌い人形のようでさえある。

「――いいえ」

 小さな手でリムの頬を包み、イルミナは自身の額をリムと合わせて目を閉じる。
 人前であったならここまでの接触は決して許されない。そこに挟まれた感情がどんなものであったとしても、だ。

「いいえ、リム・ファーン。我が騎士、妾だけの騎士よ。妾がそなたに失望することなどない。たとえ、そなたが妾の望まぬ行いをしようとも、そなたの心が妾から離れることなどありえない。で、あるならば、そなたの全てを受け入れずしてなにが主かよ」

 イルミナは赦す。
 リムのすべてを赦す。
 リムがイルミナを憎んだとしても、赦せないのだと叫ぶ日がきたとしても、イルミナはリムの全てを赦す。
 けれど、既に覚悟しているその日、その瞬間を望んでいるわけでもないのだ。
 王女として覚悟し、受け入れている。
 イルミナとして堪え、諦めきれない。
 言葉にしてしまえばリムがきっと握り締めた拳で自身を傷つけてしまうから、リムにだけは言えないのだけれど。

(そなたはそなたの在り方で以って、既に幾度となく妾を救ってくれているのよ)

 頭を抱きしめられたことで流石に硬直するリムに、イルミナは心からの感謝を湛えた。
 十秒にも見たない時間の接触、離れたふたりが言葉もなくもとの体勢をとったときドアがノックされる。
 届いたのはリフショールでの仔細を綴った知らせ。
 リフショールに襲来したドラゴンは国が派遣した兵と協力した冒険者により討伐され、魔力濃度の変動も落ち着き当面の危機を脱したという現状から更に細かくなにがあったのかがまとめられた報告書を読み、イルミナとリムは顔を見合わせる。

「個人に手柄を集約させるわけにはいかぬからこそであろうが……これでは渦炎のみの手柄と見て相違ないの」
「ですが、あのリフショールに記載されているような防衛……迎撃魔法は敷かれておりません」
「古代種へ向かったという魔法の砲撃、リフショールからだそうだが古代種のブレスを貫通するほどの魔法を使えるものがどれほどおるやら……」

 テーブルへ置いた報告書を小さな手で軽く叩き、睨むほどの鋭さでイルミナはリムを見やる。

「目的の重要性が変わった。彼の魔法使い、妾自身を餌にしてでも見極める必要がある」

 リフショールに広域迎撃魔法を敷いたもの、古代種のブレスを打ち負かしたもの、どれも捨て置くことなどできない。そして、それはどちらも同一人物である可能性が高いのだ。渦炎が並び立つことを認めた魔法使いである可能性が高いのだ。
 その意思、意図がどこへ向かっているのか、明らかにしないままであるのはあまりにも危険。

「父上はどうであるか分からぬが、陛下なればご理解いただけるであろう」

 イルミナは椅子から下りて、そっと両の頬を手で包む。むにっむにっとまろい頬を揉みほぐす仕草はかわいらしいが、本人の顔は真面目だ。満足するまで揉んだあと、イルミナはリムを見上げる。

「……どうじゃ?」

 にぱあっと無邪気で愛らしい少女そのものの顔に満面の笑みを咲かせるイルミナへ、リムは横を向いて吹き出したあと真面目な顔でイルミナへ向き直る。

「相変わらずの猫かぶりです」
「よし、では行くぞ」

 歩き方も心持ちお転婆な童女らしく、イルミナはリムの手を引っ張るようにして部屋を出ていく。
 すれ違う下々はみな、愛らしくまだまだ稚いイルミナ殿下を微笑ましそうに、あるいは困った顔を礼に伏せて見送った。
 ただ、彼女の魔法の教師でもある宮廷魔法使いの一人は、奇妙に冷めた眼差しを向けていたけれど。

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あきゅろす。
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