小説
九話
ヴィオレが転移した先の世界には魔物と呼ばれる生き物がいて、ヴィオレの世界でも動物の毛皮が重用されたように魔物が素材としてありがたがられている。
しかも、魔物はヴィオレの世界では術式を刻まなければならない部分が素材段階で備わっているものも多く、戦うことを生業としない一般人には縁が薄くとも戦士にとっては常に良いものが求められていた。
当然ながら良い素材は値が張るし、加工においてもそれは然り。戦士がそれらを賄えるほど稼ぐには多くを戦い、死線を潜ることになる。
良い装備をまとえるものは、それだけで一流に近いのだ。
さて、この世界において下着というものは一般的ではない。
前述した通り素材そのものが優れており、下着という衛生や体温調節などを目的とした衣類が必要ではないのだ。
そうはいっても存在しないわけではない。優れた素材が必要になるのは過酷な環境に身を置くことの多い戦士であり、一般人は魔物の素材を使用していない衣類をまとっている。魔物の素材はちょっとした高級品だ。戦士でないのなら金持ち御用達である。
つまりは、魔物の素材を使った衣類をまとうべき戦士でありながら下着などというものが必要になる装備をまとっているのは、良い装備を得ることができないものとして下に見られるのだ。引いては、下着を使用しているというだけで笑いの種にすらなるというのがこの世界における風潮である。
例外として戦士のなかにも下着を必要とするものはいる。
新兵だ。
彼らが初めて戦場に送り込まれたとき、その戦場が過酷であればあるほど悲惨な事態になる。主に下半身が。不衛生は戦場では軽視できない問題だ。新兵の不衛生極まりない下半身をどうこうできる環境が保証されていないのが戦場というもので、彼らには特別な……あるいは懐かしい下着の着用が義務付けられている。
おむつだ。
環境によっては古参兵とておむつを使用するが、新兵は義務化されていた。破れば当然厳罰がある。
この辺りはヴィオレの世界でもおなじみといえるのだが、しかし、それにしても一般的な認識の差異がヴィオレには衝撃だ。
「なんで下着身につけないの? 引くわ」と思うヴィオレに対して、この世界は「なんで下着身につけてんの? 引くわ」と返すわけである。
これを幸いといっていいのかヴィオレには分からないが、この世界における下着とヴィオレが身につけている元の世界でも特殊な部類のアンダースーツでは随分形が違うので他の客からは下着として認識されず、ヴィオレの事情を知るグレンもまた「そういう違いもあるのか」で済ませた。これでもし渦炎のパーティにして魔法無効化の性質を持つ騎士団長の息子を軽く転がした魔法使いが下着を身につけていると知られれば、それなりの話題になったことだろう。ギルドに行った瞬間想像したくもない視線の集中砲火間違いなしだ。他者の視線を意に介さぬことの多いヴィオレだが、自身の不名誉に関しては敏感肌である。
「……ひとつ、よいか」
「あ?」
噴流式泡風呂でほどよく体を解されながら、ヴィオレは後ろに流した前髪を押さえるように頭へタオルを乗せた。グレンは隣で一番噴流の勢いが強い部分にこゆるぎもせず浸かっている。長い赤髪は洗われたあとにぐるぐると巻かれ、一本かんざしというのも烏滸がましい鉄串のようなもので留められていた。
「あの女性は無防備な装いをしておるであろう」
「にょしょう、な。確かにあの格好はねえわな」
グレンにだけ聞き取れるように制御をかけた声でヴィオレは続ける。
「私は下着を身につけておらぬことそのものが衝撃であったのだが、こちらでは普通のことなのか」
「女であってもノーパンの冒険者はざらにいるが、そういう場合はあんな格好しねえよ」
「……では、そなたが『ない』と言ったのは」
「あの格好じゃ急所丸出しだろうが。加えて女ならそっち方面でも無防備すぎる。冒険者もの鉄板のエロ本じゃねえが、盗賊なり発情期のオークなりに即行ぶち犯される可能性があるぞ」
きっちり下衣を覆っていれば素材によっては引き裂くことも難しく、時間を稼ぐことができる。だが、クウランクッカの場合は捲ればいいどころの話ではない。
ヴィオレは遠くへ向かった視線を引き戻すように、湯を掬った手でぱしゃん、と顔を覆う。
こんな部分で文化の違いに直面するとは思わなかったので、ヴィオレは死角から爆竹放り込まれた心地だ。
「まあ、良かったじゃねえか」
「……なにがだ」
「娼館行ってから判明するよかいいだろ」
ヴィオレは頭上から取り上げたタオルでグレンの顔面を叩きにいくが、グレンのかざした手に発止と当たるだけで終わる。湯の中に端が落ちる前にグレンが引いて畳みなおすと、ふたたびヴィオレの頭に乗せた。
「左様なところに赴く予定なぞないわ」
「……そういや初恋引き摺ってるのか?」
「なにを思ってそこへ着地したのか、次第によってはこの風呂煮え湯に変えてそなたで出汁をとるぞ」
初恋拗らせて操をたてるほどヴィオレは青くない。
「そなたは時折行っているようだが……幼い頃に気になる童女をからかい嫌われたことなどあるのか」
「ねえよ」
「では、周辺に美人で評判の年上女性の前で背伸びをした口であるか」
「お前、俺に可愛気でも求めてんのか」
「……斯様な思い出でもあれば愉快と思うたが、そう言われると不毛よな」
赤ん坊まで遡ってようやく見いだせるかというほど、グレンの可愛気は希少だ。
成長しきった横顔をヴィオレが覗っても鋭いつり目がすいと流し寄越されるだけで、やはり可愛気などちっともない。
「お前は幼馴染を大事にしすぎてなにも言わなそうなタイプだよな」
グレンの口角が上がる。
「……鋭い男は疎まれようぞ」
ヴィオレは苦笑して、肩まで湯に浸かった。
こんなにもゆっくりと風呂を楽しむのは、久しぶりである。
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