小説
いつかのどこかのだれかがなくしたなにか〈ヘリオトロープ〉



 昼休み、気分転換を兼ねて外へ出たりデスクで持参した弁当を食べたりと社員は思いおもいに過ごす。早々に食べ終えて本を読み始めたりするものもいるのだが、そのうちの一人が読んでいる本に他の社員が声を上げた。

「それ、今度映画化するホラーじゃん」
「おう。ジャパニーズホラー最高」
「お前そういうの好きなの?」
「夏場はやっぱ心霊だろ」

 短篇集だが、秀逸な一遍を他の話と混ぜて映画化するという心霊ホラー小説は、日常が段々と変わっていく様が非常に精神にくると評判である。
 一度読むと途中で放棄するのも怖く、覗きこんでしまった社員と一緒に読んでいれば他の社員もなんだなんだと集まり、数人一緒に一冊の本を読むという状況が出来上がった。
 最初に読んでいた社員が既に最後の一遍を読んでいたところなので、本が閉じられるのは早い。しかし、まるで長時間息を詰めていたかのようにその場にいた人間は息を吐き出した。

「あー、これはくるわ。映画気になるけど一人じゃ絶対いかない」
「映画館とか暗いし画面大きいしね」
「うわ、俺もう自分の周囲が気になってくる。なんか変化ないか神経質になりそう」
「こういうの見たら寄ってくるって言いますよねー」
「そういえばこの前――」

 昼休みの時間が余っているせいか、自分たちの経験したちょっと不気味な出来事を話し始める社員たち。小説や映画のような人知の及ばない出来事など早々起きるわけもないが「あれはなんだったのか?」という違和感や引っ掛かりが残る経験を持つ人間は少なくない。

「でね、降りてきた階段を振り返ったら、階段なんてなか――」
「そろそろ昼休みが終わりますよ」

 数人一斉に叫び声。
 突然かかった声に振り向けば、女性的な美貌を誇る上司がぎっちりと眉間に皺を寄せて立っていた。

「し、室長、いつの間に……」
「あなた方が盛り上がっている間に戻りました」

 先ほどまで出ていた上司は端的に答えると、自身のデスクへ向かう。彼の指摘通り、時計を見れば昼休みがそろそろ終了するところだった。だが、話しすぎたと慌てるほどのことでもない。上司も時間を忘れないようにと注意を促すだけのつもりだったのだろう。
 それにしても心臓に悪い登場だった、と各々心臓を押さえる社員だったが、不意に一人が上司へ話しかける。

「室長は不思議な体験とかいっそ完璧心霊体験とかありますか?」

 言動振る舞いから現実主義者にしか見えない上司へなんたる、といっそ尊敬の眼差しが送られるも一度放った言葉は戻らず、上司からの返答を待つしかない。
 無理だろ、冷たい目で見られて終了だろ、と恐々するなか、上司は意外なことを口にする。

「心霊現象などは知りませんが、不思議な体験らしいものならありますよ」

 まさか、という思いは一気に好奇心へ転換する。
 こぞってなにがあった、どういうものだと上司のデスクへ押し寄せるが、彼はやはり上司であった。

「話すほどの時間はありません」
「じゃあ! 終業後に!」

 声を揃える社員に上司は嫌そうな顔をするが、そんなもので尻込みしていたら上司の部下などやっていられない。
 いつか「別に罵倒されているわけでも机叩かれたりの威圧もないのに、どうして室長の叱責ってあんなに怖いんだろう」と社員たちが話し合ったことがある。そのときは答えが出なかったのだが、後日まったく別の話題で「絶対殺してやるって決意して歩いているひとには野生動物も分別つかない小さい子や知的障害者も近づかない率が高いらしい」という話が上がった際に、上司もこれに類似するのでは、と誰かが言った。「ミスしやがって殺してやる」と内心で殺意を滾らせているのでは、と。「ははは、まさか。あんなに冷静なひとが」と笑うも「冷静だから実行はしてないんじゃね?」と言われれば全員が黙るしかない。
 自分たちに暫定殺意を持つ上司、普通ならばなるべく関わるべきではないが、社員たちは「怖くない、つまり殺気を放っていない。セーフ!」というチキンレーサーぶりを発揮している。
 そんな頭のおかしい社員たちだ、上司の嫌そうな顔をセーフと判断したのなら引くわけがない。
 己がとんでもない風評被害被っているとは知らない上司だが、この妙ちきりんな社員たちのことは分かっているので渋々頷いた。
 楽しみを得た社員たちは張り切って仕事に取り組み、全員が笑顔で就業時間を迎える。上司の顔はとことん呆れていた。

「で、どんなのですか!」
「……二十八の頃でしょうか。風が強い日でした。外を歩いていたら左目にゴミが入ったようで痛みが走り、咄嗟に片手で抑えたんです。そうしたら視界が真っ暗になりました」
「それで?」
「それだけです」
「……え?」

 拍子抜けしたような顔を社員たちが晒して数秒、上司は話が終わったものとして立ち上がり、いつも通り引き止めるのを躊躇うほどに真っ直ぐな背筋で歩いていってしまった。思わず無言で見送った社員たちはさらに数秒経ってから「あ!」と閃いたように声を上げる。



「なに、そんな話したのぉ?」

 あやめは風呂あがりの美由へレモネードを渡しながら眉を上げる。

「確かに不思議っつぅか、変っつぅか……いや、不思議だな。だってなぁ……左目が痛んだなら左目を押さえたんだろ」

 ――なんで右目の視界まで暗くなるんだよ。

「でしょう? すぐに戻ったので気のせいだったのかもしれませんけど……なんでしょうね、あれ」

 そう言ってレモネードを飲む美由のけろりとした顔は、ひとつの傷すらなく美しかった。

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あきゅろす。
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